この にそえて ・・・ no.25


   

 水軍・・・ 芸予諸島に村上氏という海の名族がいた。来島、能島、因島の三島を拠点とする三島村上水軍は

   海域を航行する船の警護や統制はては戦国期の毛利、織田豊臣勢の海戦にも大きく加担して、更に朝鮮出兵

   時にも船を出した。 水軍というからには、当然軍船を持っていただろうが、もちろん当時は動力の無い帆船か手

   漕ぎの小舟で、戦闘は弓矢か船艇を寄せての槍抜刀の接近戦であったのだろう。この当時朝鮮では「亀甲船」

   と呼ばれる軍船があり、焼き石等の攻撃を防ぐため、上部を堅いカシ材などでドーム状に覆っている。 巨大なウ

   ミガメのような異様で、日本の水軍もこれには正に手も足も出なかったのだろうか。村上水軍は徳川期には衰亡

   して、やがては幕末となってから、にわかに海の軍備状況が急転する。嘉永6年(1853)の黒船来航は、宇宙

   船の襲来程のショックを人々に与えたのだろう。 もう帆船や手漕ぎ船で接近戦をする時代では無かった。幕府

   はもちろんのこと、薩摩藩や宇和島藩まで、こぞって蒸気船を研究し始め、その20年後の明治6年には横須賀

   で1460トン、1400馬力の木造外車汽走艦を建造し、さらに数年で全鉄鋼の八重山という軍艦を造り上げて、

   とうとう世界の水準にまで追いついた。 その技術革新の驚異的なスピードは、黒船ショックの延長だったとも言

   われる。同じ瀬戸内にある呉は、一時東洋一の軍港となって、芸予海峡にも山のような巨大軍艦が悠々と行き

   来したのだろう。かつては瀬戸内にその名をとどろかせた水軍魂も、大船団とともに世界の海へと押し出してい

   ったのだろうが、それも悲哀とともに、全ては歴史上の一コマになってしまった。青翠の海と島々の風景は今も

   大変美しい。   


禅興寺の楠 目通り7.25m/樹高20m/枝張り30m/愛媛県越智郡伯方町木浦・禅興寺

《 伯方島の小高い墓地にあり、かつて能島村上氏の菩提寺で、村上雅房公の五輪塔がある 》