この 樹 にそえて ・・・ no.26
仏殿城・・・ 伊予の東端、川之江市の仏殿城(川之江城)は、興国一年(1340)に土肥三郎左衛門義昌をも
って守備したのが初めとされる。元亀三年(1372)には、伊予高縄から来た妻鳥氏の采女正友春によって守備
されたがこの時、阿波の細川氏を倒した家臣の三好氏が、織田信長の命を受けて伊予攻略を進めていた。 伊
予を治める河野氏は軍勢をもってこれを退け、ひとまずは仏殿城を守ったが相次いで土佐から長曽我部元親の
伊予侵攻軍が迫ってきた。 長曽我部の勢いを見た妻鳥氏は、河野氏を裏切って長曽我部氏と密通する。 こ
れを知った河野氏は憤慨し、河上但馬守安勝らをもって仏殿城を攻略し、妻鳥采女氏を滅ぼした。 時、天正七
年(1579)、城中本丸では五十余人の将兵が自害して果てたとされる。 (諸説あり)
これより河上但馬守安勝が仏殿城を治める事となるが、ここでこの地の南部を有する轟城の大西備中守元武
という人物が現れる。元は阿波の白地(池田町あたり)にいた人のようだが、長曽我部の侵攻等で轟城にある。
阿・予に五万石を有し、川之江の南部もほぼ手中にして、目と鼻の先にある仏殿城をどうにかして攻略したか
った。 天正四年(1575)睦月、それまでに度々諍いのあった両氏だが、大西備中守は一策を労して配下の
秋山嘉平を河上但馬守に近づけ、闇に乗じてこれを討ち取らせた。突然主君の悲報を聞いた仏殿城はにわか
に浮き足立ち、そこへ一気に大西方の軍勢が攻め込んできたので全く防ぎようがない。決死の覚悟で応戦す
るも、次々と敵兵が城中になだれ込んで将兵は悉く闘死した。 この時の河上但馬守の息女、年姫の悲劇が
後々まで語り伝えられる。
歳16、17にして心清く花のごとし。 家来にも慕われた麗しき若姫は、惨状を極める城内で四方を敵兵に取り
囲まれて、ついに進退きわまった。 既に頼りの父君は亡く、落ち延びるにもこころもとない。
「仏神も哀れとおぼし召さば、死出の旅路で父上のお供をなさし給え」
意を定めた姫は合掌して、はるか高き櫓下より海中に身を投じ、自ら若い命を散らせた。その後、仏殿城は秀
吉の四国征伐以後廃城となる。昭和六年、この地を訪れた歌人が年姫の悲劇に感じ入り一首の詩を詠んだ。
姫が嶽 海に身投ぐるいや果ての うまして入りぬ 大名の娘は 与謝野晶子
臥竜の松 目通り2.4m/樹高4.8m/枝張り21.6m/愛媛県四国中央川之江町・佛法寺
《 地を這う竜のようで、伊予路最後の名松とも思える。寺には仏殿城城主、河上但馬守安勝公の墓とその妻の位牌がある 》