part.7           


 第三回


      
砂丘の一日     
  これは、ぎりぎりの予算で風景撮影に出かけ、丸一日の間にどれだけバラエティの  
  ある写真が撮れるだろうかという私の体験である。
      
 丹平写真倶楽部の2年目の終わりには、スランプ気味になっていた。私はその打開のため
に鳥取砂丘行きを思いついた。だが資金がない。何とか都合できるのは一泊ぐらいである。
切り詰めた旅行で、できるだけたくさん良い写真を撮りたい。そこで、一日でどれだけの写
真が撮れるか、どんな写真を撮るべきか、何を撮るべきか思案し始めた。
       
 その頃、例会では2人の先輩が続けて鳥取砂丘の作品を出していた。その作品はオレンジ
フィルタ−で真黒に落とされた空の下に、微妙な陰影をもつ風紋を、鮮やかで神秘的にさえ
見せた全紙であった。                               
 例によって私は質問した。「この模様はどの程度の嵐でできるものだろうか。」と聞くと
「とんでもない、4〜5mの風が最適で、嵐では砂は吹き飛んでしまって風紋はできない」
といわれる。これは良い参考になると思った。
        
 しかし、2、3日もすると、先輩と同じものを撮ってもしようがない。世界にはゴビやサ
ハラといったもつとスケ−ルの大きいものもある。このたぐいはやめておこう。     
 とにかく体当たりの五感でストレ−トに表現するしかない、全身を目にして被写体を探せ
ばと思い始めた。でも、砂丘は行ったこともなくスケ−ルも分からずに行くところ、何も撮
れなかったらという心配もあって、砂丘の静物写真は珍しいのではなかろうかと、手元のマ
ンドリンも抱えて出発した。
       
 砂丘は広かった。病後の余波で時々微熱のでる体には、こたえた。疲労困憊して休むうち
にすぐ夕暮れがやって来た。私は砂丘の日没の美しさにみとれていたが、ふと閃いて三脚を
立て直した。それは砂丘のモニュメントとしての、同行の妻のトルソ−であった。
        
 この一枚の作品「ヌ−ド」が、私をプロ写真家への道を歩ませるキッカケになろうとは思
いもよらぬことであった。運命とは不思議なもので、この一枚は持参した最後のフィルムの
最後のたった一駒で、もうフィルムは巻き上がらなかった。
        
 この撮影行の様子は、各作品の解説で、順を追って述べてみたい。




                 防砂林                1951









防砂林

  何の案内書も見ずにやってきた砂丘は、普通なら砂丘の高い方を目指すところだが、私は
へそ曲がりのように、誰も行く人をみかけない周辺に向かって歩きだした。
     
 そこで行きあたったのがこの砂防林である。砂丘が陸地の奥へ奥へと移動するのを防ぐた
めに囲いをつけて松の苗木が植えてある。遠くには成長した松林が延々とつながっている。
     
 この風景は、この写真全体を左へ裏返して、左側にくっつけたようなシンメトリ−な現場
である。つまり、すぐ目の前の白い砂の道をはさんで、左右対称になっていた。
 はじめ、この対照的な風景を1、2枚撮ったがあまりに平凡で、ちょっと考えてから、右
側だけで構成することにした。
 画面は、密度を損なわないで単純化するほど強くなる。延々と右上端へ広がりつづく砂丘
の大きさをだすには、左右対称の構成よりこの方が斬新でよいと判断したわけである。
     
 こうした構成は、私にとっても珍らしい。子供のころからの好奇心の発展からと思うが、
何でも同じことを繰り返すのが本能的に嫌いな私は、時折、とんでもないといつた構成をし
てみるが、撮影現場でその良否の判断がつかない時は、何枚かをとっておき、第2のチャン
スにまかせる。写真には2回のチャンスがあるというのは、撮影時と印画のトリミング時の
ことをいう。
     
 私のやり方は、気にいったものを八ツ切か六ツ切に引伸ばしL型のトリミング・コ−ナ−
でいろいろトリミングをやってみるが、ギリギリのきびしいトリミングをしたものは迷うこ
とがある。こんな時は写真の天地を逆さに見たり横画を縦画で見たり、知らぬ間にぐるぐる
回している。もちろん細部を見ていたらそれにとらわれるから細部は無視して、マッスとし
て骨組みを見るわけだ。こうしてどちらから見てもバランスがよいものは、それでまず間違
いはない。                                    
 このことは抽象画を考えればよくわかる。サインがなければどちらが天地かわからぬよう
なものが抽象画ではあたり前、どちらから見てもよいのと同様である。
 学校での実技の講義のようになったが、参考までに。



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               真昼の海辺             1951










真昼の海辺

  

 砂丘を端へ端へと歩くうちに、もうこの辺は砂丘ではないと思われるほど繁茂した植物の
集団にであった。後に植物図鑑で見ると、マメ科のカワラケツメイという植物によくにてい
たが、いまだに確認していない。植物名に弱い私にとっては、いずれにしても雑草である。
      
 白い砂にネムに似たような葉の影がクッキリとおち、中心にまっすぐ伸びた植物が、ひっ
そりと立っている。例によって見つめ始めると納得がゆくまで動かぬ私の視線には、この7
月の強い日差しと黒い影の奥は、何かが潜んでいるシャングルようで、その幻想は私が蟻の
大きさになった感じかもしれない。私にはこの囲まれた僅かな空間が生き生きとみえた。 
     
 物音ひとつしない、時間が静止したような、砂丘の真昼の実感をこんな片隅で見ているよ
うな気がしたものである。実に平凡な風景だと思うが、こんな風景も私の好みである。 
      
 ところで、今回の解説の中で至極平凡な風景や雑草が好きだとたびたびといってきたが、
そのことに少しふれておきたい。
 その究極は雑草にみる多様性、柔軟性、ゆとり、生命力への親近感にあるように思う。も
ちろん美しい花の精緻、優雅さもすきだが、雑草という一見平凡に見られている植物へのお
もいは別種のものである。                             
     
 すこし理屈めくが、生物の進化に遺伝子の偶然的な突然変異が必要だとは、よく知られて
いる。遺伝子がかわらなければ環境がかわるとその生物は適応できず死滅する。突然変異が
適当におこって変わり者が適度に存在すると、環境の変化で多数派が適応できなくても、変
わり者のうちの誰かが適応して子孫をふやしつづける。                
       
  雑草は、構成メンバ−がバラエティに富み環境の変化に柔軟に対処する。       
 私は人間にも人それぞれの人生があり、多くの可能性を秘めた多様性には情報が多く、ざ
っくばらんにいえば、柔軟なある種のでたらめさには汲めどもつきぬ魅力があると思ってき
た。そんな考え方をもちつづけたいという願いを、雑草のエネルギ−に見るのであろう。 
 このことは、また創作を志す者が忘れてはならぬことでもあると思う。






             マンドリンのある風景           1951








マンドリンのある風景

 ようやく、砂丘らしい中心へ移動した。
 この辺で、持ってきたマンドリンを写すことにした。テ−マは砂丘の静物写真である。戸
外での静物写真は、かねてから一度はやってみたいと思っていたので張りきった。    
     
 しばらく、マンドリンを砂丘の高い山に置いたり、谷に持つていつたり、立てたり、寝か
したりと長々とやっていたが、ただ砂だけの場所では、私に構成力がないのか、どうにも落
ちつかない。
 思案の末がこの風景である。何という植物か知らないが、砂丘を横へ横へとはうように延
びた木があり、その曲がり具合と上にピンピン出ている枝が、何となくマンドリンの形と類
似性があって舞台のように見えてきた。私はマンドリンをそっとおいた。ただそれだけで、
やっとシャッタ−をきることができた。        
 やや甘いロマンティシズムのようだが、舞台がおもしろく、こんな風景もあってよかろう
とも思った。しかしこの時、私は「私の写真の限界は、私自身のなかにある。私に見えるの
は、自分と等身大のものだけだ。」という言葉を思いだしていた。           
      
 絵画では静物画が多いが、題材は果物、グラス、瓶、パン、ナイフ、花器に活けられた花
など、それも卓上のものが多いが、ゴッホの「ひまわり」くらい強烈なものでなければ印象
に残らない。そんなことから私は非日常的な戸外での静物写真に興味をもっようになったが
未だに世界的な秀作はすくない。                          
 プロになり広告写真をスタジオで撮る仕事は、毎日が平凡な静物写真撮影のようなもの。
それは私が若い頃から夢見たエキセントリックな静物写真とは雲泥の差がある。多忙にまぎ
れたといえ、いまだに果たさなかったことを残念におもうことがある。
     
 たとえ平凡な花器や瓶などにいけた平凡な花でも、非日常的な戸外の或るドラスティツク
なシチュエ−ションでは、晴天の霹歴といったシュ−ルな作品ができるとおもう。戸外にお
ける静物写真は穴場といえる分野である。
                       (第8回全日本写真連盟展出品 入選)






               砂丘の花              1951







砂丘の花

  7月の砂丘、快晴の真昼。私は砂丘は白く輝くものとばかりおもっていたが、現実の砂丘
の稜線のハイライトはピンクに見えた。後に、砂は真っ白でなく、すこし色がついているの
でそのせいであろうときいた。
     
 一応、3枚の写真を撮った私は、次回のロケハンをかねて先輩たちが風紋を撮ったとおも
われる場所にやってきたが、足跡だらけでどうしようもない。わずかにそれらしい模様のあ
るところは図柄がわるい。私のように適当にやって来たのでは、よほどの幸運がない限り撮
れないことがよくわかった。先輩たちは、風の早さと天候を入念に計算し、誰も足を踏み入
れない早朝からやって来たのだろう。
 私ならどうするかを想像してみたが、それは冬景色でそれも薄雪が風紋の凹凸の美しさを
お化粧したシ−ンであったが、そんなにうまく行くものかともおもった。
 砂丘の山に上り、浜辺に下りて、始めて見た日本海に足を浸してみた。
      
 もう午後になった。日陰のまったくない砂丘。日傘をさして休んでいると、すこし先のほ
うに枯れ木のようなものがあるのに気がついた。
     
 近くで見ると、それはすさまじい花であった。
 茎は折れ曲がり、半分から上は干からびているが、下半分は太く、何時からここに耐えて
生きてきたのであろう。一輪だけ花が咲いている。新しい葉も半分は枯れ、上の方にすこし
だけ青い小さな葉が生きていた。                          
      
 砂丘の中でもあまり低地でないところでどうして水分を吸い上げ、いつから生きのびてき
たのだろうと不思議におもう以上に、その生命力に涙が出るような感動を覚えた。私はこん
な風景に弱い。多分私が長い闘病生活を送ってきたこともあろう。
      
この花は、植物図鑑で見ると、セリ科の多年草、ハマボウフウという花らしい。鳥取市の
観光課にきくとこの砂丘の植物図鑑にはこの名前があるという。






          ヌード         1951









    ヌード 鳥取砂丘にて


  この作品の解説は、これが口絵として掲載された写真サロン複刊号の作者感想欄に  
  寄せた一文が、私の26歳当時の心境をそのまま表わしているとおもうので、原文  
  のまま掲載する。
      
私は自己の内に感じるどうにもならない人間の生きている諸々の本能的な力、溶岩流のよう
なものを、そのまま赤裸々に流出させたいと希う。未熟な私にとっては、その端々に理屈っ
ぽい空虚な風が吹き通れば、幾らか作品として固定できるかとも思う。プリミティヴな力を
もち、絶えず新しい感覚を呼び起こさせる天平の仏像群の謎を考えていたころ、スランプ転
換にもと鳥取砂丘へ発った。
     
この砂丘は、東西4里、南北1里といわれる。7月の猛暑、燃えるような砂丘の真昼。はか
り知れぬ砂の堆積、足に頼るより距離感のない広さ。心をととのえる術も知らず、意に満た
ぬ撮影を続け、ようやく傾く太陽に、刻々走る砂丘の影を追って疲労困憊した。
       
濃くはっきりした砂丘の影法師は、だんだん拡がり薄れ、既に黒い日本海に日は没した。砂
丘の夜は一斉にやって来る。覆いかぶさるような夕闇の中で、最後の脚を立てた一枚がこの
作品である。都会では見られない天地のつながるようなこの砂丘の一刻は、忘れ難いもので
ある。
                    (1951.7.25 日没直後 撮影)
 
  この題名は、ヌ−ドとなっているが、私の意図は砂丘のモニュメントとしてのトル  
  ソ−のような表現である。                           
        
  当時、屋外でのヌ−ドにはエドワ−ド・ウエストンなどが砂漠で撮った優れた作品
  があった。しかし、こうした風景の中におけるモニュメント的な表現のヌ−ドはな
  かった。日没後の砂丘でのドラスティックなこの作品が、その後高い評価をうけた
  のは、それも一因である。
      
  この頃は、まだストロボなどがない時代で、日没後マグネシュウムという閃光粉を
  発光させて撮ったものである。発光後、さらに1秒の露光をする間にモデルがすこ  
  し動いたので体の右側に黒い線ができ、それがソラリゼ−ションのような表現とな  
  りその効果もこの作品の印象を強めている。
      
  (丹平写真倶楽部展 安井賞。東京丹平展出品。 写真サロン複刊号 口絵掲載)
  (初期の代表作として世界各地で展示される)






私の記念すべき作品。

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