「雀百まで踊り忘れず」 玉井瑞夫のその昔....(第3回)        プロへのきっかけ


「奈良風景」 佐保山尭海
   
これは丹平写真倶楽部の会員で、一番親しく
していた佐保山氏の作品。
この作品は、1950年度の日本写真美術展
の観光部門で、総理大臣賞を受けた。   
東大寺大仏殿の大屋根の頂上に登り、上から
見た放射状の屋根瓦を前景として、中門から
入ってきた遍路姿の4人連れを写したもの。
題材は申し分なく、斬新な視角、スケ−ルの
大きい名作といわれた。
彼は東大寺塔頭宝珠院住職で、後に第209
世の管長になった。僧侶で彼ほどの名手はそ
の後、見かけない。






丹平で学んだもの

 私は「丹平写真倶楽部」に入会して、足掛け3年、わずか2年後には東京へ住まいを移し
たが、この短い間に丹平のベテランといわれる多くの方々の指導をうけるチャンスに恵まれ
た。ここまでは会の全体像をのべてきたが、実技面での物の見方、考え方ではどんな体験を
したか、とても書き切れないが、その一部をのべてみたい。




スランプを乗り切る
 私は中学時代に写真をはじめたが、スランプを知らなかった。ということは、単なる趣味
の範囲で向上心がなかったということになる。
     
 向上心が強いほどスランプも激しい。私は丹平に入って、わずか2年の間に2回のスラン
プを経験した。やっと写真誌初入選のアマチュアと丹平のプロ級との差は大変なものだが、
若くてまったく汚れていない感性は、丹平の空気を写し絵のように吸収し、ある程度までは
非常な早さで上達した。入会前の「5月の光」から入会後の「丘」までわずか5ケ月での作
品の変貌は、階段でいえば3段飛びほどの差である。                 
      
 良い被写体に恵まれ、予想外の良い作品ができて賞などうけると、もうこれ以上のものは
当分できそうにないと思つてしまう。しかし、ある日突然それ以上の作品ができて、さらに
上へ行くがこれは初歩的な最初の第1段階である。              
     
 会の平均的なレベルに近づくと、足ぶみをはじめてなかなか越えられずスランプになる。
ここで投げたら終わりだが、自分の目的を捨てず、諦めずで、積極的に動いていると、ある
日、突然変異のような偶然で、新らしい作品が生まれる。こうしたレベル・アップとスラン
プの繰り返しは、生物の進化における遺伝子の偶然的な突然変異のプロセスとにている。
     
 私は最初のスランプで、警官に注意されたことがある。スランプというのは、何を写して
も駄目のような気分になるらしく、どういうわけか卵を墨で真っ黒に塗り、木津川の川原で
撮っていたが、夜になってしまった。マグネシュウムを焚いて写していたら警官がやって来
て、もう変なことは止めて早く帰れという。                     
 黒塗りの生卵を何個も砂に叩きつけて写しているのは、どこかがおかしいと見らても仕方
がない。こんな写真が日本写真美術展に入選したのもどこかおかしいと思ったものである。
 2回目のスランプは、鳥取砂丘で解消した。
      
 最初のレベル・アップは、階段に例えれば予想外に高いステツプになるが、上がるにつれ
て等比級数的に伸びは小さくなりつつ上昇してゆく。私は、丹平に入ってスランプを知り、
対策として「捨てず、諦めず、動くこと」をモット−に丹平を卒業した。        




コツを覚えれば一事が万事
 
 これは、引伸ばしの話である。
 月例会に、例の砂丘の「ヌ−ド」を持ってゆくと、作品は良いが引伸ばしが悪いという。
ネガは確かにフィルム現像でのコントロ−ルの失敗で、周辺の肉のりがやや多く、私は焼き
込みをして調子を整え、まずまずと思っていたが、先輩たちの目は厳しい。まもなく丹平展
が始まるからプリントをやり直せ、これではみっともなくて出せないといわれる。    
      
 帰り道、隣を歩いていたリ−ダ−格の棚橋氏が、「もしよければ伸ばし直して自宅へ持っ
てくれば、見てあげるよ」といわれる。これは大変な助け船。氏はプリントの名人といわれ
ているベテランである。
                                   
 私は早速プリントをやり直して自宅へ持参したが、一目見るなり「調子が読めてない」と
いう。けげんな顔をしていると、とにかく上がって僕のやり方をよく見なさいという。
 初めて暗室で見るベテランの焼き込みや覆い焼きの手つきは手品師のようであり、感心し
ながら見ていると、「ホラ、じりじり焼けて行くだろう」という。どうやら名人には白い印
画紙に露光されて行く光の量を感じるらしい。とにかく恐れ入って帰宅した。
        
 次に持参したのもまた「ノ−」で、OKが出たのは全紙3ダ−スを消費してのただの1枚
で、貧乏所帯にはこたえた。しかし、1枚のネガを36枚も徹底して焼いたお陰で、私はプ
リントのコツを会得し、自分なりのノウハウをくわえ、以後は格段の進歩で自信を持てるよ
うになった。とことん「やればできる」これは撮影にも通じることであった。 




「奈良風景」の話

 この会で、私の一番近いところに住み、また親しくしていた佐保山尭海さんは、東大寺の
僧侶で彼の被写体は身辺のものが多かった。東大寺という場所は彼にとっては、我が庭を写
すようなものであろうが、その着眼点はいつもさすがといえるほど非凡であった。
    
 これは、その一例である。
『彼は、あの大仏殿の大屋根の頂上に登り、上から見た急勾配の放射状の屋根瓦を前景とし
て中門に向かってライカを構え、折よく入ってきた遍路姿の4人連れを狙い撃ちした。』と
言ってしまえば簡単だが、彼はこの風景にふさわしい点景を待って半日間、忍者のようにな
るべく身をかくして屋根の上にいたという。もし人目につけば、大騒ぎになったであろう。
      
 この「奈良風景」という作品は、1950年度の日本写真美術展の観光部門で、総理大臣
賞(副賞10万円)を受けた。地の利を得たとはいえ、彼があの危険な高い屋根の上へあが
るとは誰も予想せず、私もびっくりしたが度胸のいい彼のこと、なるほどと納得もした。
 この作品は、もちろん被写体も申し分なく、斬新な視角、スケ−ルの大きい名作といわれ
た。(彼はこのコンテストのあることを知った時、さんざん考えたあげく、このプランを思
いついたという。以後、私は彼の機知とスケ−ルを学ぼうとした)
     
 またある日、黒い雪が撮れたから見に来ないかという。「黒い雪?]そんなバカな、ある
はずがない、また人を担ぐ気だなと思いながら行ってみた。これは常識的に雪は白いという
私の頭の負け、見ればなるほどで、また一本とられた。
 その作品は、明るい空を見上げて、上から落ちてくるぼたん雪を撮ったものである。
画面の下の方に大仏殿の屋根があり、広い空いっぱいに点々と逆光で、セミ・シルエットの
やや薄黒いぼたん雪が舞っている。こんな風景に時代はない。天平の雪もこうであったろう
かと思わせる、ハイキ−ト−ンの実にしゃれた作品であった。
     
 私は初期に奈良の転害門の真ん前、手貝町に住んでいたことから、同じ丹平のメンバ−の
佐保山さんとは特に親しくなった。馬が合うというのか、お互いの家(東京・奈良)をそれ
ぞれ定宿にするほどの家族ぐるみのつきあいは、生涯のものになった。         
     
 彼は写真や音楽だけでなく、彼のいう生きた教育とやらで、京都のお茶屋からキャバレ−
まで彼のおごりでの実地教育までしてくれた破戒僧ともいえる一面もあったが、後に東大寺
の209世の管長になられた。今は故人になったが忘れ難い友である。 




プロへのキッカケ

 僥倖に恵まれて
   

 私は写真家になったのが良かったか悪かったか分からないが、肯定的に見ると、結核で進
路変更した後の出来事は、最短コ−スを行く僥倖の連続であった。           
     
 鳥取砂丘での運命的な一駒、「ヌ−ド」は、丹平展(1951・9月)に出品し、先輩諸
氏を差しおいて最高賞の安井賞を受け、そのお陰で丹平東京展(1951・11月)にも出
品できた。(もし、この賞を受けていなければ、70名の会員から東京展へ出品できるのは
40人位だから、新入生の私がその中に入れる訳がない。僥倖としか言いようがない)  
     
 東京でも僥倖が起きた。この会場に、ライフの写真家三木淳氏とともに見えたマグナムの
写真家ウエルナ−・ビショップ氏にこの作品が認められ、世界的な写真誌スイス・カメラに
紹介されたが、この様子を見ておられた写真サロン編集長の鈴木八郎氏に声をかけられたの
が縁となり、鈴木氏の紹介で玄光社の写真サロン編集部に勤務することになった。    
      
 鈴木氏にお会いしてから、わずか3週間後の11月30日には上京し玄光社に入社した。
その後は、編集者として多くの著名な写真家に接するうちに、本人も写真家になってしまっ
た。当時、写真学校にも行かず、師匠にもつかず、まったく独学で写真家になり、土木屋出
身というのは私一人で珍しがられた。




あとがき
   

 この3回の「私の風景」という話を題材にした私の持論、「繧繝彩色」という写真講座は
皆さんのお役に立っただろうか、理解されたであろうかを反省した。        
      
 実作者の理論というものは、広い意味での自己弁護であることが多い。私は自戒しながら
書いた。それもあるが半世紀も前の話が通用するかを心配して、もう一度初めから入念に調
べて見た。しかし、幸いなことに引用されているデ−タ−(作品)は年代としては古いが、
解説の内容はいささかも古くなっていないことが確認され安堵した。
     
 それはこの話の目的が、技術など科学の進歩のことではなく、ものの考え方の大切さ、変
遷であるからだ。文明、文化のベクトル(流れ)は当時も今も変わっておらず、生態学的な
ものの見方、知識より知恵の方が大切だということである。知識だけでは、部分では正しい
ことが全体では正しくないことが多いものである。
      
自然界への理解            
 ここで、大切な問題として、自然と風景への私の考えを一言述べておきたい。     
 風景写真といってもさまざまで、人工的なコンクリ−トの建物だけの風景もあれば、純粋
に自然だけの風景もある。人工物と自然がいりまじった風景もある。
 私は、たとえコンクリ−トの建物だけのものでも、たまたま現在は人類が繁栄している時
代で、それらは地球という大きな自然のごく一部にすぎず、その人工物も自然とのかかわり
合いはさけられないものだという見方である。その基本的な考えには、文化史を通じて知っ
た生態学的な見方がある。
     
 つまり、「生態学そのものは何も生まないが、生態学的な物の見方は非常に大切だ。人間
が直感的に理解できるのは3次元の空間までである。現実の自然は、常に非常に具体的で、
無限に複雑で、多様で、奥深く、そこには測定不可能なもの、つまり数量化できない要素が
満ち満ちている。」という、初歩的な生態学の本にも述べられている理解からである。  
         
 そんなわけで、私は、「自然のあらゆるものは、だだきれい、美しいだけでなく、すさま
じく、恐怖もある。一見平凡に見るものでも、条件によっては思いも寄らぬ存在となり、人
類の知識を越える要素が満ちあふれている。傲慢な人智では到底わからない。人間は自然に
対しもっと畏敬の念をもち謙虚に接すべきだ。」と思ってきた。            
 世界の傑作といわれている風景写真を見ていると、「それらは美しい、凄いというだけで
なく、その奥にひそむものをも捉え、それは理屈で解釈できない。感じることができるだけ
だ。また美しい凄いといった観念を越えた自分に響く感じる風景も僕は撮るべきだ。」と思
いはじめたのが丹平のころ、前回のコンクリ−トの柱が並んだ「風景」の作品からであり、
それは今も変わらない。
      
 私は、数量化できない要素に満ちた自然を主題にした風景写真に、作者の原体験にかかわ
る幼児期からの性格と環境による変化、撮影時の心理状態を加えて、実証的に解説しようと
した。創作物を見る時、どうしてこんな物が出来たのだろうかと思う時、その性格やどんな
心理状態であったのだろうかと深く考えるのは、また物を創作しようとする人である。
 ゴッホが弟のテオや母親に出した手紙と残された作品を解析したのは、画家や評論家だけ
でなく、芥川龍之介、夏目漱石まで非常に広いが、古くから芸術家たちの心理状態を示す物
は少なく、評論家の解説も憶測が多いものである。
     
 写真家の場合も作品の心理状態まで発表しないのは、それは複雑でもあり、またある場合
には企業秘密のようなものでもあるからだ。私の今回のざっくばらんな話は、弟子の方がび
っくりしたようだ。現実の日々は撮影に集中し、弟子たちに心理状態など話すことがなく、
私の過去の話などもしたことがなかったので、彼等はあの作品が生まれた秘密がやっと分か
ったという。 こうした解析は、「他山の石」、良くも悪くも、参考になるであろう。
                            
モノクロで構成を          
 デ−タ−となったモノクロ写真についても考えてみた。これは本質を知るためには、かえ
つて良かったのではないかと思った。モノクロ−ムは現実を白黒だけの世界に抽象化するの
で、色に惑わされず骨組みをハッキリ見せることになり、構成が分かりやすいからである。
 写真学校で、カラ−写真しか知らない学生にモノクロ−ムを構成の勉強のために撮らせる
のはそのためである。もちろん、モノクロ写真の抽象性が生み出す意味と魅力を教えること
も基本である。
     
 デ−タ−となった作品は、カラ−写真が普及し始める直前、1950年代初期の作品の中
で相当の価値を評価され、美術館に収蔵されているものがほとんどある。作品は作者が年を
とるほど良くなるというものでもない。私の若い時代のものは、造形としてはやや荒削りだ
がバイタリティがあるというのが一般的な評価である。           
      
 私もそれを認めているが、その後広告写真家で身を立てるようになったが、根底からのア
−ト志向は変わらず、クリエイティヴに徹底しようといいながらも作品は、クライアントや
デザイナ−の意向も含まれていることも多い広告写真にくらべ、あの若い時代の作品は純粋
一途なところが好きである。
    
 この講座の続きは、私に「芸術は言葉が終わるところから始まる。」ことを身をもって教
えてくれた先輩のことや絵画と写真の違いなどを、その内お話できればと思っている。