あとがき
この3回の「私の風景」という話を題材にした私の持論、「繧繝彩色」という写真講座は
皆さんのお役に立っただろうか、理解されたであろうかを反省した。
実作者の理論というものは、広い意味での自己弁護であることが多い。私は自戒しながら
書いた。それもあるが半世紀も前の話が通用するかを心配して、もう一度初めから入念に調
べて見た。しかし、幸いなことに引用されているデ−タ−(作品)は年代としては古いが、
解説の内容はいささかも古くなっていないことが確認され安堵した。
それはこの話の目的が、技術など科学の進歩のことではなく、ものの考え方の大切さ、変
遷であるからだ。文明、文化のベクトル(流れ)は当時も今も変わっておらず、生態学的な
ものの見方、知識より知恵の方が大切だということである。知識だけでは、部分では正しい
ことが全体では正しくないことが多いものである。
自然界への理解
ここで、大切な問題として、自然と風景への私の考えを一言述べておきたい。
風景写真といってもさまざまで、人工的なコンクリ−トの建物だけの風景もあれば、純粋
に自然だけの風景もある。人工物と自然がいりまじった風景もある。
私は、たとえコンクリ−トの建物だけのものでも、たまたま現在は人類が繁栄している時
代で、それらは地球という大きな自然のごく一部にすぎず、その人工物も自然とのかかわり
合いはさけられないものだという見方である。その基本的な考えには、文化史を通じて知っ
た生態学的な見方がある。
つまり、「生態学そのものは何も生まないが、生態学的な物の見方は非常に大切だ。人間
が直感的に理解できるのは3次元の空間までである。現実の自然は、常に非常に具体的で、
無限に複雑で、多様で、奥深く、そこには測定不可能なもの、つまり数量化できない要素が
満ち満ちている。」という、初歩的な生態学の本にも述べられている理解からである。
そんなわけで、私は、「自然のあらゆるものは、だだきれい、美しいだけでなく、すさま
じく、恐怖もある。一見平凡に見るものでも、条件によっては思いも寄らぬ存在となり、人
類の知識を越える要素が満ちあふれている。傲慢な人智では到底わからない。人間は自然に
対しもっと畏敬の念をもち謙虚に接すべきだ。」と思ってきた。
世界の傑作といわれている風景写真を見ていると、「それらは美しい、凄いというだけで
なく、その奥にひそむものをも捉え、それは理屈で解釈できない。感じることができるだけ
だ。また美しい凄いといった観念を越えた自分に響く感じる風景も僕は撮るべきだ。」と思
いはじめたのが丹平のころ、前回のコンクリ−トの柱が並んだ「風景」の作品からであり、
それは今も変わらない。
私は、数量化できない要素に満ちた自然を主題にした風景写真に、作者の原体験にかかわ
る幼児期からの性格と環境による変化、撮影時の心理状態を加えて、実証的に解説しようと
した。創作物を見る時、どうしてこんな物が出来たのだろうかと思う時、その性格やどんな
心理状態であったのだろうかと深く考えるのは、また物を創作しようとする人である。
ゴッホが弟のテオや母親に出した手紙と残された作品を解析したのは、画家や評論家だけ
でなく、芥川龍之介、夏目漱石まで非常に広いが、古くから芸術家たちの心理状態を示す物
は少なく、評論家の解説も憶測が多いものである。
写真家の場合も作品の心理状態まで発表しないのは、それは複雑でもあり、またある場合
には企業秘密のようなものでもあるからだ。私の今回のざっくばらんな話は、弟子の方がび
っくりしたようだ。現実の日々は撮影に集中し、弟子たちに心理状態など話すことがなく、
私の過去の話などもしたことがなかったので、彼等はあの作品が生まれた秘密がやっと分か
ったという。 こうした解析は、「他山の石」、良くも悪くも、参考になるであろう。
モノクロで構成を
デ−タ−となったモノクロ写真についても考えてみた。これは本質を知るためには、かえ
つて良かったのではないかと思った。モノクロ−ムは現実を白黒だけの世界に抽象化するの
で、色に惑わされず骨組みをハッキリ見せることになり、構成が分かりやすいからである。
写真学校で、カラ−写真しか知らない学生にモノクロ−ムを構成の勉強のために撮らせる
のはそのためである。もちろん、モノクロ写真の抽象性が生み出す意味と魅力を教えること
も基本である。
デ−タ−となった作品は、カラ−写真が普及し始める直前、1950年代初期の作品の中
で相当の価値を評価され、美術館に収蔵されているものがほとんどある。作品は作者が年を
とるほど良くなるというものでもない。私の若い時代のものは、造形としてはやや荒削りだ
がバイタリティがあるというのが一般的な評価である。
私もそれを認めているが、その後広告写真家で身を立てるようになったが、根底からのア
−ト志向は変わらず、クリエイティヴに徹底しようといいながらも作品は、クライアントや
デザイナ−の意向も含まれていることも多い広告写真にくらべ、あの若い時代の作品は純粋
一途なところが好きである。
この講座の続きは、私に「芸術は言葉が終わるところから始まる。」ことを身をもって教
えてくれた先輩のことや絵画と写真の違いなどを、その内お話できればと思っている。
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