「雀百まで踊り忘れず」
           
     玉井瑞夫のその昔....(第1回)


「入江にて」(1940)

この写真は、私が中学4年生ころ
近くの海辺で撮ったもの。
 この頃の被写体は、風景と友人
たちとが半々くらいである。あら
ためて見ると風景も人物もその殆
どが逆光か半逆光の写真である。
やはりモネの幻惑的な光りの風景
の影響であろうか。中学時代の写
真はこの程度のものが多いが、こ
れは少しましな方。凝り性の私は
写真にはまり、中学、高工とアル
バム委員をやっていた。





強い好奇心原動力


  私は平凡な人間で、自分では、殊更才能があるわけでなく成功した写真家とも思え
  ず、もつと有効な生き方があったのではと思うことが多い年頃になった。
  それでも、不満でどうしようもないといった気にならぬのは、方々に頭をぶっけな
    がらも、なんとか自分でやりたいような事をやり、曲がり曲がり真直ぐにやってき
    たからであろう。                             
  多忙にまぎれてスタートから見直すことがなかったので、この項を書きはじめてか
  ら、あらためてイタズラ小僧が大きくなっただけのように感じた。         
  私の貧しい体験が何かのお役に立てば、まことに幸せと思う。
     
 私は異常に好奇心の強い幼児であったと母はいう。ちょうどブリキの玩具が流行していた
ころ、動くオモチャが好きな僕のために父が買い与えた自動車、飛行機などが、3日と持た
なかったという。つまりどうして動くのかを知りたくて、ブリキの爪を起こして中を開き、
ゼンマイ状のバネまで引き出してしまい、オモチャ箱はゴミの山になったという。 
      
 オモチャがなくなると懐中電灯、目覚まし時計もバラしたが、小学2年ころには目覚まし
時計は元通りに組み立てられるようになった。大失敗は父が大切にしていたベス単コダック
というカメラをバラバラにしてしまい、さすがに父から大目玉を喰った記憶がある。
 小学校にあがると、夕方薄暗くなるまで帰ってこないときは、だいたい見当をつけて鍋、
釜などを修理するイカケヤを捜すと一番前に座り込んでいたという。        
       
 こうした性格(性癖)は、いわゆる貧乏器用というか、撮影用のセットづくりも苦になら
ず、ロケ先でのシャッタ−の故障などは簡単に直していたが、好奇心が集中すると物事を徹
底して追求することになり、後にいくつかの写真表現の新技法の開発に役立ち、何かのプラ
ンを考えるとき水平思考から、時には突飛なアイディアが浮かぶこともあった。     
       
 それより大切なことは司馬遼太郎のいう「貴重な子供の心を持て」ということに通じる。
いずれにしても、好奇心や夢をもてない人間は、感性も磨かれないといわれ、純粋な好奇心
は創作に不可欠な要素で、いつまでも失いたくないものと思ってきた。私の写真家への道は
原動力として幼児からの好奇心にあったようだ。                




絵画への関心はヌ−ドから
 私が絵画への関心を持ち始めたのは、小学校の4年生ころ。
     
 それは、女性への関心を持ち始めた時期で、たまたま父が教師であったため、文学全集や
世界美術全集などがあり、例の泰西名画のやや太り気味の女性の裸体画をそっと覗き見して
いたのがはじまりで、遊びに来る友人たちにも得意げに見せてあげているうちに、他の絵画
にも興味が拡ったというだけのことである。
      
 しかし、見慣れてくると、中学生くらいの時には多少は絵がわかるようになって好き嫌い
のはっきりした性格のためか、いわゆる絵はがき風の美しいだけの風景には興味が向かなく
なり、キリコのような遠近感の強い風景やモネの風景や睡蓮のような音楽的、抒情的なム−
ドのある絵を好むようになっていた。青年期からは見る範囲は、印象派から抽象、シュ−ル
へと広く深くなり、評論にも興味を持つようになった。      
            
 見る側から創る側へ、つまりア−トとしての写真志向へのキッカケは、大阪で藝術新潮の
ゴッホの「烏のいる麦畑」を見たときの強烈な印象からであった。絵画の構成は、後にスタ
ジオでの仕事が多い広告写真家になった時点ではある程度参考になったが、それは構図を真
似するのではなくすぐれた絵画の密度、空間処理の感得であった。それ以外の撮影では現実
を切り取る写真の構成は、人間が頭で考える以上に不思議で微妙なものがあり、それを発見
することにつきるものである。
                       
 作家への関心は折々で変わったが、それは様式でなく抽象的、心理的な部分で、アンリ−
ルソ−、パウル・クレ−、カンジンスキ−などから、現在は私にもっとも影響を与え、早世
した瑛九を考えることが多くなった。                      

文化史への興味
 
 私が文化史に興味を持つようになつたのは、中学に入った時、父がはじめにすすめたのが
「H・G・ウエルズの世界文化史大系」、たくさんの挿絵や写真入りで分かりやすかつた。
 地球の創世記からはじまって水際で生物が生まれ、巨大な恐竜やマンモスがはびこり、ま
た死滅し、パピルスが発明されて言葉が広く伝わり、更に印刷術ができて−−−蒸気機関の
発明が産業革命をひきおこし、といった具合で原因と結果、物事の因果関係、文化への波及
が立体的に展開され、未来の予測まで書かれた読み物である。             
    
 それまでの小学校の歴史や地理は、それぞれが独立したばらばらの記述で、意地悪な試験
のため、丸暗記のためにあるようで全く面白くなかったが、こうした文化史風の読み物は、
後ろの方から逆さに見て行くと、歴史を探るル−ツが解き明かされて行くようで親しめた。
     
 中学時代は校則も厳しく狭い日常生活になりがちだが、この本のお陰で何よりも大きな収
穫は、広く世界を眺める見方を知り、精神的また行動面でも、比較的のんびりと野放図な中
学生活を楽しめたことであった。                          
 その後文化史にのめり込む程に、人類の歴史は単純な進化論では解釈できず、波打つ文化
の展開もわかるようになり、創作を心がける者には必須の生態学的な物の見方、考え方を教
えられ、未来の予兆を知るためにも、日頃の創作にも必須の分野だと思うようになった。




お座敷暗室から始まる
 
 私の写真歴は、小学6年生の港の「灯台」を撮った日光写真のような1枚に始まったが、
その後の実技は、中学2年の時に買ったベスト版のツバサ・カメラという怪しげなカメラと
離れに同居していた叔父(私の母の弟で、私の通う中学の物理の教師でもあった)が持って
いたツアイスのパテント・エッツイという乾板を使う大名刺版のカメラでの撮影であった。
              
 いつも叔父と共同で押入れ暗室で現像し、引伸機は手製のもので、夜間に限り、最大四つ
切りまでのプリントをした。薄暗い茶電球の下で白い印画紙に画像が浮かび上がってくるの
は、ゾクゾクするようでこたえられなかった。                    
    
 もちろん写真を教えてくれる先生はおらず、古本屋で手に入れた写真雑誌や写真材料店で
くれる粗末なパンフレットが貴重な資料であった。それらの写真についているデ−タ−を、
小さな手帳に書きうつして持ち歩き、それに似た風景の撮影時の参考にした。今は角度1度
のスポットメ−タ−で月の表面も露出が測れる時代、まさに隔世の感があるが、その楽しさ
は当時の方が深かったように思う。
    
 その当時の写真の腕前の程は、掲載の写真から想像願いたい。中学時代の私の特技は、も
ちろんこの写真とその他は柔道で、もうひとつは、試験の時以外は学校の机の引き出しに教
科書を置いたきり、カバンの中身はベントウ箱ひとつで通学し、それでも何とか卒業したこ
とであった。                                   
 つまり、学業の方は小学時代からやればできるといわれながら、遊びと趣味で忙しく、ま
っすぐ家に帰らないほうだから、やらない方。走るのは早くて短距離はトップクラス、長距
離はまったく苦手でビリから数える方が早かった。

徳島時代は音楽
 
 1年の浪人をして入学した徳島高工・土木科(現徳島大学)時代は、暗室も持てず、わず
かなフィルムで友人たちの顔を取る程度で、戦争の終わりころは、フィルムが紙製になり引
伸しができなくなっていた記憶がある。         
     
 写真に不自由して、徳島で凝ったのは柔道と音楽であった。
  タフな運動は青春のありあまる精力の消化にも有効だ。柔道は学校の道場だけでは物足り
ず、帰りに警察の道場でも練習し段位もどんどん上がったが、後に師範代をたのまれた。
師範代の仕事は普通は初心者の面倒をみることだが、私の役割は、今でいう暴走族のような
ツッパリを、警察道場で練習と称して、叩きのめして矯正することであった。  
  相当の悪ガキも上には上があることを知り、彼らも腕を上げるにつれておとなしくなり、
かえって私は彼らと親しくなった。陰湿で大荒れの現代、心の通じあうこんな若者対策をな
ぜやらないのだろうか。これこそ本当のタッチ・トレーニングで私が写真の助手や学生にた
いする指導方法の根底にもこんな経験があるように思う。              
        
 音楽の方はもともと好きで、小学校時代の得意科目は音楽と体操と工作で、苦手は算数。
子供のころの私はボ−イ・ソプラノで学芸会ではいつも独唱に選ばれるのが当然と思ってい
たくらい、一回聞くとすぐ歌えるぞといった変な自信家であった。今も男性の声楽は好きで
テナ−のパバロッティ、カレ−ラス、ボッチェリ−などが好み、その他「いい日旅立ち」
などニュ−ミュ−ジック、ポップスや「ド」のつかない演歌などの中にも好きなものがあり
幅広い。しかしハ−ド・ロックはどうもよくわからない。            
     
 ギタ−は時折弾いていたが、ある日辻久子のバイオリンの演奏会を聴いてからクラシック
に興味を持ち始め、週に3回くらい丸新というデパ−トへ通うようになった。通うというの
は変な表現だが、お金がないからあれこれ注文して只で聴けるのは、ここしかなかったから
である。足しげく通いあまり長く粘るので、売り場の女性にご執心と間違えられて閉口した
が、限られた親からの送金から高額のレコ−ドを買えるのは、3ケ月で1枚くらいである。
    
 初めて買ったのが、リストのラ・カンパネラだったが、たった一枚で次が中々買えず、毎
日同じものを繰り返し巻き返し聴くわけだから、初めから終わりまで暗譜してしまった。 
 在学中に買えたのは、「運命」「月光協奏曲」「ボレロ」など12インチは10枚ほど、
ド−ナツ盤はフォン・ゲッツイの「ブル−スカイ」など4枚くらいだったが、徳島の空襲で
焼けてしまった。
     
 音楽と写真との関連を考える時、感性として、何れも知的で純粋な構成の根底は共通で、
中年以降は日本の能の囃しの得もいわれぬ音律にも、奥深い抽象性を感じるようになったり
クラシックの暗譜やギタ−で半音の半分でも狂うとすぐわかるといった体験が、写真の構想
構成のスケ−ルやカラ−・グラデ−ションの微妙な変化などにもかなり敏感に対応し、造形
上非常に役立っていることがわかる。しかし、カンジンスキ−が自ら意識して色彩構成を音
楽における構成のようにしたいといった程ではない。                 
    
 徳島では中学で遊び過ぎた反動で少し勉強したが、ここで得たものは実験とデ−タ−の大
切さを知ったことである。それはあるグル−プは教授の命令で毎日、半日は円筒形の容器に
いろいろ配合を変えたコンクリ−トを作り、破砕する強度実験であった。飽きるほど毎日デ
−タ−をとったが、教授はこれを元に本を書き、われわれ学生はこの教授の授業のために、
この本を買うというしかけである。
 あまりいい気分ではなかったが、後にカラ−による新技法の開発を始めた時、この習性が
あったためか、写真の技術はサイエンス、実験とデ−タ−をとることが苦にならずなんとか
完成にこぎつけ、大阪万博では高さ3メ−トル、長さ30メ−トルと20メ−トルの壁写真
を作る時に役立った。                               





闘病生活から方向転換へ
 
 敗戦で卒業が半年繰り上がったが、翌年の4月からは推薦入学で更に京大土木へ進学する
ことになっていたが、ここで私の人生を変える事態が起きた。それは敗戦終了の8月頃から
夏風邪と思っていたのが、結核とわかり、進学どころではなくなったことである。    
     
 それからはストレプトマイシンやヒドラジッドといった特効薬のない時代、大気安静療法
という自然治癒を待つばかりの3年間の寝たきり生活が続いた。どうして自分だけがこんな
病に取りつかれたのか、悲運を嘆いたがどうしようもない。後から入院してきた同病の同級
生が先に逝ったが、不思議に私は冷静であった。                   
 しかし、柔道で鍛えた体も痩せ衰え、183センチ、体重80キログラムが46キログラ
ムになっていた。後で母に打ち明けられたが、喪服を用意したらお前は奇跡的に生き返った
といわれた。                          
    
 やがて小康をえて、療養生活の最終段階で、私の写真で、はじめて世間に出ることになつ
た作品が生まれた。このことは、作品解説にあるとおりである。
    
  病状が好転すると、若さもあって段々体力がついて行くのがわかった。
 そんな時、奈良の親戚を訪ねたのがきっかけで、思いがけず関西でのもっとも前衛
 的な写真集団、丹平写真倶楽部に入会するチャンスに恵まれ、その結果わずか2年
 後には東京へ出てプロへの道を歩むことになったが、こうした伝統的な土壌を持つ
 関西ならではの貴重な実技の体験や精神的な変革は、次回以降にそれぞれの作品で
 解説することにしたい。






「浪々の頃」

「私の風景」というこの原稿のため
に古い写真を探していたら、こんな
写真が出てきた。
 この写真を掲載したのは、多少の
いたずら気からである。HPの管理
人はほとんど顔を出さず訪問者は想
像をたくましくしてのやりとりを楽
しんでいる風もあるようだ。   
 この写真の問題は、「私がだっこ
しているのは私の姪つまりこのHP
の管理人ゆきの母親で、指先で鼻を
いじっているこの赤ちゃんから、ど
んなゆきを想像されるであろうか。」
ということである。       
 もうひとつは、この風変わりな写
真家はどんな人だろうかといった興
味を持たれることがあるからである。
私の顔写真は所属する写真家協会の
名簿を見れば一目瞭然ですぐわかっ
てしまうが、これは中学時代の後半、
何とか写真が写るようになったころ
の顔である。   
 それにしても、私は上級学校への
入学試験に失敗し、浪々の身である
にもかかわらず、なんとも屈託のな
い顔をしている。