part.6           


 第二回

  私が四国の田舎から、いきなり大阪の丹平写真倶楽部という前衛写真集団に飛び込  
  んで、思いがけない変身をするキッカケになったことを前回に話したが、それから
    の変化を述べたい。                           
                                            
 丹平での2年目は、それまで緊張の連続で頭のなかまで正座をしていたのが、少しはあぐ
らをかくこともあるといった余裕から、やや冷静な目で写真の世界を眺め、自分の姿勢を確
立しようとした時期になっていたように思う。                   
        
 それは写真と職業(生活)の関係である。その頃の私は、『関西の先輩達は立派な生業を
もち、写真も撮っている。その作品はアマチユアを越え立派な写真家といえる人もいる。東
京では写真を売って生活している人だけが写真家といわれ、その他はアマチユアと呼ばれて
いる。アマチユアより下手な写真家もいる。便宜上アマチユア写真家というのは分かるが、
あるレベル以上の作家は、生業に関係なくすべて写真家と呼ぶべきであろう。この国はどこ
かがおかしい』などと、毎度例会の末席で、誰れ彼の区別なくしゃべっていた。最年少で新
入生のいうことだが、一応筋が通っていると思われたのか、うなずいてはくれたが討論まで
は入れず、私はやや不満であった。   (この考え方は、今日、世界で通用している) 
          
  まだ、写真家という名刺が一般にあまり使われていなかった時代だから、やむを得ない。
 私のいうことは、早過ぎたようだ。                        
                   
 こんな考えの根底は、中学時代からつづく私の文化史好みにあった。
 14〜16世紀のルネッサンス期は、ミケランジェロやダビンチに限らず、一人で2つ以
上のスペシャリストを兼ねた人が多かった。変わったところでは、カルダ−ノという数学者
は、数学での他流試合をするほかに医者であり、占い師、バクチ打ちのプロでもあったとい
う。職人と学者が近い時代でもあった。文化史に凝っている時は、そんな多様で活気に満ち
た時代に、私も生まれたかったと思ったものである。
                
 もうひとつは、現実的な問題として、私の頭の中を「新しい世界というものは、常に功罪
相半ばする。傍観者になるか。もまれて溺れるか。乗り切れるか。」といった言葉がよぎる
ことがあった。これは定職のない私が見通しもなく写真ばかりに血道をあげていてよいのだ
ろうかという不安からであろう。しかし、それは瞬時のことで、あいかわらず、全紙3ダ−
ス入りの印画紙を買うと後10円しかないという生活をしながらも、あれが青春というもの
か、写真一途で燃えていた私は、明日に何の不安も感じていなかった。
              
 この頃は、作品の質が例会毎に倍々ゲ−ムのように上がってゆくのが自分でもわかった。
 好奇心と情熱と集中力こそが創造力の源泉である。
              
  私は心の中で「オレも、ルネッサンスをやるんだ。」と叫んでいた。ルネッサンス
  とは、「再生」を意味する言葉でもあった。




                「カマキリ」               1950









カマキリ

  これは、京都を何となくさまよっていた頃、深泥ケ池で撮った。
 丹平写真倶楽部には、リ−ダ−安井氏の「ハッと思えば、写すべし」という名言がある。
これは論客の多いメンバ−に、自分の全人格から生まれる五感を信じ、迷った時はまず行動
せよということであろう。                             
       
 新入生の私は、その被写体の状況の理解には苦しむが何かを感じる時や後ろ髪をひかれて
立ち去り難いといった時には、とにかく「ハッと思えば、写すべし」を実行しようとおもっ
ていたので、このシ−ンに反応したのであろう。
       
 何でもない風景だが、私の興味を引いたのはその雰囲気であった。まず、かなり広い水面
にほんの僅かに出ているだけのとても小さな石に、このカマキリが無意味にしがみついてい
るように見えた。ぐっと目を近づけて見ると、白く干からびた石と何かグロテスクに見えた
カマキリの姿態、半透明に浮き上つた浅い水底のヌルヌルするような質感の泥沼から、何か
古代の原始的な風景を見ているように感じたのである。                
 これは、本能的に私がグロテスクな虫や爬虫類、トカゲ、蛇などが嫌いであることからの
連想だったかも知れない。       
      
バックの黒い影は池の向こうの森の投影である。以前なら対岸まで画面に入れたと思うがこ
のころは、対象に集中して画面を構成する習慣ができ始めていたので、これをカットしたの
であろう。つまりカットによって一般的、情緒的な雰囲気を遮断したわけである。
         
 これは被写体の生理的な好嫌もあるが、非日常的な条件での緊張感には反応する一例とし
て取り上げたもの。もしカマキリが草や木の葉にとまっていたら撮らなかったであろう。



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                 「窓」               1950











 これは、尾道市の前にある向島という造船所の廃屋を撮ったもの。
 人気のない古い倉庫が立ち並び、向こうの窓越しに更に同形の閉まった窓が見える。夏の
強い日射しで粗末な風化した板壁の質感がシャ−プに出て、質感表現と構成のサンプルのよ
うな被写体であった。この場合、光の質と強さと方向のバランスが重要である。
       
 私はごく初期に、絵画の構図を解説した本を見て、それを真似て写真を撮ってみたことが
ある。つまり、黄金分割の矩形に1本の対角線を引き、それに向かって他の2つの隅から垂
直線を下ろし、その2つの交点に主材と副材をおくという例の法則である。他の色々な構図
例も確かに安定はするが、選ばれた絵はそれらの図式に合うものだけで、例外の方が多いこ
とがわかり、ばかばかしくて止めた。                        
       
 構成主義的な作風は丹平の一面でもあり、その影響がでているかとも思うが、生来の私の
性格の一端がでている。思いきった大胆な構成をと思いながら、どこかに杓子定規なところ
があり、多くの作品が自然に垂直と水平の構成になってしまう。といって、いわゆる7:3
に構えたような構成は、キザなファッション写真を見るようで拒絶反応を起こす。    
        
 私は迂余曲折、自分の性格を嫌いながらさまよううちに、ひとつの結論に達してようやく
平常心をとりもどした。それは、「自然には無限のフレ−ムがある。私が構図をつくるので
はない。自然その物に構図は含まれている。私はそれを指さしているに過ぎない。」と思う
ようになったのだ。私は生き返った。自分のすべての性格を個性として受け入れるようにな
ったのである。
                         (全日本写真連盟関西本部展 出品。写真サロン 口絵掲載)






               「雑草と岩」             1950








雑草と岩

 これは赤外フィルムでの撮影である。
 私は赤外写真の知識は殆どなかったが、丹平の新鮮な空気にふれて、自分もなにか新しい
表現をとおもい、初めて手をつけたのが赤外であった。このフィルムに詳しい先輩に、チョ
ツト勘所を聞いて写してみて驚いた。1本撮つたらその美しさに、しばらくは取り憑かれた
ように熱中した。
       
 フィルムの性質が分かってくると、そこここに月光がしたたるような夜景に似た光景さえ
演出できる。空は暗く白雲はさらに白く、緑の葉は不思議な明るさをもって輝く。赤に近い
波長は、太陽や白熱灯からふんだんに放射されているが、それが写真の上に異常な効果をも
たらすのだ。
      
 赤外フィルムは、赤外線に感じる乳剤を塗布したものだか、フィルタ−なしでは普通の写
真になってしまうので、可視光線をカットする濃い赤フィルタ−つけて写す。
 この作品では、シャド−はさらに暗く、ハイライトはさらに明るく、諧調は両極端にきり
つめられているが、岩が黒い溶岩であるために、さらにそれが強調されている。     
 この作品のキ−ポイントは植物にある。木の葉や草が雪のように白く写るのは、赤に近い
波長を、葉の表面ではなく組織の底から強く反射するからである。
      
 技法的には、フォトグラムやネガ表現に似て、シンプルで透明感のある表現は、赤外写真
ならではのもの。
 私はもともと雑草が好きだが、赤外で撮ると草や葉の表面の特徴は消失し、形だけが純化
されて表現されるために、普通の撮影では気づかない小さな雑草の形が繊細な表情として見
られる。たいてい肉眼で見た時よりも美しく輝いて見え、目をみはることが多い。    
        
 私は、何でもない、頼りな気な明るさのある、こんな可憐な雑草のある風景が好きだ。 
写真は視覚に訴えるだけではない。音が聞こえ、匂い、ささやきかけてくる。






               「風景」              1951







風景

  これは、私のお気に入りの風景である。
 この風景は、私の田舎にあった。戦時中、海軍の航空基地の端にあつた建物が空襲で焼け
落ち、柱だけが残ったものである。時折、この近くを通ることがあったが、いつも敗戦の残
骸、戦争の無残な遺物にしか見えなかった。                     
      
 それが蘇った。久しぶりに田舎に帰った冬の午後、この風景が目に飛び込んできた。斜陽
に輝く白い墓標のような柱の行列、強風で雲が流れている。イ−スタ−島のモアイ像を連想
したが少し違う。
 私は最良と思われるカメラポジションを選び、ドラマティックな雲を待ち、撮影を終えた
時は、もう日没寸前であった。冷たい日であつたが手の凍えも忘れるほど、変わる雲の表情
を見つめて2時間がたっていた。
      
 もし、私が丹平写真倶楽部の洗礼を受けていなければ、余りにも身近で、平凡な風景とし
て、恐らく見逃していたであろう。私はこの日、どういうわけかこの場所が気になり、吸い
よせられるようにここへ来たのだ。見る目が変われば、風景も変わる。私はこの1年の間に
風景の見方が大きく変わり、これまでの光が満ちあふれ、何となく気分のいい風景を離れ、
風景の奥底に何か心に響く抽象的なあるものを見ようとする目になっていた。    
       
 私が見たものは、人工物として立ち並ぶコンクリ−トの柱が、自然のなかで居心地悪く歳
月を過ごしてゆくうちに、風化と崩壊によって自然物に近づき、やがては自然の一部になっ
て安心するであろう予兆であった。彼らは自然物としての資格を得て埋没して行くだろう。
           
 私の作品には何の意味もない。世界は普遍ではないし、常在でもない。シャッタ−を切る
瞬間に現れるのだ。私はその瞬間を捉えようとした。                
                                               (第8回全日本写真連盟展 特選賞)






                 「無題」               1951








無題

 
 これは、生まれてはじめてのモンタ−ジュ作品である。
 そのヒントは偶然から生まれた。それは奈良郊外で冬枯れの頃、逆光の小さな沼に葦の影
が映っている風景の影の部分だけを35ミリで撮影した。現像が上がってきた時、たまたま
ネガの上下を逆さまに見たのが原因であつた。
        
 水面に投影した葦の影が不思議な林のように見え、とっさにこれに何かをプラスすれば、
作品ができると思ったわけである。白い山のようなものは、その辺に転がっていた石を蛇腹
が伸びるカメラ、パテント・エッツイで接写した。この乾板に35ミリのネガを重ねて初め
てのモンタ−ジュ写真はでき上がった。
        
 水面に投影した太陽は、ハレ−ションを起こし、葦はゆれてデフォルムされ、何とも不思
議な風景ができたが、題名のつけようがなく、とりあえず「無題」としたのが、そのまま題
名となった。
 私は、いとも簡単にできた妖しげなこの風景が好きで、それからあれこれとモンタ−ジュ
に凝ったが、初回は偶然が重なっただけの大成功であったことがすぐ分かった。   
        
 何枚かのネガの被写体の大小の比例や諧調をあわせるネガ作りの煩雑さとアナログによる
画質の低下には苦労した。やるほどにむつかしく、後には製版用のフイルムを使ったマスキ
ング・ワ−クやダイトランスファ−などに手を出すようになった。
          
 例会では、モンタ−ジュ専門の先輩が、「始めてにしては大変な出来すぎである。北斎の
富嶽三十六景の黒富士<山下白雨>を見るようだ。」と言われたが、それは形だけのことで
あろうか。
                                   (丹平写真倶楽部展 出品。大阪阿倍野デパ−ト)


     

 ついでながら、ここで風景写真とア−トとの関係をひとこと。
      
 それは、世界の偉大な写真家10人の1人に選ばれた天才的な写真家、エルンスト・ハ−
スの姿勢に見られる。彼は本来は報道写真家で、数々の歴史に残るルポルタ−ジュを残した
が、ア−ト志向も強く色彩の魔術師ともいわれた。「画家は真っ白なスペ−スに絵を描く。
写真家はすべてのものが存在する空間から自分の絵柄を取り出す。」と言い、花のすばらし
い作品を残し、洗練された風景写真の傑作も残した。                 
     
 花は精緻で奥深いが、花だけの世界では視野が限定されるので、同時に広い自然の風景を
畏敬の念をもって写していたという。彼は更にカメラ・メカニズムを人為的に操作して、新
しい風景写真の特殊表現をも試みた。これらについては、いずれまた講座で述べてみたい。
        
 彼の花の作品は、シャ−プな表現でボケは殆ど入れないタイプで一見さりげないが密度は
高い。マクロな視野ではボケが出やすく色ボケで構成を支えるのはよいが、ボケによりかか
つての構成では充実感或は迫力に欠ける。私は色ボケの魔術師が現れてもよいと思っている
 しかし、作品の内容を高め力強さを増すためにも、風景撮影は要素が多く難しいが、考え
方も見方も深くなり、レベルアップにつながるので、併せての試みを勧めたいと思う。
          
これらのことは、彼の早世後(1986年没)、より深く知ったが、私も総体的に同様の考
え方で来たことや彼が日本へ度々来たり、2才年長などもあり、より親近感を強くした。
    
      
                              
[お断り]今回、「私の風景」で掲載した作品は、オリジナル・ネガからのプリントは殆ど
     無い。全紙のビンテ−ジ・プリントは美術館に収蔵されているので、テスト・プ
     リントからの複写である。画質の悪いものをお目にかけてもうしわけない。  
     当時の定着処理が悪く、ネガの画像が消失しているものが多かった。また、残念
     なことに将来写真家になるなど考えもしなかった当時、貰ってくれるのが嬉しく
     て気前よくどんどん差しあげ、残っていた作品は数少ない。ネガの保存も悪くて
     どうしようもない。作品は自分の分身、皆さんは大切にされるように。






私の若かりしころの写真。

(part2)

「裏話」と共にのせてあります。