「雀百まで踊り忘れず」
           
     玉井瑞夫のその昔....(第2回)
        
 前衛写真のメッカへ


「磁力の表情」 安井仲治
 
「作者の言葉」
磁力と鉄粉が感光板の上で舞踏して
コロナを描いた。
(乾板上のフォトグラムを印画す)
 
これは、丹平写真倶楽部のリ−ダ−格
で戦前の写真界を代表するリアリズム
写真の先駆者、安井仲治氏の作品。
この会が、前衛写真運動を推進し、レ
ンズを通しての写真の他に、フィルム
や印画紙による写真表現の拡大をも試
みた一端が見られる。






丹平写真倶楽部への入会


  奈良の親戚を訪ねたのがきっかけで、思いがけず関西での前衛的な写真集団、丹平  
  写真倶楽部に入会するチャンスに恵まれたことは、「人生には、大きなチャンスが  
  3度はある。」といわれるが、私にとって丹平写真倶楽部への入会は、その第1番  
  目になった。この時私は25歳であった。   
      
 初めて丹平の例会に出席しての印象は、驚きの連続であった。まず、この月例会はすべて
全紙に引伸ばした額入りで出品され、これまで四つ切り以上の写真を見たことがなかった私
はまずその迫力に圧倒され、また写真の大半は普通の写真雑誌では見たこともない題材や技
法のもので、別世界の写真のように感じたものである。             
       
 後でわかったことだが、この会に限らず関西のいくつかの有名な各写真団体は、明治の末
期から昭和の初期に設立されたが、東京のようなジヤ−ナリズムがないために、発表の場が
展覧会中心主義といったことから全紙が普通サイズで、アンチ東京の気風から前衛的な作品
で競い合ってきた歴史があったという。                       
                 
 また古都京都から、創造的、前衛的な人や発見・発明が現れる風土があるが、東京の写真
家が写真を売って生活いているのに反して、関西のこれらの写真家は生活手段としては別の
場があり、といって写真の制作態度はアマチュアの域を越え、作家であることから自由奔放
な作品が生まれてきたのであろう。                    
 私は、平静になるにつれてこうした丹平の写真家たちの姿勢が、ちょうど、ルネッサンス
期の様子を彷彿とさせるようで大いに気に入った。
       
 丹平写真倶楽部は、1930年に創立されたが、そのリ−ダ−格であった故安井仲治氏は
戦前の写真界を代表するリアリズム写真の先駆者で、絶えず世界に目を開き、いち早くバウ
ハウスの資料を直輸入し、これを翻訳して会員に説明するという啓蒙家でもあったらしい。




新興写真運動アートの普及
 バウハウスというのは、1919年にドイツのワイマ−ルに、W・グロビウスが創設した
美術工芸学校で、その教授陣にはクレ−、カンジンスキ−、モホリナギ−などが名を連ね、
これらの教師は優れた前衛芸術家で自主性と独創性に富む陣営であったことから、人間性を
再考させるような授業であったといわれた。その芸術活動は、豊かな生活につながるもので
芸術的創造といえば、特異なもの、高尚なものといった特別な見方がされてきたが、それを
取り除こうとしたものであった。   
      
 これをもっとザックバランに言えば、「芸術というものは何も特殊なものではなく、エリ
−トや資産家などのものでもない。一般の人々みんなの生活に溶け込んで、豊かな気持ちに
させるものである。特異なものとか、高尚なもので近寄れないなどといった見方をやめて、
どんどん日頃の生活の中に取り入れようではないか」ということである。        
     
 私はメンバ−からこんな話を聞いて嬉しくなり、自分も自由奔放にやれるような気がした
ものである。こうした運動は、写真の分野では新興写真運動として世界に波及したが、日本
では安井氏などによって最も早く関西写壇が洗礼を受けたという。
    
 この会のメンバ−は70名くらいであったが、戦後のこの会で私がよくお目にかかったの
は、上田備山、棚橋紫水、河野徹、佐保山尭海、川崎亀太郎、天野龍一、平井輝七、本庄光
郎、木村勝正、和田生光、吉井如月、垣本紀一、池宮清一郎・清二郎兄弟、岩宮武二、堀内
初太郎、藤井辰三、吉田畔夕、飯村稀市、武田利三、汐見美枝子その他40名位の方々であ
った。他を真似ないのが身上で、それぞれに独創性があり、新しい写真表現の技法として、
オ−トグラム、ペンジュラム、パラグラム、ライトグラム、フロ−トグラム、コラ−ジュ、
モンタ−ジュなどの特殊技法を駆使した作品も月例会で見られた。           
               
 各人の主義、主張は、戦後間もないためか、戦前のドイツにあった新即物主義(ノイエザ
ハリヒカイト)のような理論から、アブストラクト、シュ−ル・リアリズムまで幅広く、月
例会での発言は、歯に絹を着せぬかなり激しい応答があった。写真の方はともかく絵の解説
に出てくる用語は大体理解していたので、こうした用語での前衛的な論客のやり取りは、写
真と絵画の違いまで飛び出す論争まであり、大変おもしろく勉強になった。今までこうした
チャンスには、まったく恵まれなかった私は、例会後の喫茶店での延長戦にもついて行き、
あれこれしっこく質問していた鮮明な記憶がある。
    
 また、この会では自分の生業のことは一切いわぬところがあったが、メンバ−の中には開
業医や工作機械の社長、船場の大旦那といった人も居たようだが、ダンナの余芸といったと
ころはみじんもなく、非常にまじめで謙虚な芸術写真研究者といった雰囲気があった。こん
な会はデモクラティックで初心者の私の高さまで下りてきて、話してくれるのはありがたか
った。
   
 後に、私は教える立場にもなった時、この会の当時の主なメンバ−には大学の教授並み、
あるいはそれ以上の見識と技倆を持っていた人があったことがよくわかった。現在、これら
の著名な写真家の貴重な作品は、東京都写真美術館をはじめ多くの美術館に収蔵され、日本
の前衛写真の系譜としてその価値が認められている。          




写真集を見て実験
 
 私は、あらゆる傾向の作品に目を見張るばかりであったが、そんな時、入手したのが戦前
に出版されていた丹平の写真集「光」であった。創立10周年を記念して昭和15年に出版
されたものであるが、そんな昔によくもこんな新鮮な作品が創られたものといった驚きと深
い感銘を受けた。この「光」では実験的な丹平の全貌が見られた。
    
 好奇心の強い私はこれらを理解するためにいくつかのタイプにわけて、色々の実験的な写
真を撮ってみた。つまり絵画でやる模写のようなもので、目で見て理屈で理解するより見よ
う見まねの実際的な実験は非常に早く身につくものである。どうにも分からないところは、
それらを実践しているご本人に聞けるのだからこんなに恵まれた環境はない。もちろん、こ
んな出来損ないを例会に出すわけにはゆかないが、この実験は後に大変役立った。    
     
 この会のメンバ−は、それぞれ独自のノウ・ハウをもっている人が多かったが、私のよう
な初心者の質問にも答え、理論や撮影の話だけでなく、時折一緒の撮影に誘ってくれた。 
 暗室の名手といわれた実技の一切を教えてくれたリ−ダ−格の棚橋さんが、「あの頃の玉
井君は、人をにらみつけるような顔をして、余りに熱心に聞くものだから放っておけなかっ
た」といわれたのは、ずっと後のことであった。そういえば、棚橋さんの暗室を出る頃は、
もう電車がなく、深夜の電車道を歩いて帰ったことが度々であった。
        
 私は四国の田舎からいきなり前衛写真のメッカに飛び込んで、あまりの写真の違いから、
一時はめまいがする思いであったが、なんとかそれを切り抜け、お陰で目からウロコがとれ
たというか、この生き生きとした環境のお陰で私は非常な変身を遂げた。孟母三選の教えと
か変われば変わるものである。                           
     
 なんとか変身しながらの作品は、メンバ−の積極的な勧めもあって、落ちてもともとと覚
悟して、内外の各種展覧会、コンテストの応募に忙しかったが、何かのつきがあったのか落
選の経験は一度もなかった。ただ、外国の国際サロンの入選者を伝える現地からの朝日新聞
の速報には当て字が多く、パリ国際サロンでは私の名前がなく、今度こそは落選かと思って
いたら、「田万里端男」が「玉井瑞夫」であったなど、当て字にもひどいものがあった。
(熱中すると止まらない私の応募癖は、丹平時代の2年間に限られた。あまりうまく行き
過ると退屈する。応募に飽きたこともあるが、編集屋になったあとはピタリと止めた)
   
               
 入会して2年後には東京へ移ることになったが、その壮行会の席上で、代表の棚橋さんか
ら「玉井君は丹平20年の歴史をダイジェストするように、わずか2年で通過し、先輩たち
を追い越した。これは異例のことである。これからの益々の健闘を祈る」といった過分の励
ましをいただいた時には、多くの友情を思い感無量であったが、同時に写真雑誌の編集者に
なったら、関西のこうした隠れた写真家をどんどん取り上げることも私の大きな仕事だと思
った。これは後に編集長の理解をうけて実現し、私の関係した写真サロン誌は関西写団も広
くとり上げる特長のある写真雑誌としての評価を受けることになった。
 
             
  こうした貴重な体験は関西ならではの有り難いことであった。私が初めて受けた
  体験の実技的なことや精神的な変革は、それぞれの作品で解説することにしたい。 








丹平写真倶楽部 作品集「光」 より


「眠」 河野 徹

「遁出」 岩佐慶三


「オンダン生誕」 平井輝七


「星」 垣本紀一

「夢の再生装置」 本庄光郎




 丹平写真倶楽部の作品集「光」(昭和15年刊)からその一部を紹介する。
      
 若い方は、こんな作品は見たこともないであろう。
これらの作品は、それぞれに物語を持っている。今から60年以上も前にこれだけの素晴
らしい作品が創られていたことは驚きである。現在、これらの価値が認められ新しい研究
の対象になっている。
     
  ア−トとしての写真は戦前にこんな前衛作家集団の運動を経て、表現の様式を変えながら
底流として今日の写真にも生きている。ポ−ランドでは、こうした傾向のモノクロ−ム作品
がかなり見受けられ、秀作も多い。                         
     
 日本の東京芸大など今は写真科はないが、絵画科の学生の作品にも写真作品に類似するも
のも多いが、佳作は非常に少ない。日大芸術学部の卒展などの作品集も毎年送られてくるが
総じて低調で、戦前のこうした写真家の柔軟な感性、大胆な発想に学ぶべきところがあるよ
うだ。




「作品と人相の関係」
      
  これは、前回に続くお遊び。    
 
  写真が変われば、人相も変わる?
  人相が変われば、写真も変わる?
      
ルネッサンスを夢見た顔とはこんなものか。
前回のお気楽な顔つきから、写真一途になる
と人相も変わる証明には−−− ?    
      
まだ、闘病生活の名残で痩せこけて、体重も
60キロ台であったのであろう。このウエス
トの細さには自分でも驚いた。



第28回 丹平展

丹平展当日 大丸屋上にて




丹平展の会場。
       
写真は不鮮明だが、前回と
今回掲載した作品が両端に
見える。


昭和25年8月

阿倍野デパートにて