part.17         

 

 < 色いろいろ >

    
  ぼくは、色が好きである。色好みという言葉もある。これは少し意味が広いが、も  
  ちろん僕はノ−マルな方向で女性も好きである。
    
 色の道は深い。ぼくは、ある時期色にはまり、凝りに凝った。カラ−写真の特殊技法に取
り憑かれてからは、友人たちから色気違いといわれ、自らも<色気違い>を名乗ったことも
あった。しかし、深みにはまるほどわからないことが多くなり、ぼくの知識など前座に過ぎ
ないことを感じるようになった。
     
 色の道の師匠は、お目にかかったことはないが稲村耕雄先生である。先生は長い間、東京
工大で教鞭をとっておられたが、その造詣の深さは斯界でもぬきんでて多くの著作、専門書
があるが、ぼくには相当むづかしい。ところが、先生はとても優しい方で、超素人にもわか
る「色いろは」という文庫本も残された。(この本は絶版になり、もう入手できない)
    
 僕の若い頃からのこの秘蔵本は、弟子か友人かが持って行き、未だに帰ってこないが、内
容は覚えている。今回の色の講座には、まず先生の前座として、「色いろは」のトップにあ
った女性向きの話の要点を「日本女性は紫好み」という見出しで紹介したい。      
     
 次の見出し「古代のムラサキ」から先は、まったく僕の勝手な放談で、次回から始まる色
彩理論の話がどうしても理屈っぽい話になるので、その枕としてぼくは気楽に読める色の話
を考えた。といってもそう軽っぽい話でもない。内容は、これからのカラ−写真の講座理解
には欠かせない「色彩の歴史、文化史」の一端を読みもの風に書いて見た。この話の裏側に
は色の基礎になる事柄が多いので、しっかり読んで記憶しておいてもらいたい。
    
  それは、世界に誇る日本人の繊細な美意識が開花した頃の愉快な話である。
     
  ☆口絵としての作品は、講座の内容に直接あるいは間接に関係のあるものを選び
   掲載してゆくが、講座のタイトルにはとらわれず、まったく自由に鑑賞しても   
   らいたいと僕はねがっている。






        能       1962

        火の鳥      1962

(社)日本広告写真家協会展 出品 1962                                  

日本女性は紫好み
  
 写真家のぼく達から見れば、日本女性の紫好みも中年になると要注意である。年をとると
抜けるような白い肌というわけには、もうゆかないからである。
 本来、うす紫色はそばに来る肌色をより暗く、黄みを帯びて見せる性質がある。そこで、
日本人の肌色にある褐色のメラニン色素の沈着が、年をとるにつれて多くなってくると、さ
らに強調され黒ずみ薄汚れた黄色に見えることになるからだ。これは色彩学的にいえば、色
の対比、補色に関係することである。                    
     
 一般に、曇った日や雨の日には、日本人の肌はじつに暗い感じになり、黄色が目立って見
えることがある。これは雲におおわれた散光には青みがあり、晴天時のような太陽の直射に
よる肌の輝きはなくなり、沈んだ肌色がさらに強まるからである。           
 反対に白熱の電灯照明のもとでは、色素の欠点を隠して肌色は美しく見える。原因はタン
グステンの電灯光が赤みを帯びているからで、このことは、肌の手入れだけでなく、白さよ
りも肌の血色をよくすることが大切な条件、つまり健康が第一ということになる。
     
 メラニン色素が増えてきた年頃(つまり中年)では、うす紫は遠慮して濃い紫を選ぶほう
が無難ということになる。さらに衣装選びで肝心なことは、自分の肌にマッチする色を見つ
けることである。                                 
 たとえば色黒な肌にピンクのブラウスでは肌色が不潔に見えがちだが、赤かオレンジ系統
なら肌色は引き立ち黒い肌は生きてくる。日焼けした肌色は健康的で魅力的だし、色の選び
方次第で小麦色の肌はよりすばらしい輝きを増す。要するに、老若に関係なく、多少の苦労
を払つても自分に似合う魅力的な色を見つけることである。
     
 ところで、年頃になり成熟した女性の殆どが好むという日本女性の国民的愛好色が、なぜ
紫なのだろうか。その答は、「うす紫」(ライラック、ラベンダ−)という色には、華やか
な派手さがあり着る人によっては高貴、神秘的に見えるということによる。また医学的には
女性ホルモンの内分泌を盛んにする生理的快感から「紫」が選ばれるともいわれる。   
 ついでながら、男性がエキサイトする色は、赤であるが別に牛なみということではない。
牛は色盲である。

    
古代のムラサキ
 ところで、「紫」という文字は、天平時代、万葉集の額田王(ぬかたのおおきみ)と、そ
の返歌に始めて出てくる。   
     
 「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守りは見ずや君が袖ふる」        
         
 (紫草の生い茂る御猟野をわたしが行くとあなたは私を見て袖を振られるが、野の番人は
  見とがめはしないだろうか)  
 これは額田王の歌である。   
     
 「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも」      
     
 (紫草の匂うような美しいあなたを、もし憎くおもうようなら、もう人妻なのに、どうし
  てわたしが恋しく思うものか)
 これは大海人皇子(おおあまのおうじ)の返歌である。    
                                         
 (まったく余談になるが、上の2首は男性の書家がよく書く歌で、それも中年好みの歌と
  いわれている。ぼくにはその気持ちが良くわかる。)
     
 僕はこの額田王の歌を詠むと、もう目を見開いたままで、勝手な空想をしてしまう。  
 どういうわけか、それは初夏。そこは古い昔話にある九尾の狐が出るという那須野ヶ原の
ような場所で、いつも風のある半逆光の広い野原である。             
    
 あれは額田王かも知れない。まだ若々しい中肉中背の娘が長い黒髪と、紫の草木染めの衣
をなびかせて、波のようにキラキラ光る芦原を行き、そしてスッと遠くへ消えてしまう。そ
んなさまが見えるような気になるのだ。おまけに、番人の野守りは、これまた何時も黒っぽ
い粗末な衣服をつけている。当時、色は貴族の占有物で身分の低いものは地味なものしか許
されなかったという意識が何処かに働いているのであろう。              
 とにかく場所は蒲生原でもなく、額田王はもう年の頃も35、6才となっていた筈であろ
うに、ぼくの第一印象は未だに変わらないのだ。                   
    
 僕がこの歌に郷愁のようなものを感じるのは、ぼくが「紫」にこだわりを持っているから
であろうか。僕自身、写真撮影時に青系統の選択は、知らず知らずに青紫色の濃淡になって
しまう。紫色が古代から高貴な色、上位の禁色として尊ばれ、今日でも日本女性の民族的愛
好色ということになっていることも分かるような気がする。  
     
 この当時の紫は、ムラサキ草の根の煎じ汁から灰を媒染とした草木染めで、ムラサキは生
産量が限られ重要な染料として大切にされてきた。古代の色の呼び名は、植物や木の名前そ
のものをいい、茜(あかね)[僅かに黄味がかつた赤]は、あかね草の根、蘇芳(すほう)
[赤みがかった鈍い赤紫]は、木の芯のそれぞれの煎じ汁を灰媒染とした色である。   
      
 ムラサキ草は野生は少なくなったが、6、7月頃に本当に可憐な茎4ミリメ−トルくらい
の白い花を咲かせる。紫色は西洋でも珍重され、地中海に生育していた巻き貝から採取した
貝紫をクレオパトラが愛用したといわれる。
     

洗練された王朝文化
    
 さて、ムラサキに尾を引く色彩文化は、王朝時代に開花した。
 王朝時代とは、大体9世紀に始まり12世紀の終わるころまでをいう。この頃は一応平穏
無事、平和ム−ドに酔いしれ、レジャ−ブ−ムで遊びを楽しんだ時代である。しかし、それ
は宮廷貴族とその隷属階級だけのことで、また貴族とともに勢力のあったのは僧侶たちであ
った。 
     
 一般庶民は文字も殆ど知らず、税の取り立に苦しみ、前世の約束事として仏教的な宿命観
に甘んじ、ただ働くほかなかった。女性とても同様であった。          
    
 王朝時代の特徴は、藤原家一門による摂政関白の貴族政治で、天皇にかわって権政をにぎ
り非常な富が集中したことである。なにしろ、大臣の年俸はボ−ナスにあたるものを加える
と、今日に直して約十億円の高額になるといい、その結果はことさら貴族階級が特権意識を
持ち、その裕福な生活がどれほど派手なものであったかは想像に難くない。       
                
 平安後期の貴族社会では、貴族であるべき資格の一つとして、非常に高い文化的な教養が
要求され、女性も立派な家庭教師のもとで和歌、書道、音楽、その他さまざまの高度な教育
を身につけていったようである。                          
 こうした王朝貴族の驚くほどの富と、高度の教養と、そして日本人特有の繊細な美的感覚
を基盤としたゆとりが生み出したものが多くの文学で、ことに傑出した紫式部、清少納言と
いった女流作家たちに代表される女性文化が全盛を極める時代でもあった。 
    
 10世紀の初めに中国大陸では、大唐帝国が滅亡し、交流が途絶えたために、彼の地の文
化がおのずから日本的なものへと変化して行き、これまでの漢詩中心、漢字ばかりを使って
いたのが、仮名、平仮名というものを生み出し、仮名文化の基礎をつくることにもなった。
                  
 色彩面での発展は、ことに洗練された鋭く繊細な美的感覚と、高度の染色技術によって、
新しい色が生み出された。紅梅、桜、山吹、若苗、卯の花、朽ち葉、紅葉、菊、氷襲(こお
りがさね)など、これらは植物や自然の色をさす色目であり、複合的な色彩が多くなった。
そして、さらに衣装の着こなしでは、濃淡の重ね着による優美な反映やぼかしなど、新しい
色彩文化を形成した。
     
 例えば、桜という襲(かさね)の色目(いろめ)は、上は白い衣でその下に紅あるいは葡
萄色の衣を重ねる。そうすると、下の紅や葡萄色が上の白い色の裏にほのかに見え、白い色
が桜色に美しく映えるといった効果を生み出す。                   
 また、重ねた衣がかいま見える袖口や衿では、繧繝彩色(うんげんさいしき)のような効
果が現れるという具合で、非常に優雅で艶めかしく、高貴な感じになる。        
           
 また、十二單衣の衿や裾の色の違いは、まるで色見本帖の小口を切ったような色合いを見
せるなど、錦のような彩りが工夫された。
 王朝文化の彩りは、高貴、優雅、そして艶麗ということである。つぎに王朝文学のうち、
ことに華麗な色彩にまっわるエピソ−ドを少し取り上げておく。  

        
       
王朝文化の彩り
     
 「宇津保物語」という源氏物語より以前の作品の中に、貴公子たちが鷹狩りに出かけると
きの衣装の様子が描かれている。それはまさに今日でいえば、ト−タル・カラ−コ−ディネ
イトの話である。     
     
 男子も女性ほどではないが、その重ね着の効果や配色の工夫は尋常ではない。主人は黄色
に赤みをくわえた荘重な、表裏とも艶のある紅色の練絹の重ね着をし、乗る馬の毛色は赤毛
で馬の頭や胸、尾にかける緒も赤である。一方、お供は茶がかつた赤味を帯びた緑の衣を着
て、馬は白に黒か他のさし毛が混じる蘆毛(あしげ)である。             
    
 この当時、まず衣装の色を季節の風物の色合いにあわせ、持ち物から調度まですべて色を
統一し、さらに衣装の色にあわせた毛並みの馬を選び、馬につける緒の色まで同系統にする
といった大変な凝りようである。   
 今様にいえば、もし毛染めがあったら、さしずめ奇異なスタイルでテレビに現れる小説家
志茂田景樹風に髪の毛を紫色に染め、うす紫色のオ−プンカ−で出かけるいったことであろ
うか。
        
 同じく「栄花物語」には、おしゃれに浮き身をやつす女の虚栄のおかしさが、描かれてお
り、これは男性が読んでも結構おもしろい。
    
 ときは万寿2年正月22日の夜から23日の暁にかけての皇太后、妍子(けんし)の主催
による大宴会の様子である。この夜は派手好みの皇太后のこととて大変な盛会であった。 
    
 とりわけ凄いのが女房たちの盛装である。
 春の十二単衣のかさねの色目は、柳、桜、山吹、紅梅、萌黄といった色合いで、これらの
中から10枚20枚と着こんで飾り立てるのはよいが、今の化繊とちがって絹でつくった上
等なものだから大変な重量になる。その上に唐衣や裳をつけたりで、重さは35キログラム
にもなり、すっかり着込むと立てないで崩れ込んでしまう女房もでるほどである。    
     
 当時の女性の正座は男子のあぐらに対して這臥(はいぶし)という足を軽く曲げて腹ばい
の形をとったらしいが、これは貴人に対する恭啓の行儀ばかりでなく、重ね衣によるもっと
も安定した座り方であったという。
     
 とにかくこうして、うづくまった大輪の花のような女房たちの衣裳の端の褄(つま)の厚
さは、30センチメ−トルもほどもあり、袖口はあまりたくさんの衣が重なって丸くなり、
まるで小火鉢を据えているように見えたという。                   
 こんな有様で明け方まで長い時間座っていたので、終わり頃には「居すくみて、立つ心地
いと侘し」とあり、すくんで立てないようになり、儀式が終った後は、各自の部屋へ入った
が最後、「物も覚えでより臥しぬ」もう何も考えることもできないで、そのまま物に寄りか
かって寝込んでしまったという。
      
 しかし、絢爛として美しいには違いないが、あまりの衣裳の仰々しさは、ひんしゅくをか
い、向かいの席の殿方も「あさましう、おどろおどろしう−−」と目を見あわせて呆れ果て
たという。男性上位の時代、女心という競争心理のエスカレ−トぶりがうかがえるようだ。
            
        

古代の灯り
     
 ところで、僕はこのとんでもなく愉快な物語を読みながら、どうしても気になって仕方が
ないことがあった。これだけ着込んでトイレの方はどうなったかという心配もしたが、それ
は照明のことである。これだけ贅をこらした多彩な十二単衣が、古代の夜の照明ではどんな
風に目に映ったのであろうかということである。               
      
 一般なら「ああ、面白かった」で済むところであろうが、光がないと写らない写真家とい
う職業柄か、ふとライティングまで気になりだすと止まらない。            
 国会図書館では、風化して今にも色が崩れそうな源氏物語絵巻[五十四帖]を特別室でそ
っと開いて、横笛絵、東屋の二点に描かれた燈台の様子は確かめたが、照明の説明は天平、
平安時代の資料が少なかった。あちこち図書館通いをして、今村智也という方が自費出版さ
れた『灯(あかり)とその周辺』という労作を見つけた。その一部を引用させていただきな
がら私見を述べる。
     
 万葉集には、山上憶良の「貧窮問答歌」といった当時の農民の貧乏ぶりが歌われており、
その描写は上手すぎて、気の毒をとおり越して吹き出すようなシ−ンもあるが、農民はカマ
ドの火か月の光を明かりにする程度で暗くなると、もうさっさと寝てしまったようだ。
    
 宮廷では室内に一本の燈台(土器の皿に油をいれ、麻の芯に火をともすもの)を使ったら
しいが、寺院では灯篭が用いられ、年中行事の際には、何百という灯明をともしてお経をあ
げたというのがあり、当時の寺院の威厳たるやすごいものがあったという。
    
 「続日本記」(869年)に、東大寺の大仏に1万2千7百余もの灯明皿による供養を行
い、数千の僧が脂燭(松明かりの簡単なもので獣油をしみ込ませた木や紙)をもって仏像を
巡って供養したという。当時は油が非常な貴重品であったから、最大級の献燈供養であった
のだろう。
 朝廷では、諸国からエゴマの油を献上させて明りに用いており、油の使用は宮廷や寺社に
限られていたという。平安時代にかけて、いろいろな形の燈台、灯篭が使用されたが、源氏
物語絵巻には黒漆塗りの燈台(油皿をのせたもの)が見られる。            
     
(江戸時代の行灯は、二本芯で4ルックス程度、顔を近づけてようやく本が読める程度であ
 る。裸火のロ−ソク燭台は行灯の4倍の明るさがあり、ロ−ソクはすぐれた灯であったが
 これも庶民にとっては相当高価な照明であったという)

                

古代の明るさは
    
 話を元に返して、僕の勝手な想像をたくましうすると、燈台の大きさから推定して油皿の
麻の芯に灯る火は、相当の暗さであろう。
 まず、「色という物は存在しない。光の反射を見ているだけだ。光がなければ色は見えな
い」という大原則から、照明をだんだん暗くしてゆくと明度(明るさ)、彩度(輝き)は落
ちてゆき、十二単衣の色相(色合い)は見分けもつかぬ灰色、黒色へと近づく。     
     
 重ね着のデリケ−トな色彩効果の判別には、少なくとも十帖程度の居間でも最低10ワッ
ト電球くらいは欲しいところだ。                          
(10ワットの光源から2メ−トル離れたところで、約5ルックス程度の明るさがあり、何
 とか色目がわかる。普通の室内照明は、200ルックス、読書には500ルックス程度が
 必要)
     
 ともかく皇太后の主催する大パ−ティである。例の東大寺並の照明をやりたいところだが
油煙や匂いその他物理的空間も考えると、室内では燈台を2メ−トル置きくらいに配置し、
旧暦といってもまだ正月では障子を開け放つというわけには行かないが、庭にム−ドライト
としてかがり火を焚くといったところであろうか。                  
    
 こうした条件では、カメラのメ−タ−も針が振れるかどうか。            
 (簡単なテストによると灯芯から約1メ−トルのところで、1・5ルックス程度。1ルッ
  クスの照度はものの形がようやく分かる程度の明るさ、満月の夜の明るさは、0・2ル
  ックス位である。)       
    
 この程度の照明は、もう相当の暗さで如何に色感の優れた目でも、衣裳の色目や織物の模
様の鑑賞には照明不足である。時間がたつにつれてより暗いところが見えてくるという生理
学的な「暗順応」があっても足りないであろう。                   
     
 僕にはどうもぐっと照明を落とした高級ナイトクラブの薄暗いあの程度の感じかなと想像
する。衣裳の風合いよりアクセサリ−の金銀のほうがチラチラ目立つであろう。男女の会話
の方は、むしろ薄暗いほうがはずむかもしれず、歌のやり取りなどをまじえて退屈はしなか
ったであろう。          
 燈台の高さは、源氏物語絵巻から判断するとちょうど顔の位置くらいだから、目にはキャ
ッチライトとして、燃える小さな火がゆらめき、さぞやチャ−ミングであったろうというこ
とになるだろうか。

              

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