< 火の鳥 > これは、浅間山の鬼押し出しで、モノクロ−ムで写した風化した鳥の死骸と、スタジオで 撮影した孔雀と着色された羽根の合成である。 合成は、異空間・異次元の接触・混合・融合である。キ−・ポイントはそれぞれのものの 大小、コンポジション、諧調のバランスのとり方で、これがちょっとむつかしい。 少しわかりにくい言い方になるが、自分の思った通りにできたものは、だいたい面白くな い。想像以上の不思議さ、ギリギリのバランスが力強い作品を生む。 題名は、ストラビンスキ−の「火の鳥」、手塚治の「火の鳥」からではなく、現像が上が って来た瞬間に感じたイメ−ジからである。 ぼくとしては、この鳥へのオマ−ジュ(献辞)を果たしたように思えた。
< 能 > 能楽は、時折見に行く。能楽堂の雰囲気は、ぼくら時間に追われる日常の次元とは余りに 違い過ぎるので、ちょっとひとつだけ見たら帰ろう思いながら、特に囃しの好きなぼくは何 時も知らぬ間に終わりまで見てしまう。 写真はあまり撮らないので少ないが、モノクロ−ムで動きのある追い写しのひとコマを選 んでネガ表現したものと、夜明けの海を撮ったカラ−を合成した。 ぼくは、どこまでも続く海を行く夢幻能を見たわけだ。 写真の特殊技法は面白くもあり、むつかしくもあるが、技術というものは自分の主題を表 現するための奴隷に過ぎない。安易な使用に溺れると、自分が奴隷になる。長い試みのうち に、自己陶酔がいかに自己を損なうものであるかをぼくは知ることになった。
カラ−における 特殊表現技法のはしり これらの作品が、なぜ口絵カットとして使われているかは、少し説明が必要であろう。 ずっとさかのぼるが、1950年ごろ、ぼくは大阪の丹平写真倶楽部にいて、前衛的な先 輩諸兄を見習って、写真の特殊技法のひとつであるモンタ−ジュ、ソラリゼ−ション等の試 作をした。その時何とかできた作品が「無題」で、今回の2点はその延長である。 (1950年の作品「無題」は,講座 Part 6[私の風景」を参照) ぼくは、東京に来てから、後に天才的な前衛画家になった瑛九のところへ出入りするよう になって、日々多くの若い画家や写真家たちに刺激されたり、LIFE誌で見たユ−ジン・ スミスの「スペインの村」や「カントリ−ドクタ−」に感動し、絵画の造形主義と対決する 写真本来の写された現実で訴えるヒュ−マニティあふれるフォト・エッセイをやってみたい という自分と、瑛九の激しく自由な創作態度を目のあたりにして、創作なら何でもいい窮屈 な写真の垣根を取り外す、垣根を越える作品を作ってみたいたいという、もう一人の自分が あることがはっきりしてきた。 ぼくは前者からスタ−トしたが、4、5千枚を費やした初めてのそのフォト・スト−リ− が出版直前に、プライバシ−と人権問題で中止という憂き目をみて挫折した。 紆余曲折、何とか立ち直って後者の道を歩むことになったが、心理的な反動もあって、早 い話が今度は、ぼくは報道写真をやるわけではない。ならば、創作に写真も絵もない。どこ へはみ出そうがそんなことはどうでもいい。下手な絵などぶっ飛ばすような創造的な玉井作 品なるものを見せてやろうじゃないか、と友人達に吹いたものである。ぼくも若かった。意 気込みだけは相当なものであった。 といって、いずれにしても絵筆は苦手な僕としては、限られた写真の特殊技法をマスタ− しこれを駆使するよりほかなかった。やり出すと徹底的にとことん見極めないと気がすまな い性格は、後に新技法の幾つかを開発し、それにのめり込んで呆れるような苦労をすること になった。創造は感性とか直感とか数多くの失敗や誤解から生まれてくる。 ここに紹介したものは、そのごく初期の特殊技法のはしりといった作品である。 この2点は、かなり技法的に手荒いが、当時としては話題作となり、1962年第2回A PA展の金丸賞を受けた。その5年後、1967年のAPA展で発表した作品「性的人間」 「現代の信仰」は、その年度の最高賞・金賞を受け、特殊表現技法の写真家と見られるよう になったが、モンタ−ジュという同種の技法としての精度、また作品の発想過程にかなりの 差があることがわかる。 (1967年の作品は、講座 Part1 を参照) 今回、口絵にカラ−モンタ−ジュを持ってきたが、この講座で特殊表現の実技を指導する つもりではない。色の解放は抽象絵画によってもたらされた最も重要な出来事であったが、 写真においても現在の世界はその方向を目指す動きがあり、感覚としての広がりを理解して おく必要がある。ぼくはこれを示唆する意味で掲載した。 次回からは、「色」というものへの認識を、具体的な解説で少しづつ展開して行く。