東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子旧別子(2-2)


旧別子(2-2)


木方焼鉱窯跡

   高橋精錬所を過ぎた山道にも、所々に説明の立て札が立っているが、回りを見渡しても普通の山林で、それらしい形跡が認められないことが多い。
 
 山道から、かつては見えていた対岸の遺構の説明もあるようだが、今は樹木が生い茂り何も見えない。
 
 この辺りでは、焼鉱窯が並んでいたらしく、石積の一部が確認できた。


旧別子案内 No 15
木方部落跡(対岸)

 
 対岸一帯を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には、建屋や住宅がびっしりと並んで建っていた。
 正面に見える石垣は明治25年(1892)目出度町から移転した、重任局(鉱山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。目出度町と木方との間には、足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積みがここからよく見られる。
 この先の谷が両見谷、つづいて見花谷で、下部の樹林の中には、鉱夫の住宅が密集して建てられていたが、明治32年(1899)8月の台風で、見花谷の部落は山津浪によって下の川に流され、多数の死者(全山で513名)が出た。
 
 


旧別子案内 No 11
 木方焼鉱窯跡と重任局跡
 
 この辺りは、木方とよばれ道の上部一帯には焼鉱窯(鉱石のむし焼き炉)が並び、道の下方、足谷川の川べりには鉱夫の住宅があり、南口に近い方には明治25年目出度町から移された重任局(鉱山事務所)があった。
 
 重任局の屋根の上には「やぐら太鼓」(明治2年設置)がおかれて、山中10,000人余の住民(従業員数2.300人)に時を知らせていた。重人局には、当時鉱山支配人をはじめ多くの職員が勤務し、銅山の中枢を形成していた。
 
 

木方吹所と裏門

 
  明治20年頃の木方吹所(精錬所)を南側から見上げた風景である。
  中央左寄りに土橋があり、その右下で谷が分かれている。
 右が足谷川で左の方を奥窯谷という。足谷川に面して右の山側に立ち並ぶのは木方吹所である。
 この時点では高橋精錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
  左上から斜めに箱樋が掛り、その左で白煙が上がっているところは明治13年から生産が始まった最初の湿式精錬所(沈殿銅)の施設であろう。
  左の巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積みが天に尽きだしている。
 当時の和式製錬では1トンの銅をつくるのに4トンもの木炭を使っていた。
 木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。
 因みにこの辺りを裏門と呼んでいた。
 
 
  
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見花谷と両見谷部落跡

山道の中、文字が消えかかった説明文があったが、木で覆われていて対岸が良く見えない。
 この対岸に両見谷及び見花谷があったようだ。

旧別子案内 No 12
見花谷と両見谷部落跡

 
 対岸の目出度町の左方の谷で、向かって左側が両見谷、右側を見花谷といい、これらの谷の間のせまい急斜面の尾根に木で張盤をつくり、その上に建てられた鉱夫の住宅が何段にもひしめき合っていた。
 別子開坑以来の大惨事といわれる明治32年8月の台風(山中の死者総数513名、倒壊家屋122戸)で、大音響と共に生じた山津波により、見花谷部落の平和な鉱夫街は一瞬にして押し流され、多くの人が家もろともに、眼前の足谷川の濁流にのみこまれた。
 
 
  
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目出度町鉱山街入口


旧別子案内 No 14
目出度町鉱山街入口

 
  ここから足谷川源流を渡り、蘭塔場を廻って山中に入ると目出度町である。
 銅山の中心街で明治時代にはここに重人局(鉱山事務所)、勘場(会計)、大山積神社、新居浜新座敷(持続館)、住友別子病院、郵便局、別子山村役場、小学校分教場、料亭一心ろう、伊予屋雑貨店や住宅が櫛の歯のように並んでいた。
 
 このように栄えた街も大正5年春、別子上部撤退後すべて撤去され、その跡は植林されて今は石垣の跡に昔日の面影を止めるにすぎない。
 目出度から見花、両見谷を通り奥窯谷に出て東延からの道と合する。
 
 
  
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