昔このあたり一帯は沼地であって、みずみずしい葭が茂りその一部に一きわ清く清水をたたえて池状を呈し 岸のほとりに一本の青柳のゆらぐところ、そこが「葛淵」である。
こんこんと霊水の湧き出るこの泉、 ここには古来幾多の物語が伝えられ、神聖な霊泉として里人の信仰を集めていた。 一宮神社に関係のある神の泉として毎年正月七日の早暁、体を清めた宮司がこの霊泉のほとりに祭場を設けて、祓詞を奉し霊泉の水を汲み、この水を神に供し、この水を用いて神餅 調理するのであった。 このことから後世この町の名を若水町と呼ぶようになったものである。 又この泉は雨乞いの霊地とされ、ひでりの際は笹ケ嶺に登り 日月の池の神水を汲んで持ち帰り、この水を葛淵の神龍に捧げて祈念すれば直ちに雨を賜ると云われて、いよいよ農民の信仰を集めていったのであった。 また歴史の上では、この「葛」は新居の「津倉」のなまったものと考えられている。 奈良朝から平安、鎌倉時代にかけてわが新居の庄は、東大寺、法隆寺などの寺社或いは佐々木盛綱などの武家の荘園であったが、これら荘園所領者は、収納米を保管するために船積みに便利なこの「葛淵」あたりに倉庫を設けて「津倉」と呼んでいたものと推定される。 又正平二十二年 予章記にもみえる「新居津倉淵」といふのは、当時現在の「葛淵」あたりに設けられてあった倉庫でその津倉淵が次第に訛って「つづら淵」と呼ばれるようになったものである。 |
昔々、石錠山の神さまが、近くの笹ケ降へ登った。この山は石鎚とちがってなだらかで、頂一帯はクマザサが生い茂る美しさに、しばらく滞在し、山の八合目に住居所をつくり、近くへ「日月」の二つの池をつくりました。この池の水は清く澄み美味な水でした。 神さまは、「こんなにいい水を、里人たちにも味わわせたいものだ。」と考えられ、小石を拾い「この石の落ちた所へ、日月の池と同じ水が出るように。」と唱えながら力一杯投げると、新居浜浦の山の南側に落ちて池となり、次いで石を投げると、山の東側に落ちて池ができた。 三度目は三メートルほどもある石を「もっともっと浜辺の方に大きな池ができるように。」といわれ投げると、底知れぬ深い池ができて、美しい水が湧きあがった。「あの水は、浜辺に近いから、辛味があるに違いない。しかし、真水ばかりよりも、御飯を炊くと、とてもおいしいだろう。」とたいへん御満足になった。 里の人たちはたいへん喜んで、最後の池を「薦淵」と名づけた。 ある年に、大日照がして、田畑の作物が枯れそうになり、雨ごいしても一粒の雨も降らず困りはてて、 みなで相談の結果、「笹ケ峰へ登って雨ごいをしよう。」と決まり、葛淵の水を「ヒョウタン」に汲み、山に登り日月の池に水をうつし、下山の時は日月の池の水を「ヒョウタン」に汲み、蔦淵へ「日月の池の水を龍王さまのおみやげに持って帰りました。」といって、池に入れお祈りしますと、にわかに大雨となり、田畑の作物も草木も生き返った。 それからは、大日照の年には、葛淵の水と日月の池の水を交換して、雨ごいをするようになったといわれている。 いつの頃からか、葛淵の水は一宮神社のご神水として、正月七日の朝に神前に供えられるようになった。 今も葛淵の岸には、川ヤナギが生い茂り、池の中にはサカナがたくさん遊泳している。 (伊予路の歴史と伝説・愛媛の伝説 合田正良 一宮神社官司 矢野峯義稿) |