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四阪島で使われていた消防車のミゼット |
坑内自転車 |
別子銅山図屏風
(住友史料館所蔵・別子銅山記念館展示)
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近代化前夜
−幕末期(19世紀中期)−
幕末期の別子銅山は、元禄4年(1691)の稼業以来、百数十年にわたり住友の一手稼業であったため、かなり秩序だった経営組織を持っていた。銅山支配方の配下、勘場・鋪方・吹方・選方・立川中宿・新居浜口屋の六店部に分かれ、それぞれ組織的に運営されていた。 新居浜口屋は、新居郡新居浜浦に設けられたもので、諸物資購入や荒銅(粗銅)の大阪輸送を取り扱っていた。立川中宿(同郡立川村)は、銅山への登山口にあたり、新居浜口屋から銅山までの諸物資運搬の中継基地である。荷上げの生活物資や荷下げの荒銅は、新居浜口屋から立川中宿までは馬荷輸送され、立川中宿から銅山越えを経て勘場に至る約12キロの険しい山道は、立川中持と呼ばれる運搬夫によって送られた。
立川中宿から山道を経て、海抜1300メートル程の銅山越えを南に越えると宇摩郡別子山村となる。銅山越を少し下がったところに鋪方役所(採鉱本部)があり、ここに主要坑道の本鋪(歓喜・歓東坑)があった。ここから東側にやや下がったところに山の守護神を祭った大山積神社があり、さらに東側に東延の採鉱場があった。鋪方役所の階下には鉱石の破砕選鉱を行う下金場があった。下金場から東側一帯に焼鉱用の焼竈があり、その西、銅山川右岸の風呂屋谷・見花谷には、稼人の社宅である下財小屋が点在していた。その山腹には、石を積み上げて城郭のような構えをした勘場(銅山の統括事務所)があった。ここでは支配人以下の手代が詰め、日常生活物資も販売していたため、諸物の蔵に囲まれていた。勘場の側には、銅蔵・医家・銅山村役人の居宅があり、そこをさらに下がると吹方役所があった。ここでは、隣接する 吹床・間吹床で製錬された荒銅を、山役人の立会のもとに貫目改めを行った。吹方役所の周辺には製錬用の炭蔵があり、銅山川沿いに東に下ると弟地・落合炭方に至り、土佐藩領には桑瀬炭方もあった。
天保11年(1840)の別子銅山は、開坑150年を迎え銅山図屏風が描かれたが、老山の宿命ともいうべき「遠町深鋪」(燃料物資調達の遠隔化と坑道の深化による湧水)による産銅高の減少と、鉱石品位の低下によるコストアップに悩まされていた。
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近代化の息吹
−明治前期(19世紀後期)−
明治元年(1868)正月、幕府領であった別子銅山は、新政府配下の土佐藩の進駐を受け、没収される危機にあった。これに際し、当時の別子支配人広瀬宰平は、元禄4年の開坑から180年余にわたる、経営実績を示し、その、継続稼行が国益にかなうことを主張して、これを認めさせた。
別子支配人広瀬宰平は、維新後二度にわたる官営生野鉱山出仕の経験から、別子鉱山の近代化には、西洋技術を導入する以外ないと考えていた。このため、明治6年6月、生野鉱山の御雇い外国人コワニェの視察を受け、翌7年1月にフランス人鉱山技師ラロックを雇用、翌年に、近代化プラン「別子鉱山目論見書」を得た。
明治9年2月、広瀬はラロックの作成したプランに基づき、@東延斜坑の開鑿、A別子−新居浜間の運搬車道建設、B高橋洋式溶鉱炉の建設などを決定、明治13年に至り、運搬車道(牛車道)や高橋鎔鉱炉が順調に完成した。
続けて明治13年8月には、@東延斜坑連絡の横支坑道開鑿、A第一通洞の開鑿、B高橋鎔鉱炉の増設を決議し、同15年には新たに@坑内へのダイナマイト採用、A新居浜惣開精錬所の建設、B立川精銅場のコークス採用を決した。
明治19年2月には、第一通洞が角石原−東延間1100メートルのトンネルで貫通すると、銅山越えの険しい牛車道が廃止された。
明治32年8月28日の台風による大水害で、513名の貴重な人命とともに山内の諸施設を失った。これを機に、同年11月1日、別子鉱業所本部は新居浜に置かれ、旧別子時代は終わりを告げた。
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別子銅山之図(国立科学博物館所蔵)
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四阪島までの送電に使われた海底ケーブル。
大正11年(1922)に敷設された延長20kmの海底ケーブルは、当時世界最長といわれた。
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近代化の展開
−明治後期〜昭和時代(20世紀)−
明治30年2月8日、惣開精錬所の煙害問題を解決するため着工された四阪島精錬所(新居浜沖約20キロ)は、37年12月に完成、翌年1月から操業を開始した。しかし、かえってその煙害範囲を周辺の4郡にまで広げ、煙害問題は完全解決とはならなかった。
その後、昭和14年7月、中和工場の完成によって、ようやく34年にわたる四阪島煙害問題は集結した。
明治35年8月18日、第三通洞が完成すると、坑口にあたる東平周辺(海抜750メートル)の開発整備に着手した。まず37年東平第三変電所が設置され、翌38年8月からは坑内電車が走った。同年7月13日には黒石までの複式索道が開通し、8月東平選鉱場が建設された。大正4年(1915)6月には、第三通洞と第四通洞を結ぶ大立坑が貫通した。これを契機として、5年1月、採鉱本部を東延から銅山峰の北側の東平に移し、旧別子側の施設はそのほとんどが撤去された。
明治37年10月落シ水力発電所、38年12月新居浜火力発電所、45年5月端出場水力発電所がそれぞれ設置され、動力の電化が進むと次第に大量出鉱体制が整備され、採鉱現場も下部へ向かって拡大、別子式さく岩機などの普及もあって、出鉱量は大正時代に入って急増した。
昭和2年(1927)2月、11番坑道と第四通洞を結ぶ東斜坑を開鑿し、さらに同年8月には端出場に手選場が建設され、採鉱部門は端出場に集中するようになった。昭和5年5月には東2号斜坑が完成すると、採鉱本部を海抜750メートルの東平から同156メートルの端出場に移転した。
昭和2年10月、鷲尾勘解治が最高責任者に就任すると、別子銅山の鉱量調査を実施、その結果、鉱質も鉱量も非常に悪くなっており、別子の経営は「末期の経営」であると公表した。そこで鷲尾は、銅山なき後の新居浜の後栄(繁栄)策を提言した。当時の新居浜町長白石誉二郎は、この計画に賛同し、鷲尾が新居浜を去った後もこれを協力に推進し、その後の新居浜の都市計画の基礎として生き続けた。
第二次世界大戦中の増産強行による乱掘で、別子鉱山の諸施設は荒廃したが、戦後の復興計画により、昭和30年9月以降、生産水準は戦争終結前の状況まで回復した。47年9月30日、別子本山下部坑が操業を停止、翌48年3月31年、筏津坑が操業を停止し283年間に及ぶ別子銅山の歴史は、ここに幕を閉じた。
その後、新居浜の町は、別子鉱山から派生した産業によって、現在も瀬戸内工業地帯の中核都市として、残された産業遺産と共存しながら発展している。
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