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極楽寺
石鎚山ロープウェイの方に行く途中に、極楽寺という寺がある。
ある人から、3月3日に極楽寺にて柴灯大護摩供養(山伏の火渡り、山伏太鼓)が行われているという情報をもらい、出かけてみた。
道路沿いの駐車場に車を置いて石段を登るが、かなり長い道のりであった。
登りつめた所に極楽寺の本堂があった。
出かけた時には、柴灯大護摩供養の準備はされていたが、開催はまだのようであった。
開催の時間については知らなかった。開催を待つわけにもいかず、柴灯大護摩供養は見ずに帰った。
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柴灯大護摩供養の護摩壇
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西條の歴史探訪 (明比学 昭和60年)には、以下のように記されている。
極楽寺は九品山浄土院という。本尊は阿弥陀如来である。
いま、「極楽寺縁起」によって当寺を紹介すると、「石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代にはには兵火によって炎上し、焼失するに至ったのであるが、康永元年(1342)、細川頼春、大軍にて天河寺に陣を敷くとの記録もあるので、諸々の事情により、遂に炎上したものと考えられる。
瓶ヶ森に祀られていた石槌蔵王権現を、天河寺より拝し、且つ、修行のため登拝していたが、天長5年(828)、今の石槌山頂に遷座して今日に至っている。
瓶ヶ森が石槌権現の山の時代には、天河寺が常住としての役割を果たしていたものと思われる。
天河寺炎上の折り、行善大徳は、その高弟宥法師に対し「阿弥陀三尊を奉持して、直ちに下山し、天河寺山麓に、天川寺の法灯を継承する道場を構え、役の行者の御心を体し、爾今、庶民信仰を中心とした道場とせよ」と命じ、自らは炎の中に遷化せられた。
宥法大徳は大保木の地に、天河寺が仰ぎ見られる場所を探し、堂一宇を建立し「極楽寺」と名づけ、天河寺の法灯をそのまま継承するに至った。
その後数年を経て、天河寺焼跡の地中より「中央石鎚金剛蔵王大権現」の御尊像を発見し、極楽寺「蔵王殿」に奉安され、千三百年の歴史を秘めて、今日に伝わっている。
天河寺は、この時以来寺号を廃し、石鎚山の総鎮守、八大龍王も極楽寺に奉安し、役の行者の御持仏である「波切不動明王」と共に祀られて、今日に至っている。
昭和27年、宗教法人の定めるところにより、「石鎚山真言宗」として、末寺、教会50有余を持つ総本山として現在ある。本坊には阿弥陀三尊をご本尊とし、八大龍王を鎮守として祀られ、護摩堂には、石鎚金剛蔵王大権現をご本尊とし、波切不動明王をはじめ諸仏が祀られ、全国に信徒10万を有し、法灯は日夜輝いている。」と。以上が「極楽寺縁起」の要約である。
境内に「銀杏義民」の記念碑があり、寺に義民の位牌を祀る。
当寺に一柳直卿(頼徳)公の筆跡額一面を蔵する。
義民の一人である大保木村庄屋高橋平左右衛門の墓は、当寺より数百m西南にある。
本坊に登る石段横に別院があり、力持用の「力鎚」(一人用・二人用)が置かれている。
天河寺時代よりの寺とされている「坂中寺」の本尊は、千手観音、黒瀬の光昌寺は十一面観音で、現在、共に極楽寺の末寺となっている。