故武内茂夫先生

1916

1987年夏・湯の浦ハイツにて

2000

故武内茂夫先生は平成12年1月19日午後11時23分に今治市において逝去されました。享年83歳でした。先生は1987年以降、初代代表の飯塚芳夫の跡を引き継がれて、1021名にも及ぶ織田が浜訴訟原告団代表を最後まで務められました。先生と飯塚は親交五十年以上の盟友でした。裁判の結果はご存知の通り原告側の敗訴で終わりましたが、異例の高裁への差し戻し審の最高裁法廷で、1993年に原告を代表して堂々と織田が浜を守るべき信念を主張されました。
13年間にも及ぶ全国が注目したこの訴訟で敗れたとは言え、以後の日本の環境をめぐる住民訴訟に歴史的な転換点をもたらしました。環境訴訟の天王山と言われた「織田が浜」以降、環境庁は全国にある開発か保全かを争っている現実の環境問題に関して、環境アセスメントにより重点を置く姿勢に転換しつつあります。そして先生が亡くなられたその日に投票が行われた、吉野川の第四堰の建設に関する徳島市民の住民投票は圧倒的多数で反対票を勝ち取りました。私たちは先生の棺の前で、「織田が浜は吉野川まで続いている!」と霊前にご報告しました。
1月22日の告別式では500名以上の市民の方々が参集され、先生の広範な友人ばかりでなく、かっての元政敵の方々までもが参列して弔慰を表してくれました。敵味方を超えて、先生は全ての市民から愛されていたことを証明しています。
先生は市議と県議を努められた長い政治活動の中で特筆すべきは、先生は政治活動を始められた時も「一人の農民」であり、逝去される時もまた「一人の農民」であられたということです。やはり元県議であられたお父上と同じく、先生もまた地元の蔵敷地区の総代を五十年の長きに渡って努められたということで、実に親子で約百年間この地区の総代を努められたことは他に類例のないことではないでしょうか。
1987年に今治市・湯の浦地区で開催された、第17回日本自然保護大会の事実上の会長として、様々の立場の意見を纏められて、「織田が浜大会」と呼ばれたこの大会を成功に導かれました。上の写真は、その時写されたもので、先生の告別式で参拝者に無言で微笑みかけてくれました。
私たちは先生の逝去に際して大きい悲しみを覚えると共に、長年に及ぶ先生のご指導に衷心より感謝するものです。そして今は、先生が天国で、先に逝かれた昔の仲間達と時間に縛られることなく、昔話に華を咲かせておられると想像しています。そして、先生の遺された偉大な歴史的な業績は、二十一世紀の若い世代によって必ず継承されるものと確信致します。
本当に長い間、休む暇もなくお疲れ様でした。望むらくは、どうか安らかにお過ごし下さい。合掌。

朝日新聞・愛媛版

織田が浜訴訟の
元原告団長
武内茂夫さん
逝く

全国の
環境保護運動に
勇気を
与え続けた

Jan 22

先生の逝去を伝える紙面

2000

1999

先生の盟友・故飯塚芳夫の十三回忌に墓参された時の写真(左側)
お二人は五十年以上の親交を通じて、何者をも恐れない固い絆で
結ばれていました。ここに慎んでご冥福をお祈り致します。

2.26

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