005
清嘯の最晩年の南画を発見する
画家や書家の作品は、その最晩年に燦然と華開くと云われる。初物と共に古美術の世界でも値が張る。今から丁度100年前の明治32年(1899年・己亥)に広島で客死した清嘯がその年に描いた南画に遭遇することも出来た。二人の調査員は晴天翁の古い友人を紹介されて、訪ねたその家に大切に保管されていた、清嘯の絶筆の南画を拝見して深い感銘を受けた。「己亥晩春画・桜井郷」とはっきり解読できた。また、同年の別の画に「清嘯老人」とあり、それまでの画には「清嘯道人」または「清嘯山人」とあるのとは際立っている。また「己亥」の年に描かれた他の画には、「己亥春画・吹揚城」とあり、今治城にも招かれた事が解る。書画は100年を経ると輝き始めると云われるが、将にその百年目の画を目の当たりにして、その感を強くした次第である。特別に許可を得て何枚か写真を撮らせてもらったが、次の画はまた別のものである。

006
頼杏坪の最晩年の書も見つかる
蘭疇と清嘯の調査を始めた時に、もう一幅の「万象皆春堂・七十八翁・杏坪書」という扁額が石丸家に昔からあったが、これも当初は何者の書かも解らなかった。そしてこの疑問も、晴天翁に見てもらうとたちどころに解明された。それは頼山陽の叔父で広島藩の儒者である頼杏坪の最晩年の書であった。杏坪は天保5年(1834年・甲午)に没しているが、将にその絶筆の書であるかもしれない。因みにこの年に、広重の「東海道五十三次」が完成している。
清嘯は田能村直入の弟子であるとされているが、直入と山陽が友人である事から、山陽の紹介で直入は京都画壇でも名の知られた画家であったという。直入の師の田能村竹田は云うに及ばぬ、当時の南画の大御所である。そんな事で、大分県立図書館に「直入の弟子に竹富清嘯という人がいませんか」と質問状を出したこともあった。
杏坪が没した天保5年には、まだ清嘯は生れていないから、時代は異なるがこれも何かのご縁があると思うのでご紹介した次第である。今治市桜井地区は、石丸家の先祖に石丸忠兵衛という人がいて、桜井地区を開墾したという顕彰碑がJR予讃線桜井駅近くに現存する。石丸家の隣に油商の村上家(伊予水軍の末裔)があり、両家は親しく文人墨客がどちらに来ても相互に交流していたと云われるが、その村上家は現在では誰も住む人もなく、「悟竹居」と呼ばれた竹が今も現存する。縁故者の方は東京方面に転居されて久しいと聞く。
こうして僅か100年前のことがよく分からない。これらの書画が残っていたので唯一の手掛かりとなった。調査が完了したら何らかの形で文献に留めておきたいとの念願を強くしている。清嘯と蘭疇を知る関係各位のご指導とご協力を一重にお願い致します。

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