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清嘯南画の里帰り
明治32年の最晩年の清嘯作の南画は幾つか、現在の愛媛県今治市桜井地区で発見されているが、その一部が既にお里の熊本県に辿りついている事が判明した。財団法人・島田美術館より送られて来た、「竹富清嘯、遅れてきた南画家」の所蔵作品目録を子細に見ていくと少なくとも10件の作品が桜井地区から熊本に里帰りしている。
(1) 目録の3「
秋蓮に蟹図」には、「庚辰秋写・皆春園・清嘯山人」とあり、「皆春園」とは「万象皆春園」の事である。
(2) 目録の4「江上釣舟図」では、「庚辰(明治13)秋日写・皆春園・清嘯」とある。
(3) 同じく目録の4「
柳・書舎図」にも「庚辰秋日写・皆春園併録王世・詩・清嘯山人」とあります。
(4) 図録の11「
天保九如図」には、「丙戌初春写・万象皆春園以為鉄軒石丸国手嘱・清嘯」とある。鉄軒は現在の7代目、石丸秀三先生の祖祖父に当たります。鉄軒と清嘯は20年近くの親交があり、最晩年の明治32年にも清嘯は鉄軒を訪ねて南画を多く残している。「万象皆春園」とは天保5年の頼杏坪最晩年の作品に同名の扁額が石丸家に現存している。石丸家の病院は江戸時代には、「万象皆春園」との雅号を称していたと思われます。(前記の添付写真をご参照下さい)
(5) 目録の42 「
江山停舟之図」には、「己亥春日写・吹揚城客次併録李群玉詩・清嘯老人」とあります。「吹揚城」とは今治城の別名であり、現在も天守閣等が復元されている。また城内には、吹揚神社もあります。この神社の碑文にも清嘯が揮毫したものがあると聞き及んでいます。この「舟之図」には同時に制作された別の作品が残されている。

明治32年桜井郷
(6) 目録の8「渓山高隠図」には、「乙酉(明治18年)秋沙写・松涛軒以為翠谷大雅君嘱・正清嘯」とあります。松涛軒は現在の桜井地区の綱敷天満宮境内の梅林あたりと聞いています。翠谷大雅君とは一説によれば京都から来た貴族の出であるとも言われています。
(7) 目録の9「
帰牛図」には、「乙酉秋晩写・松涛軒併録楊誠斎詩・清嘯道人」とあります。明治18年〜19年は長く当地に滞在されたようです。
(8) 目録の10「
枯木図」には、「乙酉小春写・松涛軒併録唐人詩・清嘯」
(9) 目録の10「竹富清嘯画譜」には、「丙戌春日画・梧竹居・清嘯」とあります。梧竹居とは石丸家の隣にあった、油商の屋敷の名称であり、伊予水軍の末裔とのことです。縁故者の方は現在は東京方面に居られるとも聞いています。元の屋敷跡には今も人知れず呉竹が残っています。(写真
Gochiku-004
(10) 目録の10「魚樵対論図」にも、「丙戌春日写・梧竹清居併題・清嘯」とあります。
こうして今確認できるだけでも、10件の作品が桜井地区より熊本に里帰りしている。清嘯と当地は当時から余程のご縁があった事がよく分かります。そして今年が清嘯が没して丁度100年の記念すべき年に再び桜井地区と熊本の交流が再開された意義は大きいと考える。更に調査を進めて詳しい資料が集まれば後世のために何らかの記録に留めたいと念願している。資料を快く提供して下さった関係者の皆様方、詳しい清嘯南画展の図録を送って下さった
(財)島田美術館に心より厚く御礼申し上げます。(平成11年10月3日・文責H)


明治13年石丸家

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