003
南画師、清嘯とは一体誰か?
長崎への調査から帰ると、蘭疇(松本順の雅号)のことを主に調べ始めた。長崎大学医学部の図書館で見た、「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」(昭和8年・東京医事新誌局発行・鈴木要吾著)も最近になって別の出版社から翻刻出版されている事をインターネットによる検索で見つけて取り寄せたりした。明治40年(76歳・丁未)に大磯で没するまで、多彩な文化活動をした松本順は「日本で初めて」という事を幾つか普及させている。それは写真術、酪農、海水浴という現代日本人にとって日常生活に密接している事柄であるのに驚かされる。最晩年には貴族院議員となり従三位まで登りつめた巨人も、京大の前身である舎密局長を勤めた長男を明治12年に亡くし、大磯に引退した後の明治26年には妻と次男も亡くして家庭的には孤独であったと思われる。
そんな時NHKラジオ第一の新選組の講談を偶然聞いていると、近藤勇を治療する松本順が登場していた。まもなく没して百年が近いので、そろそろ見直される歴史的段階に来ている事を実感している。南方熊楠が英国の「ネイチャー誌」に50回近く投稿した記録はまだ誰にも破られていない様に、松本順もこれから再認識される巨人の一人であると思われる。
松本順を調査して行くに連れて、それでは竹富清嘯とは何者かというもう一方の謎が大きくなって来た。インターネットを駆使しても松本順は検索できるが、清嘯は全く探し当てる事が出来ないでいた。そんな時、今治市郷桜井に住む陣屋晴天翁にたまたま、竹富清嘯について質問する幸運を与えられた。翁はたちどころに、「清嘯は肥後の人で、天保10年の生まれで桜井に何度か来ている」と教えて頂いた。望外の発見に、秀三と飯塚は万歳する程の喜び様であった。将に「灯台元暗し」であった。9月に入って直ぐに、二人の調査員は翁を久しぶりに訪れた。翁は昔、翁の父が「清嘯は書がうまいから必ず値打ちが出る」と言っていたと教えてくれた。そして、明治13年(1881年・庚辰)、明治19年(1886年・丙戌)、同28年(1895年・乙未)、同32年(1899年・己亥)の四回も今治市桜井に来た事、四代目石丸鉄軒(大正12年没)と懇意であったとも教えてくれたのである。そしてそのことを証明するもう一つの扁額「清玄書楼」(明治19年・丙戌)が石丸家に現存していた。また、古美術に詳しい翁からは今治市には、清嘯の描いた南画を今も所蔵している人が何人かいることも教えてくれたのである。

004
遂に竹富清嘯の所在が明らかになる!
それは9月も半ばを過ぎて、17日の午後三時過ぎに突然解明された。この日は朝から陣屋晴天翁が何度もお電話を下さり、「熊本の文化財保護課に電話したら分かるから」と催促してくれたので、飯塚は仕事の間隙を縫って始めに熊本県庁に電話して、文化財保護課の職員から「県立美術館の担当課長さんにお聞きください」と指示された。そして遂に、担当課長さんから「清嘯は五個荘の生まれで、明治32年に広島で没した。明治10年の田原坂の戦で戦死した官軍兵士の墓碑銘を、乃木に請われて多く書いた。最晩年は各地を放浪して南画を描いていた。熊本市では今も清嘯の展示会が時々行われている。島田美術館にはコレクションもある」等とご丁寧に教えて頂いた。この二年間の謎が、電話調査を始めてから僅か20分で解けた。島田美術館にもお電話して、前回の展示会の図録を送って頂くようにお願いも出来た。氷が溶けるよりは速く、水が滝を落ちる速さであった。診療所に居た飯塚は仕事を中断して、同じく病院で回診中の秀三に電話して、まださめやらぬ興奮を伝えた。そして、明治10年こそ、蘭疇と清嘯の歴史的な出会いが西南の役直後の熊本であったことを確信したのである。

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