松本順と竹富清嘯(1)

Study on the relation between Jun Matumoto and Seishou Taketomi

Shiuzou Ishimaru, Heikichirou Ihzuka 1999

001
松本順と竹富清嘯の出会いは何時、何処で実現したか?
1861年(文久1年・辛酉)若干26歳の松本順は、江戸幕府の全権を託されてポンぺの医学所を長崎に開校して校長となった。ポンぺの後任のボードエンを迎えると江戸に帰った。その後幕末の動乱期を最後まで幕府に忠誠を尽くしたが、横浜で近藤勇らと共に捕らわれた。大政奉還が実現して明治維新が成り許されて自由の身となると、明治3年( 1870年・庚午)早稲田の地に「蘭疇舎」という日本で二番目の西洋式病院を建設した。同6年(1873年・葵酉)には元敵方の初代軍医総監という最高の地位を与えられた。そして同10年に職務のために、大阪、広島、熊本に派遣された。この年に西南の役が西郷の自刃により終わるのであるが、激戦を極めたあの 「田原坂の戦」で両軍に多数の死傷者を出した。名誉の戦死を遂げた官軍の兵士を厚く弔うために、乃木らは地元熊本で書の上手な南画師、竹富清嘯を呼び数多くの墓碑銘を書かせたとのことであるから、この年に熊本の地で初めて二人の邂逅が実現したのではないかと考える。

002
それは一幅の扁額から始まった
石丸家は代々医者の家系であるが、秀三は昭和15年に六代目の正勝の三男として生れた。九州大学医学部在学中に父を亡くしたために、卒業と同時に暫く休業していた父の診療所を継いだ。その石丸医院の玄関を上がった処に、秀三自身が子供の頃から見慣れている古い扁額が掛けてあった。その書には「補天医院・応清嘯、蘭疇書」と読める。押印は上に「松本順印」下に「蘭疇」とはっきり解読できるのである。秀三は先祖の家系について何時か詳しく調査して記録を残しておきたいという願望が日増しに高まっていた時であったので、この書を書いた「蘭疇」とは一体誰か? また、この書を依頼してくれた「清嘯」とは何者か? いづれも全く手掛かりがなかった。1998年の5月になると、秀三は三歳後輩の医師、飯塚平吉郎に命じて長崎に調査に赴かせた。今は亡き母から「先祖の誰かが長崎で医学を勉強して来た、あの扁額もその時書いてもらった」と言われたのを思い出していたからである。
飯塚は昭和45年に京都大学医学部を卒業して、通算33年間京都に住んでいたが、秀三の勧めもあり定年より10年早く帰省して秀三の経営する補天会の病院と診療所を手伝っていた。飯塚は自身がどうして医者になったのか分からないという変人ではあるが、やはり先祖の家系を調べておきたいと考えていたので、秀三の指示を喜んで長崎の調査を始めた。電話と手紙でポンぺの門人帳と蘭疇の書籍が、長崎大学医学部にあることを突きとめると、長距離運転が専門の経験を生かして日帰りで長崎の調査に出かけた。そして、蘭疇とは松本順その人である事、石丸家の先祖の名はポンペの門人帳には載ってない事、しかし清嘯は誰なのかは皆目検討も付かずに帰ってきた。「補天医院」の扁額が松本順の直筆である事だけは確認することが出来たので、僅か3時間の長崎滞在であったが、第一回目の調査旅行は成功を収める事が出来た。

Go to next