瑛九との出会い     「写真家への道」


れいめい」 瑛九
         
 彼は1956年から翌57年までは、
リトグラフ(版画)に没頭。製版や印刷
もほとんど独学で身につけ、150点と
いう驚異的な数の作品を生み出した。
「僕はリトにとりつかれてなかなか脱出
できません。まったくリト病です。  
 すべてのものを放棄して金は、全部リ
トの材料です。僕はリトのために、ヨイ
ドレが酒のために金が欲しいように金が
欲しいのです。」これは彼が友人に宛て
た手紙の一節である。
 瑛九は当時版画は半画と軽く見られて
いたものを、すさまじい創作力で独自の
精神世界を表現し、版画を油絵と平等の
地位にまで高めた最初の人である。






写真家への道

 
 僕は、「私の風景」Part7で、述べたように大阪から上京した。
 写真家への道は、大阪での2年が写真への目覚めとすれば、東京へ来てからの2年は、本
格的な写真家への道であり、人生での第2のチャンスといえる前衛画家瑛九との出会いなど
再度の僥倖に恵まれた。実質的には写真大学から美術大学まで、7、8年はかかりそうなフ
ルコ−スを、2年間の独学コ−スでやるような超多忙な日常であった。この期間にもまた、
「めくら蛇に怯じず」とか生来の好奇心と写真への情熱から多くの先輩、友人などの知己を
得て勉強をさせてもらったが、印象深かったことの2、3を述べておきたい。




雑誌社 北原白秋一家

 写真はまったく独学という土木屋から写真界への転身の入口が、たまたま写真書の出版社
というのもつきがあった。                             
 僕が入社する「写真サロン」を発行している会社の社長がどんな人かも知らず、九段下の
会社へ挨拶に行くと、その人は北原白秋の従兄弟で北原邦雄さんという人であった。   
 さらにすぐ近くの神保町で、北原家の長男白秋の次弟にあたる鉄雄氏が写真誌「アルスカ
メラ」、三男の義雄氏は美術雑誌「アトリエ」のそれぞれ社長で出版をやっておられた。 
 出版社には、写真や美術の本や資料が豊富にあり、勉強するには不自由はなかった。こと
に鉄雄氏は太っ腹の人で、ウマが合うというのか随分かわいがってくれ、社員でもない僕が
立ち寄るごとに僕の本好きを見て、新刊書や資料、弟の会社のアトリエの特集号までもって
きて呉れた。




土門拳氏 のこと

     
 この人は、頑固で素朴なすばらしい人であった。
 編集屋1年生になってまだ1ケ月も経たぬ頃、編集長の使いで明石町の土門宅を訪ねた。
ちょうど作品が10枚ばかり畳の上に並べられ、5人ばかり編集者らしい人が部屋の隅のほ
うにいたが、誰も口をきかず、作品の選択に迷い押し黙った感じの土門氏がフト後ろの奥さ
んを振り返って、「お前はどうだ」というと、奥さんは「私はアレ」といつて1枚の作品を
指さすと、彼は即座に「オイ、アサヒカメラ持って行け」という。その人は押し頂くように
受け取った。(僕は、一流の写真家でも自分の作品の選択には、やっぱり迷うものかと思っ
て、ちょっと頬がゆるんだ)
     
 その時、土門氏は僕の目をチラッと見たので、ずっと作品を見ていた私は、反射的に「コ
レとコノ作品は良いが、後はどうも−−」と言ってしまった。編集者たちが一斉にこちらを
見たのがわかった。彼らはみんな各雑誌社の編集長であったことが後でわかったが、「あの
時は土門さんが怒り出すのではないかとびっくりした」といっていた。         
 僕は当時、彼が写真界の第一人者でリアリズム論を展開していることは承知していたが、
僕自身駆け出しの編集屋ながらどこかに強い作家意識があり、丹平の例会の調子で率直に発
言したまでだということで、別に悪びれることはなかった。僕はこの日、作品をいただくた
めに訪問したわけではなく、たまたま、この場に行き当たっただけであったが、これがまた
縁になった。                                 
      
 その後、土門宅へは時折でかけ、関西写壇、造形論など勝手な話をしていたが、必ずおし
まいには、今月号の木村伊兵衛の作品はどうかと聞く。木村氏のところへ行くと土門拳の今
月号のはどう思うかと聞かれた。この2人は、はっきりライバルと意識していることがよく
わかった。僕は丹平と国宝仏で鍛えられた自分の五感を信じて直感ではっきり返答していた
が、それはほぼ間違いなかった。僕がこのとき直感で選んだ作品や他誌での発表作で感銘を
受けたものはいずれも名作として残っている。
      
 かなり後になるが、土門氏の助手と暗室をやっていた藤田君が、「玉井さん。オヤジにあ
まり理屈を吹っかけないでくれよ」、「師匠からお前も、もうちょっと勉強しろ。玉井君の
爪の垢でももらって飲めといわれた」というので返答に窮したことがあった。彼はなかなか
優秀でメカニズムに強く、後に「日本カメラ」誌の編集長になった。
                                        
 土門氏は古美術・仏像に造詣が深く、かなり後に私宅へ埴輪を見に来られたことがあった
が、僕の撮った例の薬師如来の「法輪」を見せると、埴輪はそっちのけで、大きなぎょろ目
で僕の顔をにらみながら、悔しがっていたことを思い出した。つまり正式な申し込みル−ト
では到底撮れないからである。




 人間は後ろ向きに歩く動物 

      
 僕は、半年くらい過ぎたころから、写真家や写真展での作品を選択し、借りてくる仕事を
編集長から任されることが多くなったが、編集会議で次々と次号のプランを提案する時に、
写真の歴史に弱いことを痛感しはじめた。そこで写真の過去を徹底的に調べことにした。
 それはフランスの象徴詩人ポウル・ヴァレリィが「人間は後ろ向きに歩く動物である。」
ということに通じる。
 「人々が行う行為のすべては、未来のためになされる。にもかかわらず、彼の眼は前方の
未来へそそがれずに後方の過去に向けられている。人間が見られるのは、すべて過去に属す
ることだけで、未来は見られない。つまり人間は未来へむけて歩いているが、その顔は過去
を向いており、後ろ向きに歩く動物なのだ。」ということ。
     
 気になり出すとせっかちな僕は、勝手ながら午後6時には会社の仕事はきっぱりやめ、自
宅に近い編集長の書庫に毎日通うことにした。編集長の鈴木八郎さんは写真指導の単行本を
書く著名な執筆者でもあり、ほとんど内外すべての写真誌を創刊号からそろえて所蔵されて
いた。僕は豊富な写真関係の本、ライフ、フォト・タイムス、アサヒカメラ、アルスカメラ
その他もろもろに全部眼を通し、また読んだ。これには3ケ月かかったが、新しい発見があ
り目の覚める思いがした。
     
 とにかく、ライフの創刊号の表紙は、バ−ク・ホワイトのダムの作品。ハンゼルミ−スの
写真では珍しいユ−モアのあるずぶ濡れの猿は、第何号の中頃の左ペ−ジにあるといった具
合で、自分の胸に響いた作品のほとんどは、頭に焼きついてしまった。         
 今日が終われば、明日が始まる、それは今日の続きであり、今日の発展であると共に繰り
返しもあろう。過去を詳細に知れば、未来の予兆を見られものである。
     
 僕はこうした予兆を見て、積極的に大胆なプランも立てられるようになった。また、写真
の本質論や写真におけるダイナミズムなど僕自身が知りたいことを特集として組むよう執拗
に主張したので、それらの多くは取り上げられ、脳のファイルにある過去の名作の映像と共
に僕の理論武装にもなった。当初は、土門氏やその他の有名写真家に、作品の良否を直感だ
けで答えていたのが、どうしてだと問われたとき、論理的にもある程度答えられるようにな
り、後に瑛九に会い、写真と絵画の造形性の違いを知ってその基礎を確認した。
      
 僕は編集屋の特権として、多くの第一線の写真家の特写に同行し、個性ある撮影ぶりの違
いがみられ、また厳しい質問をしてぎりぎりの本音を聞くこともできた。これらは写真大学
の学生には学べない生きた授業を受けたといえよう。                 
 僕は皆と同じことをやろうとは思わぬ性格から、偶然とか、たまたまを大切にしてきたの
で、かえってそれが効率を上げてきたと思う。僕はこうしてはっきりとプロを意識しないま
まに、いつの間にかプロ写真家になっていた。




前衛画家  瑛九 との出会い

     
 僕が瑛九に初めて会ったのは、1951年4月。大阪で丹平写真倶楽部という写真団体の
例会の後、会の有志が瑛九を囲んでの座談会の席上であった。彼はルパシカと中国服のあい
のこのような風体で、「エイキュ−」という名前を紹介されたときは、中国人かと思った。
 その時、彼が何をしゃべったかは殆ど記憶がない。でも、この時が僕にとっては、人生に
おける第2のチャンスといえる日になつた。                     
     
 不思議なめぐり合わせで、そのすぐ後に僕は東京へ出て、「写真サロン」の編集者になり
同じころ浦和に引っ越してきた瑛九のところへ、彼のフォト・デッサンを借りにいったのが
その翌年である。                                 
 それはちょっと風変わりな絵描きのフォトグラムを写真雑誌の扉に使って見たかったから
である。これが「浦和詣で」と言われる程の交流を持つきっかけになった。その時、瑛九は
39才、僕は27才であった。僕の造形への深まりは画家瑛九との出会いに始まる。   
                                       
 若かった頃の僕は、ご多分にもれず、写真と絵画の芸術論のようなものにのめりこみ、誰
彼となく怪しげな議論を吹きかけていた。そんな頃の僕の大真面目な気紛れを、まともにと
りあってくれたのが瑛九である。瑛九は、僕の生涯唯一の師となった。         
                                         
 このごろ、つくづく触感的(タッチ・トレ−ニング)というか、体感的な教育が必要と思
うが、あの頃の瑛九のところには、そんな原形があった。非常に若いときからの読書家で博
学の瑛九はそれを人に話すときも、飾らずつくろわず、誠心誠意、真剣に話してくれるので
身にしみ、それ以上に彼といると何とも言えない自由な気分になり、ある充ち足りた時間が
あった。そしてオレも何かをやらねばという気概が湧いてきたものである。       
      
 彼に魅せられた多くの前衛画家や写真家の卵、評論家、版画家、デザイナ−、バレリ−ナ
などが昼夜に関係なく遠慮会釈なくやって来ては、瑛九の貴重な制作時間を費やしていた。
それは、まだ若かったアイ・オ−や池田満寿夫、磯辺行久、杉村恒、内間俊子、細江英公、
松尾明美などである。その他には、森啓、森泰、山城隆一、早川良雄、泉茂、また何もして
いないが瑛九が好きだという男女が大勢来ていた。
       
 瑛九は、僕たちに「自己嘲笑の精神を持て」といいながら、制作への過労から1960年
わずか48才で早逝した。彼の死は本当に悔しかった。                
 既成画壇を否定し、前衛美術の開拓者としての瑛九は、あまりにも高度の独創性のために
なかなか日本では認められず、やっと死後に多くの味方を得られるようになった。   
 瑛九は、ユ−モアにあふれ、彼のユニ−クで辛辣な批評には、人間への愛情があつた。僕
はこの環境で、刺激され、鍛えられ、迷い迷い真直ぐに行くことを教えられたように思う。