木蔭
僕はアトリエ入口のゴミ箱から、瑛九がフォト・デッサンの材料の一部に使った切り紙を
拾い上げ、瑛九宅のフイリ・アオキの生垣に、フォト・デッサンの切り紙を置いてみた。
まったく偶然だったが、僕が気に入って拾い上げたこれらの切り紙による瑛九のフォト・
デッサンは、作品としては存在していない。未完成に終わったということである。
しかしながら、瑛九がデッサンし、都夫人が切り抜き、僕が写して、その原形を残すこと
になったこれら2枚の写真は、僕にとっては何時までも、何色かの糸で繋がれているように
思えてならない。
この作品の愛好者には、女性が多い。恥ずかしいような、嬉しいようなエロチシズムがあ
るという。
(丹平8人展 出品 1952年5 月)
案山子(かかし)
アトリエの南側にある柿の木に、フォト・デッサンの切り紙をひっかけ、胸のあたりに、
ヨモギの葉っぱを添えた。
あれから40年、柿の木も老木になった。
[解説]
1930年(昭和5年)、瑛九は写真専門学校に入り、写真に熱中し、フォトグラムの試
作を始めた。彼のフォトグラムは、デッサンされた形を切り紙として使った絵画性の強い素
材が多く見られ1936年の当初から色をつけたり、ペンで書き足したり、これらは他の写
真家のフォトグラムとまったく異なるところである。彼は画家のこだわる垣根を取り払い、
印画紙という素材を見事に生かした世界で初の作家であろう。
彼はこれらの作品を1936年、フォトデッサンと命名して発表した。
1952年頃は写真界でも、瑛九はまだまだ誤解されていた。ある日、土門拳が瑛九のフ
ォトデッサンを評して「絵で飯が食えなくなり、写真のまね事をしている絵描き」と言った
ので、玉井はこれに猛烈に抗議し、雑誌のために預かっていたフォトデッサンの原画を見せ
て、彼の認識を改めさせたことがあった。あの頑固な土門拳も安井仲治(丹平写真倶楽部・
創始者)と瑛九は認めることになった。 これも懐かしい思い出である。
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