part.9         

 第一回

  僕は今回から2回に分けて、前衛画家であり、写真家でもあった、故「瑛九」氏を紹介し
たいと思う。                                   
 今回は、プレ・ビュ−として瑛九の顔写真と概略などを紹介し、次回は彼の作品、印画紙
の特性を駆使したフォト・デッサンや僕が厳選した絵を掲載する予定。   
       
 来年、2001年1月14日(日)、NHK教育TV、<新日曜美術館>で、このユニ−
クな「瑛九」の変身ぶりや創作活動の秘密を探る番組がある。彼の生前を知る僕としては、
より多くの人々に理解していただければと、裏話など交えて紹介したいと思った。    
      
 今回掲載した作品は、僕の撮影による「フォト・エッセイ<瑛九逝く>」よりの一部の抜
粋であるが、これらは、35点の組写真で構成され、東京都写真美術館、宮崎県立美術館に
収蔵されている。
 彼の作品を見れば、その素晴らしさが一目瞭然わかるが、その存在については一流の評論
家や鑑識眼のある収集家、美術館では知る人ぞ知るで、非常に高い評価をえて収集、研究が
進んでいるが、一般社会では「エイキュ−」という名前さえ初耳という人もあろう。   
       
 瑛九の研究がさらに進み真の評価がなされた時には、日本における20世紀を代表する画
家10名の中に数えられるであろう。このことは、瑛九を生涯唯一の師と仰ぐ、僕たち古い
仲間であるアイ・オ−や早逝した池田満寿夫もまったく同意見であった。
       
 僕が「瑛九」を紹介する理由はもうひとつある。僕の写真講座でこれから展開してゆく創
作や造形の解説は、「それを、人間としての生きざまで示した瑛九の言動とその作品」を見
てもらい、僕のつたない解説は最小限でよい思うからである。彼は素晴らしい作品を残しな
がら、あまりに早くこの世を去ったために、隠れた天才になってしまった。
        
 瑛九(本名・杉田秀夫)は、宮崎の眼科医の旧家に生まれたが、大変な早熟、読書家で、
13才で入学した宮崎県立中学は、入学後半年で授業に退屈して退学、上京して日本美術学
校に入学したが2年後にはこれも退学し、次は写真専門学校に学び、そのかたわらアテネフ
ランセに学ぶという変貌ぶりであった。                       
 美術学校退学後は、絵を描きながら雑誌「アトリエ」「みづえ」に美術評論を投稿するな
ど盛んな執筆活動を始め、国民美術協会展、二科展、帝展その他について年間15編もの評
論が発表されている。投稿には年齢が書かれていなかったので、後に編集者はこれがわずか
16歳の少年が書いたものと知り、仰天したという逸話がある。
       
 多くのア−ティストは、それらしき売れる作品ができると、その亜流ばかりをつくって売
り続け生涯を終わる。瑛九はひとつの作品ができるとそれを踏み台にして、更に新しいもの
へと挑戦し続けた本当の意味のア−ティストであった。
 瑛九は、その高度の独創性にのために、当時の日本では認められなかった。ゴッホ、ゴ−
ギャン、アンリ−・ルッソ−も生前はそうであったが、瑛九にもようやくその真価を探ろう
とする時代がやってきた。






      笑う瑛九      

          

         瑛九氏       1952

     
                               



    瑛九氏       
 ある日、瑛九と話しているうちに、急にその顔を撮りたくなった。この時、「出目金のよ
うな強度のメガネをかけたその顔は、どうしても超クロ−ズ・ア ップでなければ」と思い
こんだ。レンズをグッと絞り込み、長時間露出という私の強引な要求に、彼は何の動揺もな
く、30秒の間まばたきもせず、レンズを見つめつづけた。              
      
 僕は、瑛九が話に熱中したとき、よくツバキのたまった口元に見入った記憶はあるが、怒
った顔は見たことがない。思い浮かぶのは、何時もメガネの奥からのやさしい眼差しと素朴
な笑顔だけである。そして、オレもやるぞという気概が沸いてきたことである。
       
[解説]
 この「瑛九氏」は、私のプロ写真家としての発表第1号の作品となった。
 この作品は、「切手程の大きさで印刷されても、目につく強さがあり、また大きくすると
彼のカメラを前にしても心を粧わない人間像が見える」といった解説付きで、新しい肖像写
真の在り方、つまりモダニズムの肖像の代表例として紹介されることが多かった。
       
 モダニズムとかモダンという言葉は、初期の明治、大正時代は「当世風」といった意味で
使われたが、時代を経るにつれ「過去の権威や因習にたいする反逆」、さらに「前衛的」、
「進歩的」といい、現代でのもっとも本質的な語義は、「批判主義の内包」ということらし
い。こうなると、理屈が先行するように思うが、最近例では、1995年、東京都写真美術
館の「モダニズムの肖像」の展示会場では、特別に広いスペ−スをとり、中山岩太氏の名作
「上海からきた女」に並べて、「瑛九氏」との2点だけが展示されており、面映ゆく感じた
が「瑛九」そのものが相当に重視されはじめたと感じ嬉しく思った。
       
 *1952年3月。浦和市本太・瑛九宅にて。瑛九40才の時の撮影である。  
  この作品は、瑛九への関心の高まりにつれ、掲載頻度が多くなり、50回を越えた。
         (丹平8人展 出品 1952年 5月)(写真サロン 1952 年 8月号掲載)


      

   

           瑛九夫妻           1952



瑛九夫妻 <フォト・デッサンの切り紙と>
                            
 画家である瑛九のフォト・デッサンの素材には、彼のデッサンによる切り紙が多く使われ
一般の写真家の及ばぬ特色があった。                        
 ある日、私は不用になった切り紙で勝手な作品をつくり、その後で切り紙を持った瑛九夫
妻の記念写真を撮った。
     
 その頃の僕は、率直に言って瑛九の芸術をどこまで理解していたか、それを論じる自信は
なかった。彼のフォト・デッサンやエッチングが、僕の写真とくらべて遥かに高い密度があ
り、先駆的な仕事と僕なりに理解はしていたが、油絵の初期のものは、その形が抽象化の途
次にあるもの、奇妙な宇宙人がうごめいているようで、生理的にはなじめなかった。   
 しかし、1958年頃からの点描の作品群は、瑛九が変身し始めたと感じ、僕の観念的な
好みを越えた好ましい感銘を受けた。そして後に、この感銘は理解につながり、瑛九の初期
作品への生理的拒否反応も消えていった。
                           
 とにかく、当時の僕は彼の絵より、彼の人間的魅力にとりつかれ、瑛九のまわりには、そ
んな同類項がたくさん集まっていた。                       
 我々は、仲間同士で話す時も、他の人に話す時も、ずっと年上で大先輩の瑛九のことを、
「エイキュ−」、「エイキュ−」と気やすく呼んでいた。彼は我々を完全な仲間にしたので
ある。彼は仕事のことでは、友人に対しても実に厳しい人であったが、それを離れると非常
に柔和で、愛情が深く、子供には子供の、犬には犬の高さで接する人であった。 
      
 おしゃれには、全く関心がなく、身なりに無頓着な瑛九はメガネのゴミも気にならぬよう
であった。「衣服を着替えると、別人になったような気がしてアイディアがとぎれる」、自
分はアルチザンだという瑛九は、絵具のこびりついた仕事着のままでどこへでも出かけた。
 都夫人は、元ミス宮崎という麗人で、若い仲間たちにのアイドル的存在であったが、それ
以上に母性的雰囲気への親近感を持たれていたように思う。

   

案山子 1952       

            木蔭         1952







木蔭     
 僕はアトリエ入口のゴミ箱から、瑛九がフォト・デッサンの材料の一部に使った切り紙を
拾い上げ、瑛九宅のフイリ・アオキの生垣に、フォト・デッサンの切り紙を置いてみた。
 まったく偶然だったが、僕が気に入って拾い上げたこれらの切り紙による瑛九のフォト・
デッサンは、作品としては存在していない。未完成に終わったということである。   
 しかしながら、瑛九がデッサンし、都夫人が切り抜き、僕が写して、その原形を残すこと
になったこれら2枚の写真は、僕にとっては何時までも、何色かの糸で繋がれているように
思えてならない。                                
  この作品の愛好者には、女性が多い。恥ずかしいような、嬉しいようなエロチシズムがあ
るという。
                         (丹平8人展 出品 1952年5 月)
     
     
   案山子(かかし)
 
 アトリエの南側にある柿の木に、フォト・デッサンの切り紙をひっかけ、胸のあたりに、
ヨモギの葉っぱを添えた。                             
 あれから40年、柿の木も老木になった。
       
[解説]
 1930年(昭和5年)、瑛九は写真専門学校に入り、写真に熱中し、フォトグラムの試
作を始めた。彼のフォトグラムは、デッサンされた形を切り紙として使った絵画性の強い素
材が多く見られ1936年の当初から色をつけたり、ペンで書き足したり、これらは他の写
真家のフォトグラムとまったく異なるところである。彼は画家のこだわる垣根を取り払い、
印画紙という素材を見事に生かした世界で初の作家であろう。            
        
 彼はこれらの作品を1936年、フォトデッサンと命名して発表した。        
 1952年頃は写真界でも、瑛九はまだまだ誤解されていた。ある日、土門拳が瑛九のフ
ォトデッサンを評して「絵で飯が食えなくなり、写真のまね事をしている絵描き」と言った
ので、玉井はこれに猛烈に抗議し、雑誌のために預かっていたフォトデッサンの原画を見せ
て、彼の認識を改めさせたことがあった。あの頑固な土門拳も安井仲治(丹平写真倶楽部・
創始者)と瑛九は認めることになった。 これも懐かしい思い出である。





               病床の瑛九               1960

                

病に臥す      
      
 瑛九は、制作の過労から病床につき、前年(1959,11)、浦和中央病院に入院したが、病状
つのり翌年(1960,2,22 頃) 神田・同和病院に移った。                
      
 3月3日、私は友人の森啓と病床の瑛九を見舞った。   
       
 この時、差し出された瑛九の手は熱かったが、病状がそれほど悪いとは思えなかった。 
しかし、余りにも聖者のような良い顔をしていたので、私は奈良で見た数々の上人、鑑真和
上像などを思い出し、帰り道、このことを森啓に話したら彼も同様のことを感じたといい、
一抹の不安を感じた。                               
      
 この日の僕は、少しおかしかった。日頃、瑛九に会いに行く時は、ほとんどカメラなど持
って行くことはなかったが、この日はどういうわけか、ハッセル・ブラッドに三脚まで用意
して出かけていた。久々に彼の写真を撮りたくなっていたのだろう。          
 帰り際、都夫人は「瑛九は可哀想なくらいおとなしい病人で、少しはわがままを言ってほ
しい」と話していたが、この1週間後の3月10日、瑛九は急に逝ってしまった。    
      
 瑛九は、僕たちに「自己嘲笑の精神を持て」といいながら、制作への過労から1960年
わずか48才で夭折した。彼の死は本当に悔しかった。 
 人の死がこんなに悔しいという思いは、初めてのことであつた。
      
                 (1960年3月3日。神田淡路町・同和病院にて)
   

  




「れいめい」 瑛九

この絵をクリックすると

裏話へ行けます。