ホンモノ ということ
「日頃、良いお茶を飲んでいれば、まずいお茶は一口で分かる。」
これは教師の父が、中学時代の私に垂れた簡明な教えである。 つまり、「本物を知れ」
ということである。
また、父は着物を買うときには、「絶対に安物は買うな、3枚を1枚にしても」という。
「良い物を着ていれば、いつ何時、どこへ行つても恥しい思いはせず、気分がいい。また
傷みにくくて長持ちもする。すり切れるまで着れるものだ。」という。確かにそうだろう
しかし、母の話によると、明治生まれの父は、完全な家長関白、変な昔気質というのか赤
ん坊の私を一度も抱いたことがなく、母と女中さんまかせであったという。これではスキン
シップ不足ではないか。私の反逆的、あまのじゃく的性格の遠因かもしれない。
スパルタ教育を信奉するかのように思えた父は、今でいうツッパリ中学生の私にとっては
煙ったい存在そのもので、意識の底では何でも反抗していた。しかし、この父の教えだけは
素直に受け取れ、それから先の私にとって、「生涯、有難く、懐かしい指針」として生きつ
づけた。
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ホコリと国宝と
ところで、話は元にかえるが、退屈紛れに高い撮影台の上から眺めた観光客は、大きく分
けて3つの種類が見られた。
ひとつは、修学旅行の集団である。彼らは嵐のように騒々しく埃をけたててやって来る。
そして四天王に踏みつけられた邪鬼に腹を抱えて大笑いし、仏像の表情をまねたふざけた顔
をして、友達に記念写真を撮らせるといった具合である。そして、アッという間に去つて行
く。決められたスケジュ−ルを消化するだけで何を見に来たのかわからない。
将来ものを創るのは、年をとっても失われない、いわゆる精神の中の豊かなコドモの部分
である。せつかくの宝の山、彼らの印象をつなぎ止めるために、先生は何かヒントのひとつ
ぐらいは与えてやり、何とかもっとゆっくり見せる工夫はないものかと思ったものである。
もうひとつは、解説書片手のマニアである。上から見ていると、どこを見ているかがよく
分かる。人の数だけの価値観の違いがあるのは当たり前だが、何かがおかしい。
率直にいうと、この人たちの大部分は、仏像という彫刻群と対決することはない。古色蒼
然たる「1300年のホコリと国宝という権威」に最敬礼をする人々である。
このタイプは女性に多かつた。男性の中には映画の時代劇をつくるわけでもあるまいに、
虫食いの穴まで細やかに検証する、まるで探偵のような人もいておかしかった。
いわゆる権威書に頼りすぎた先入観を拭い去るのは難しい。頭脳のメカニズムからいえば
イワシの頭も信心からといった盲信的な自然思考は、固定的に定着されるために、硬直した
紋切り型思考パタ−ンとして働く。これはひとたび定着されると、消し去ることができず、
改める事が許されるだけだからである。
そして、更にもうひとつは、いわゆるそれなりに、ほどほどにという普通の人々であった。
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見ると観る
今日では、古い寺ほど由緒と権威に満ち、ありがたがられる。
しかし、天平の新しい寺院が次々と建立された頃は、遣唐使が往来したことから唐のより
新しい様式の寺ほど立派といったことで人気があったろう。
平成の世に、「天平」を骨陶品のように鑑賞するだけが能ではあるまい。
当時の芸術作品を、「見る」だけではなく、既成の権威や概念を捨て、自分なりの五感で
観察し味わう「観る」でありたい。
私は、「天平」を味わいたい方には、観光客が一番少なく静かな梅雨どきか、真冬をお薦
めしたい。観光シ−ズンの騒音のなかでは、とても「天平」は味わえない。雨に煙る墨絵の
ような奈良もすばらしく、寒さで頭のなかまで引きしまるような雰囲気で味わう「天平」も
悪くない。
また、中学生の修学旅行などで、初めて奈良の仏像を見に行く時には、あまり専門書など
は勧めず、大ざっぱなことをいえば、「パンチパ−マのような頭で、裸の上に薄い衣を着て
いるのが、悟りを開いたお釈迦様(釈尊)。頭の髪を高く結い上げ、少し立派な衣装を着て
アクセサリ−をつけているのが菩薩様。つまり貴族出身の修業中の若者が菩薩様。」くらい
のヒントを与えてやるだけでも肝心のところは見逃すことはなく、将来興味を持つ者も出て
くるのではなかろうか。
教則本にしたがって見るような見方や既成概念にとらわれず、素直に自分の五感で感じる
方が良いと思う。知識は後から必要に応じて、いくらでも専門書を読めばいい。私は最初の
接し方が特に大切だと思っている。
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「写された国宝」展 のこと
東京都写真美術館が11月21日からオ−プンしたこの展示は、仏像が多いが仏像の愛好
者だけでなくアマチュア写真家にも必見のものとしてお薦めしたい。
こうした企画は、見かけが非常に地味なため、肝心のところを見逃しやすいので、ポイン
トをひとこと。
1870年代からの仏像写真も珍しいが、それぞれの年代の一流写真家の原画が展示され
ており、同じ仏像が何人かの写真家によって写され、それぞれ作者の個性や見方で表現が変
わることや1955年頃までの非常に不自由な照明とストロボ時代に入っての照明の変化な
どが見られのも参考になる。
仏像の一流写真家のビンテ−ジ・プリント(撮影直後に、作者がプリントしたもの)は、
比較的サイズが小さいが、作者の撮影時の意図がよくあらわれていて、貴重なものである。
(最近の展示では、ポスタ−のように大きく引き伸ばされたものがあるが、これは看板のよ
うで鑑賞に耐えないものが多い)
また、これだけそれぞれの作家の代表作が、各地の美術館から集められ、一堂に展示され
ているのも珍しい。仏像以外では、石本泰博の桂離宮のモノクロ−ムの「苔と石」その他は
バウハウス流のすばらしい構成で、誰にも分かりやすい必見の作品である。
私の25歳当時の作品も「作家性の芽生え」というコ−ナ−に4点が展示されているが、
久々に自分のビンテ−ジ・プリントを見て、あの昔の写真一図の純粋さ、荒削りな闘志を懐
かしく思った。「首」という作品は、ビンテ−ジが紛失したため、かなり暗いサブ・プリン
トが美術館に収蔵されたので、それが展示されているが、本来はもう少し明るいのが正常。
修正して見ていただければ幸いと思った。
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☆ この展示は、以後4か所で展示されるので、ご紹介しておく。
(各地へ行く時は、会場の広さから私の作品は、半数だけの展示になることもある)
[ 会期・会場 ]
2000年11月21日(火)〜2001年1月28日(日)
東京都写真美術館
2001年5月17日(木)〜7月1日(日)
神奈川県立金沢文庫
2001年7月14日(土)〜8月26日(日)
高浜市やきものの里かわら美術館
2001年10月2日(火)〜11月11日(日)
奈良市写真美術館
2002年2月1日(金)〜3月10日(日)
愛媛県美術館
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