part.8         


               
  このところ、造形の入口付近の話ばかりがが続いたので、一休みする意味で話題を  
  かえて今回は、仏像写真について少しばかりお話することにした。
      
 ちょうど、「写された国宝」展が東京都写真美術館で開かれており、普通はここだけで終
わるが、この企画は内容が貴重なもので、1年以上をかけて全国4か所でも展示される。 
 展示のほとんどは仏像写真で、1870年代からの記録的写真から現代まで、年代を経る
につれての作家性による変化が見られる。
     
 古くは小川一真、小川晴暘、比較的新しいところでは土門拳、入江泰吉、坂本万七、佐藤
辰三、藤本四八など、仏像写真のトップクラスの作家たちの代表作の原画が一堂に並び、そ
れぞれ写真家の個性を競う表現が見られ、地味ながら一見の価値があると思った。
      
 私が一時、奈良県観光課の嘱託を依頼されていた25歳当時の作品も「作家性の芽生え」
というところに4点が展示され、光栄の至りというところだが、私はこれら拙作を材料に、
記録的表現から個性的表現への心理的プロセスを述べ、それがどのように作品に現れたかを
解析し、先輩たち仏像写真家の個性的表現の理解・鑑賞への一助になればと考えた。
      
 私に依頼された県観光課の希望は、図録にのせる記録的要素のかなり強い写真で、これを
組み立て暗箱カメラのキャビネ乾板で撮った。写真はすべて納入され、手元には1枚もない
が、これらにはまったく未練はない。                        
 ある日、脳裏に天平時代の仏像の原形が蘇った時からは、記録的要素の強い写真撮影で私
が満足するはずがなく、私はそこからはみ出しはじめた。4点の作品は自分が仏像から感じ
とった気持を強く表現したくて、乾板撮影のわずかな合間をみて自分の35ミリカメラで撮
ったもので、資料が少ないのが残念である。
     
 私の意図と表現は各作品の感想文から、その一端はお分かりいただけるかと思う。
     


 [ 会期・会場 ]  東京都写真美術館 2階展示室
      
      東京都目黒区三田1−13−3 Tel 03−3280−0031
       
 2000年11月21日(火)〜2001年1月28日(日) 
          
  ◎以後、2002年3月10日まで、全国各地で開催する。






     「参考写真」
    
これは記録的要素の強い写真である。
同じ仏像が、作者の解釈、心理的変化
とライティングによって,すっかり表
情を変えることがわかる。     

          

       弁財天      1950

     
                               






            
       弁財天 <東大寺・法華堂>       
 この仏像は、もと三月堂(法華堂)の東南の山中にあった吉祥堂の本尊であったが、その
堂宇が954年に消失してからここに移されたもので、破損が甚だしいのは、その火災の際
にこうむったものである。いかにも奈良時代のものらしく、きわめて豊満な顔や肢体をして
いて、塑像の手法もなかなかすぐれたものである。
    
 弁財天に初めて接した時は、塑土の剥落がひどく、とても痛ましく思えた。しかし、夏の
或る日から、私の脳裏には1300年のホコリを通して「天平時代」の様子が蘇えつて見え
はじめ、欠けた半分の顔も気にならなくなった。ふくよかな顔に、目はあくまで細く鼻も唇
も小ぶりで、芸術性の高い唐代の三彩婦人俑に見られる物静かな貴婦人のように思われた。
     
 普通に撮れば、参考写真のように欠けの深さも表現するところだが、私にはもうそんな無
残なことはできない。といって殊更美化して表現しようとも思わなかった。私はこの仏像の
本質と私が感じたままの真実を、伝えたいためのライティングをして弁財天を作品とした。
(この作品は、手前味噌ながら、あの破損が甚だしい弁財天をもっとも美しく魅惑的にと 
 らえていると言われてきた)
     
 仏像に接するとき、いつまでも塑像の剥落や色彩の剥離、褪色にこだわっていては、仏像
の本質や造形としての理解には、とうてい行きつけないであろう。また外観だけを撮るので
は、ファッション写真の洋服だけを見るようなもので、その人物像はとらえられないのと同
様である。
     
 撮影のない日は、奈良公園のアシビの森で昼寝をするか、よく大阪へ出かけていたが、心
斎橋を往く美人よりも弁財天の妖しげな目のほうが、よほど魅力的で近代的にさえ思えた。
     
 この弁財天をきっかけとして、私は阿修羅の眉をひそめた額のあたりの云いようのないデ
リカシ−や法華寺の十一面観音の肉づき豊かで引き締った木彫の暖かさも好ましく思うよう
になった。                                   
     
 それは写真家生命にかかわる<見ると心で観る>、「見ると観る」ことの出発になった。
     
                            (写真誌「Shinc」1993  掲載)



      

   

          武将像        1950



武将像 <奈良・薬師寺>
                            
 天平彫刻のうちでも、青銅像の傑作として薬師如来像や聖観音像で名高い薬師寺。  
 その倉庫の薄暗い奥の片隅で見かけた木彫は、珍しく新鮮であった。床一杯にたくさん無
造作に並べられていたが、もちろん本尊や脇待のような拝む対象ではなく、それらを守るそ
の他大勢であろう。
        
この彫刻の制作年代は定かではない。おそらく天平後期か平安初期ではないかと思われる。
 (それは、東大寺や正倉院に残る大仏開眼供養の遺物といわれる伎楽面に見られるよ 
  うな特徴ある表情を力強く生き生きととらえる優れた技法に共通し、またかなり誇 
  張化が進んでいるなどの理由からである)
      
 天平彫刻の素材は、乾漆・塑・金属・木・石などすべてを網羅し、これほどの賑やかさは
ほかの時代では見られない。                         
 木彫は飛鳥にかなり高度の発達を見たが、天平では一時的に影をひそめた。しかし、あら
ゆる点で極めて日本的素材とみとめられる木が、天平後期から平安初期にかけて勃然と形を
あらわし、捻塑的、写実的なものから離れたたくましい表現となった。      
      
 木という鑿で削りながら生きる刻出的素材は、もし削りすぎると取り返しのつかない失敗
となる。この彫刻は、彩色ははがれ、木屑(こくそ)は落ち、すっかり丸裸になり、巧みな
鑿跡と同時に失敗をカムフラ−ジュした痕跡が晒され、これらを刻んだ工人の人間性をもみ
るような気がした。
         
 そのとき私の直感は、隠れたすばらしい作品を発見したように思った。

   

                 首               1950






    <奈良・薬師寺>
 私は、この「武将像」に、御本尊よりも親近感と魅力を感じた。
      
 著名な大型の天平仏は、多くの工人たちによって、小さな個性を超越し、全体主義的な芸
術表現によって造られた。脇役ともいえるこの小さな彫刻からは、ある個人としての工人の
真剣勝負の一刀一刀の気と、血のぬくもりが伝わって来るように思えた。        
 私はこれらの彫刻の「形と心」を探ろうとし、それに集中した。
       
 やがて、私はこれらの彫刻に親近感を持つと同時にこんなところに放置されているのが、
痛ましく、もったいないと思いはじめ、もっと明るいところで見たいものだと思った。 
   
 私は、寝かされたままの姿を写した後、その頭部だけをすぐ前の木の階段において撮影し
「首」と題した。明るい外に置かれた彫刻は、はじめ一見異様に見えたが、この印象はすぐ
平常に還り、さらに生き生きと感じ、私はうれしくなった。

       
 断っておくが、私は暴露趣味や怪奇趣味でこの彫刻を写したわけではない。また首だけの
表現にしても、著名な興福寺の仏頭その他数多く、あたり前のことである。
 こんな素晴らしいもの、当時の工人の労作が何世紀も暗い倉庫の片隅で放置されているの
は、おかしいのではないか、どこかで展示され正当な扱いを受けるべきではないかというの
も私の実感であつた。
       
 夕陽を浴びて生き返ったように輝くその印象は、いまだに鮮明な記憶となっている。
 
             (第17回  日本写真美術展 入選 、 75人の写真家 1996 掲載)

     
 



               法輪               1950

                

法 輪  <薬師如来像足裏>薬師寺(国宝)
 これは、奈良の西方(西の京)、薬師寺金堂の薬師如来像の足裏の紋様で法輪という。
 紋様は手掌にもある。                
      
 仏教の発生地、インドの寝仏にはこうした紋様がかなり見られるが、日本の仏像では珍ら
しく、数少ない中でも最も優れた美しい法輪とされている。
       
 遥かその昔、仏教誕生当時の無仏像時代(BC6〜4世紀)の古代インドでは涅槃への道
浄土への願望、偶像信仰から高僧が使った衣や椅子などを拝受し、足跡をも臥し拝むという
風習があったという。仏像ができる以前、法輪は釈迦の象徴として発生したようである。 
     
 薬師寺の創建は天平時代(紀元698年)。本尊の薬師如来像は、当時の造型として、こ
れほど優れた古いブロンズ像は世界にも例がないといわれ、東院堂の聖観音立像、あるいは
卓越した意匠で知られる裳階(もこし)のある東塔やその先端の優美な水煙などと共に著名
である。
      
 左右に従えた日光、月光両菩薩像とあわせた薬師三尊像は、三像一体として有機的統一世
界、いわば浄土を具現し、天平人が造寺、造仏に求めた世界観が見られるといわれる。
     
 この作品は、薬師三尊像の撮影時、立会いの管長が昼食に帰つたつかの間に、つい若気の
いたりから高い台座に昇り、ご本尊の目の位置から1枚だけ撮影したもので、個人用として
秘かに保管していた。今にして思えば冷や汗ものである。
     
 私が敢えて撮影した理由は、この歴史的に重要な法輪が、これまで参考写真のように横か
ら撮ったものしかなく、この角度からでは、足裏が縦長に伸びて正確さに欠け、また構成と
して脆弱であるからだ。                     
     
 この作品はつかの間の撮影でライティングが不十分で、作品としてはやや不満であるが、
後に土門氏もこの視角からの撮影をしようとしたが果たさず、現在では、この作品が唯一の
ものとなり、貴重な作品になった。
      
(この作品は、東大寺209世管長、佐保山尭海氏が亡くなる直前に、「この法輪は撮影後
 もうずいぶん年月もたち、その間に罰も当たらなかった。もう時効であろう」といわれ、
 この助言から42年後にようやく発表した)
                        (APA PORT FORIO 1992 年鑑 掲載)
                   (掲載作品は、すべて東京都写真美術館 収蔵)
   
原色日本の美術より

「参考写真」
これは貴重な作品であが、カメラ位置
の関係から、足裏のフォルムが正確で
ない。掲載作品は、本尊からの視角で
稀有な作品として評価されている。



  




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