< 病床日記 あれこれ 
    
この講座はぼくの自分史をかねたものと思っているので、この裏話は
その備忘録としての身辺雑記である。余談として御覧ください。

     夕陽(病室より)

「今日も何もすることはなかった」      落日を見ると、殊更わが身の不自由と無聊を感じる。

    
           

「 病室漫録 」

9月29日(金曜日) 手術日
   
病名は○変形性腰椎側弯症○腰部脊柱菅狭窄症○間歇性跛行20〜40mで長距離歩行困難。
手術部位は、◎腰部脊柱狭窄症。 朝8時半から始まり6時間半をかけて無事終了。
   
 括弧つきのこの(金曜日)は、「ドタバタ騒ぎ」というとんでもない日になり、「金曜
日の手術は辞退すべし」という教訓を得た。 以下は、その終局までのメモである。 
    
 あの日、麻酔からさめてどのくらい時間が経ったかわからないがICU(集中治療室)
で体の変調に気付いたのは多分夜中の1時半頃だったろう。
    
 ぼくはこの20年間、胃潰瘍の持病があり、それが急に痛み始めた。
 そこで当直医を呼んでもらったら、あまり見慣れない女医がやってきた。彼女は下腹に
聴診器を当てて「腸が動いているから心配ない」という。「腸ではない。胃が痛むのだ」
といっても「心配ない」の繰り返しでどうしようもない。
    
 ラチがあかぬと思ったぼくは、「では、明朝、至急に専門医に診てもらいたい」と頼む
と「土、日曜日は休診で、薬も出ない。3日後の月曜日の診察になる。」という。
 あきれ返ったぼくは「ならば、すぐ救急車を呼んでくれ」というと、「入院患者は救急
車は呼べない。呼びたければ退院してからにして下さい。」といって立ち去ろうとした。 
 ここでぼくは、ブチキレてしまった。「それが医者のいうことか。」と言い返したよう
である。
    
                                    
 その後、ぼくはこんな病院にいては殺されてしまう。すぐ、タクシーをつかまえて、行 
きつけの救急病院である日医大の付属永山病院へ行こうと、まともに思ったらしい。
 とにかくスタンドに3個ばかりブラ下がった点滴のチューブを手当たり次第ひっこ抜き
右手首のチューブを抜こうとしたが、動脈に刺したところはどうにも硬くて抜けない。 
 バタバタしているところを男性の看護師が見つけ大声を挙げたので、3人がかりでベッ 
ドに戻され、改めて血圧、体温、脈拍などを測り氷水を飲まされて監視つきになった。 
                                    
 その時点では、もうぼくは平静を取り戻し、ICUの非常によくできた3名の男性看護
師の皆さんにご迷惑をかけたことを率直に反省し頭を下げ、担当の先生方にも申し訳ない
と思ったが、検温した看護師の推測によると、手術のために体温が38度をかなり越えて
いたのが原因らしい。
    
 日頃、ぼくは平熱が低く35度台か36度の平熱が38度を越えると苦しく頭がボーと 
なるが、この日はそんな状態を越え、モウロウとしていたらしい。
  この胃潰瘍は結局、急遽自宅から日医大の薬を取り寄せ10日ほどの連用で治まった。
 とにかく、ぼくの手術はかなりシビアなため、普通、翌日にはICUから自室に帰ると
ころを4日間滞在し、抜糸は1週間後が3週間後になった。
  
       
 ICUから自室に帰ってはじめての回診のとき、担当の部長は笑いながら「大先生は、 
アチラでは賑やかなドタバタ劇をやったようで‐‐?」と言い、「ところで、もう足の痺
れも腰の痛みもすっかり取れただろう」といわれたが、「とんでもない。入院前と同じで
痺れも痛みも全く変わらない」と答えると、一瞬変な顔をして相方の医師とドイツ語で話
し合っていたが、ぼくにはさっぱりわからなかった。
    
 しかし、この時の部長のいうドタバタ劇とは、高齢者の中には閉塞的なICUに入れら
れると、自閉症のような行動を取る人がままあり、ICU症候群ともいわれるとか。
 事起こしの張本人とはいえ、筋違いのことには絶対納得できないぼくは、それに間違え
られたようで心外だったが、 後にこの誤解を回復する機会を得た。
    
 その後、入院室の担当医とかなり話すチャンスがあり、この件を糾すと不合理が判然と
し、職員のなかでも改善を希望している気配もわかってきたので、退院時に提出を求めら
れる短いアンケートではまた誤解を招くおそれから、院長へ直言できるルートへ克明な資
料と希望意見を渡して退院した。
    
    
 こうしたバカバカしいともいえる問題の原因は、遅れたシステムとその運用にある。 
 具体的には、都立病院の月〜金曜日までの密度とリズムある対応に比べ、土・日・祭日
のシステム、対応の悪さや休日出勤・残業手当問題などがある。
                                   
 また、携帯電話、パソコンなどの使用ルールの曖昧さ、更に患者の痛みがわからぬ杓子
定規なルールの強要などから患者とケンカする職員や緊急時の正しいアバウトな対応を知
らぬ職員への教育要望などのあれこれである。
 殊にアバウトが理解できない者は、創造、文化への理解、ひいては人間性に欠け、こう
した仕事には不適であろう。
    
 ぼくは職業柄、多くの職種の方々に接してきたが、人の命を直接預かる病院についての
最近の知識は殆どなかった。それですべてはお任せで、こんなに超多忙な毎日でも、差別
なくきめ細かくお世話してくれるドクター、看護師はじめ、毎日こまめに清掃する方まで
全職員に率直な感謝の気持ちを持った。
 それが、システムの不備や一部の職員の心得違いで損なわれるのは、心底では多くの方
々に敬意を持つだけに非常に残念に思う。
      
 また、退院間際には、帰宅後の外階段での転落事故防止の対応について、リハビリの理
学療法士、医療相談室の方々の綿密な資料調査や地元消防署の迅速な処置など、親身のご
協力をいただき、うれしくおもった。

    
    

   

歩行器の玉井と佐々木氏(病院前にて)      

                 

「 意外な人々 」

     
  入院患者で親しくなった佐々木勲さんという人は、絵描きになり損ねて、後に盆栽の世
界で総理大臣賞を受賞したという風変わりな人であった。初め8月21日からの検査入院
で5日間の相部屋になった時、どことなく大陸風で何かをやりそうな人に見えたが、まさ
か盆栽の大家とは思いもよらなかった。
 
 でも、9月21日、入院手術で再度同室になった時、わずか5分間で仲良しなった。 
 つまり、ぼくが病床でパソコンを開き、写真に見入っていたことから、彼が「私はその
昔、画家を志していたが‐‐」と話し始めたことから、ぼくが「現在の芸大の卆展の図録
を見る限り、もっと厳しいクリエイティブな姿勢の学長に入れ替えなければ、本物の画家
は育たない。
 歴代の教授の中で殊にユニークだったのは、漆の松田権六氏ぐらいかな。ただ、現学長
のH氏は東南アジアの世界遺産を守るなどにはその人柄から適役だ。」などと言いはじめ
たとたん、彼は即座に「全くそのとおり。」という。これで万事は了解した。
 写真表現も盆栽も根底は変わらない。
    
 全く盆栽など趣味も興味もなかったぼくは、佐々木さんから盆栽が今や世界に通用する
感性での共感をもたれる文化であることを教わった。1934年、柳宋悦がアメリカで日
本の美の講演を行って以来、年毎に外国人のほうが日本の伝統的な美や精神に強い関心と
理解をもつようになったという。
    
 ぼくのようなズブの素人にはよくわからないが、立派な盆栽は1億とか3億円と評価さ
れるものもあり、樹齢も300年〜500年という古いものもあるという。500年とい
えば室町中期から生きながらえてきた瑞々しい骨董品のような盆栽など、ぼくには考えら
れない文化資産である。 
    
 現在の彼は、東京都江戸川区にある「春花園BONSAI美術館」を設計完成し、館長
の相談役として支援しているという。 
       
   
 ついでながら、人間ちょっとアンバランスなところがある人物は、時に不思議な人間味
を感じて楽しい。
 佐々木氏曰く「私は、この病院ではマーク(要注意)されているが、玉井さんもはっき
り本当のことを言い、それを押し通そうとするからその一人だろう。」などという。
 
 ぼくのことは図星だが、何のことかと尋ねると、彼はつい先頃、病室の窓から病院の前
にある小高い森に、今時には珍しい全く手が入っていない逆さホウキのようなケヤキの大
木を見つけ、事もあろうに、まだ真っ暗な午前4時頃、病室を抜け出したという。
       
 理由は、こんなすばらしい見事な自然木のこずえ越しに、瞬く満天の星空をじっくり眺
めたかったからだという。そんな風景ならぼくも見たかった。
 ぼくは、そんな彼の並外れた感性、スケールの大きさに、かって「素晴らしい造型に出
会うとヨダレが出る」と表現をした彼のうれしそうな仏様のような顔が浮かんだが、そん
な夜中の行方不明の患者では病院側は大変だったろう。
 でも、彼は平然として、この次には、子供につける迷子防止の無線器をつけられること
になったという。
                                
 彼は70歳。手の震えが止まらないという難しい病状手術で入院されていたが、この3
ヶ月近い入院中、気楽なザックバランの文化漫談が楽しめた得がたい友人であった。
 その他難解な数学オリンピックの運営に携わってきた中尾さんという方との「数学と創
造的な頭脳と人間性(情操教育)」などの話も面白く忘れがたい。色々お世話になった。
    
  
< その他いろいろ >
某月某日
   
 このところ晴天が続く。病室から見る落日は、殊更わが身の不自由と無聊を感じる。
「今日も何もすることはなかった」そんな日が続く。
   
(この夕景は75日間の入院中、この限られたフレームで見られた最高の一瞬であった)
    
 危険防止から引いても開かないベランダのガラス窓、長いカーテンで仕切られ取り囲ま
れたベッド。こんな環境では、これからの講座の構想など浮かびようがない。 
 無線で受けるパソコンも、新幹線と自転車ほどの違いがあるのかと言いたいくらい遅く
て不便この上ない。
   
   
某月某日
 
 今日は、ぼくは機嫌が悪い。
 新聞を見ていると、相変わらずイラクの後始末から北朝鮮の核や拉致問題、6カ国協議
と来るが、高所から見れば、大のオトナがコドモのケンカをやっているように見える。 
 
 アメリカは世界の警察官、人権擁護とご苦労さんだが、地球の温暖化防止の京都議定書
では逃げてしまった。肝心のところでは自国の利益が最優先では筋が通らない。
 これではいくら良いことを言っても、説得力は乏しく、全世界が納得しない。日本は何
時もあとから様子見しながらついてゆくだけ。これではご先祖さまに申し訳ないだろう。 
    
   
某月某日
   
 今日もぼくはもっとご機嫌が悪い。新聞はこのところ、人殺し、イジメばかりである。
親が子供を殺し、子供が親を殺し、子供が子供を殺す。こんなひどい時代は83歳を迎え
たぼくの記憶にもなかった。
     
 ぼくは小学校の2,3年生頃は、鈴虫捕りの名人だった。夏の夜、懐中電灯をつけて、 
息を凝らして捕える醍醐味はこたえられなかった。でも、来年のためすべてを捕りはしな
かった。友達の中には、土を入れた甕で飼い、卵を産ませて繁殖させる者もいた。  
 そんな体験は、地上を列を成して往復する蟻を見てもご苦労さんと思うが、足で踏み潰
すようなことはしなかった。知らず知らずに生命の大切さを身につけていったのだ。
    
 地球上のすべては、そこにある動植物、酵母、バクテリアに至るまであらゆる者の共有
であり、同時にお互いが生かし、生かされている。
 多くの人殺し、いじめの究極の原因は、自分さえよければという人間の横暴、倫理を失
った失格人間が増えたからである。根底は文化教育への無知からである。
    
 謙虚に自然に親しむことは、命の大切さを知り、やがて人間が培ってきた時代を超えた
文化の大切さを知り、個を主張しながらも集団欲という宿命を持つ人間としての信義・礼
節、倫理にいたる。倫理観も文化を生みだす美意識に関連する。
    
 文化をおろそかにした戦後教育のツケをどう回復するか、それらができる政治哲学を持
った人物が殆ど見当らない。櫻井良子氏を総理にするか。とにかく腹立たしく、残念。
   
    
某月某日
 
 今日は朝から腰の古傷の辺りが傷む。毎朝、回診に見える病室担当医に、なぜだろうと
聞くと、「大先生、それにはハッキリした原因がある。今日は外の気温が低いからだ。」
と軽くいなされた。でも、こんなジョークで、気分がまぎれることもある。
     
 その後、デイ・ルーム(談話室)に行くと、ここにもそんな人がいた。
 つまり、民放の天気予報には、「お洗濯予報」なるものがあるが、病人のため親切気が
あるなら「痛み予報」なども出してもいいのではないか。
 <明日は、北朝鮮からやってくる強い低気圧のために、府中地方では、一日中メリメリ
痛むでしょう>などとあれば、入院患者はそれに備えて、ホカロンなど張って寝るだろう。
売店も儲かる。などと、ケッサクなことを言っていた。
       
 ここは関東各地方からの厳しい患者も多いところ。この茶髪の青年も病状も厳しく入院
生活も長いが、いつも明るく振舞おうとしているのだ。つらい冗談も仕方なかろう。

               

       

   

     生まれ故郷にて  1960           
 そんな時、それにしても近頃の父親は弱すぎると思った瞬間、子供の頃あれほど怖かっ 
た明治男の父の姿が浮かんだ。父は教育者であったが、自分の身は自分で守れ、男は家族
を守れといった古武士のようなところがあった。ぼくはそんな父が好きだった。
    
 ぼくはそんな父との記念写真を残しておきたくなった。これは67歳で早逝した父に田
舎で最後に会った時、ぼくがやっと麻布にスタジオを持った36歳の頃のもの。
 この写真の後方には、菩提寺の川が流れ、父は時折、寒夜の川原にムシロをしき、禅宗
の若い僧侶と座禅を組んでいた。到底、ぼくにはそんな真似はできない。だが、その影響
は生きているようだ。
          

                   

< 塾生情報 >

         
 ぼくは、ここ数年、無料の写真講座を開いていることから、大学生、大学院生やプロ仲
間などから電話があり、金、土、日あたりのIP電話はみんな長話をするので、テレビの
行列ができる法律相談状態になることがある。Googleで MIZUO TAMAIと入れると出
るので、外国でも見てくれている人があることもアメリカからの通信で最近わかった。
    
 また、ぼくの講座は写真の技術展開だけでなく、文化史的な余談もあることから、学生
でも写真のプロを目指す人ばかりとは限らず、予想外の展開・討論もあり、これが結構面
白い。それがPart 50で入院宣告したので、このところ静かである。
 話が長くなりすぎるので、ここからは塾生のみのごく一部を簡略に記録しておく。 
     
                                  
11月10日
   
 北海道から塾生でテルミン奏者の桑島はづき君が他用をかねて見舞いにやってきた。 
 彼女は、いきなり忙しそうに手提げから小さな本を引っ張り出し、「これ、見てくださ
い」という。それは、ぼくのためにイギリスから買ってきたという写真集である。文庫本
のサイズで厚さが2.5センチほどだからズッシリとした豆本のようで、これが写真集と
は見えない珍しい本である。
    
 装丁は漫画本のような派手な色づかいでタイトルは「THE PHOTO BOOK」
とあったが、中身を見て驚いた。作者名をアルファベット順に並べ、500ページは50
0名の古今東西の話題作が載っている。写真家名簿を兼ねたような本である。
 Tのところに玉井が載っていないのが残念だが、手元において手軽に索引でき、原稿を
書くぼくには、とても便利な心のこもった贈り物、ありがたく頂戴した。
                                     
 ところでまた余談になるが、ぼくは親しい人に会った時は、その昔いつも瑛九に握手で
迎えられた延長から、手をさしのべる習慣がある。
 この日も、当然「ヤーいらっしゃい」と彼女の手を握った瞬間、何か特殊な感触を感じ
た。気になるので、手を開いて見せてもらうと、5本の指先の第1関節だけがハッキリ湿
気を帯びその他は乾燥している。彼女は26歳の独身、若い娘はこんな人もあるのかと。
こんな経験は初めて、不思議に思った。
 とにかく、この日もほとんどの会話は、講座の延長であった。
    
   
10月某日
   
 横山健君が、モンゴルの馬を撮った200枚以上の2L判の写真を持ってやって来たの
が10月中旬。大量だったがどんどん区分けしながらスムーズに見られた。
 まだ、見方が散漫だが後2〜3回行けば、何とかまとまるといった予感がしたので、そ 
んなポイントを10点ばかり選んだ作品に近いものを材料に話を進めた。
   
    
11月13日
   
 選ばれたA4の引き伸ばし10点を持ってきた。それらには、ぼくが初回に指摘したモ
ンゴル馬の特徴が良く出ていた。競馬で見るサラブレットは気品があってスマート。モン
ゴルの馬はたくましく、鍛えられた俊敏な野生馬の美しさが見て取れ、このところ「チン
ギス・ハン」ファンのぼくは、こんな馬に乗ってみたくなった。
    
 これらからもっと集中的にテーマを「モンゴルの大自然と馬。馬と馬。馬とモンゴル人
の家族。」を明確に、そのたくまざるドラマを意識して撮られたら、相当のアピールがで
きるだろう。これらの一部は例会で見られるかもしれない。
     
 彼は退院の3日前、突然またやって来た。その時、彼は来るたびに雑談を交えながらの
話は、読む講座の3倍も良くわかり、身にしみるという。これは桑島君も同じことを言っ
ていた。近いほどわかりやすいのは道理だ。その昔、南麻布のスタジオ時代、ゲンコで頭
をコツンをやられた弟子たちは、もっと身にしみた。 
    
 この日、彼が置いていった首からぶら下げる長いヒモのついたペンホルダーは、質素な
皮製だが、モンゴルらしい模様、土俗風なデザイン、色づかいが面白く、お気に入りの良
い記念になった。

   
11月9日
   
 10月12日、塾生の上田君にオメデタがあり、女の子が誕生、「楓華(ふうか)」と
いう命名もすばらしい。親ばかとはいえ、その後この1ヶ月足らすで2000枚以上、毎
日100枚近いという撮影には、びっくりした。
     
 その後、塾生の嶋尾君から、彼はその前に、テーブル・フォトでデジカメがフィルム代
がいらないタダ見たいなものだからとシャッターの切りすぎで、カメラをブツ壊してしま
ったいう話があり、これもめったにないこと、あきれた。何れにしても、彼は良いパパに
なるだろう。
        
                                
11月15日
   
 当塾のユニークな女性評論家?大住君が、大相撲九州場所の4日目の桝席を買い、和服
での見物のため携帯チビ椅子を用意し、長い正座もOKという情報があり、着物姿の彼女
を見逃してはとズッとブラウン管に目をこらしていたが、遂に現れず、空振り。
   
 12月3日、彼女は「正面席で全くテレビには映らず、ゴメン。」というメールあり。
その代わりに「大相撲九州場所レポート」というコメント入り組写真が掲載され、これが
素人風?でおもしろかった。娘と一緒の和服姿の麗人風の写真も添えられ一件落着した。
    
    < 追記 >
某月某日
   
 病院の食事は難しい。毎度話題になったのが「あの味付けは、何とかならぬものか?」
というため息のような話である。
 栄養士が、これぞという食材を選び、カロリーを計算し、塩分など控えめという苦心の
栄養食だろうが、味付けが全般に薄味のせいだろう。
 ぼくの場合は、日常の食生活が相当変わっていて、1年中、朝昼晩とも凍るほど冷やし
た 250mlの缶ビールを飲みながら、牛が大好きで朝からステーキでもシチューでもかまわ
ないといった濃厚なものばかり。冷たいものに強く、冬でもエビスメ・コンブの冷や茶漬
けア イスクリームは欠かさない。
                                      
 ここでは、食べ物以外の楽しみがないから、好物の名前はどんどん出てくる。
塩数の子、ウナギ、中トロ、てんぷら、ギョウザ、シュウマイ、焼豚、コーン・ビーフ、 
紅鮭のハラス、みる貝、磯バラうに、きゅうりスライスのサラダ、食後のフルーツは、西 
瓜、マスク・メロン、柿、白桃、巨峰などなど。
 時にご飯は軽く半杯を野沢菜とシジミの味噌汁で終わる程度だから、病院での全くビー 
ルなしで、ご飯と薄味のおかずでは体調が狂ってしまう。
    
 そんなことから、家の者は毎日の差し入れで、往復3時間、75日間の出勤は皆勤賞も
のになった。ゴクロウサン。
    
11月28日  午前10時 退院。