part.5           


 第一回

     今回は、私の風景を3回ぐらいに分けてお目にかけることにした。
    
 その人の風景写真の変遷は、その人の性格を最もよく現すといわれる。もちろん、花、動
物、何を写しても性格がでるが、風景は範囲が広くて好みや性格が出やすく、また上達の目
安もつけやすいということである。
       
  私は戦災で学生時代の写真の大半を失ったが、古いものから新しいものまで並べて見ると
なるほど自分の性格が丸見えで、「雀百まで踊り忘れず」とか、子供のころからの持つて生
まれた本質はほとんど変わらず、作品の裏面や端々に見られる。
       
 そしてこの本質がその後に遭遇する環境によって作品の表現を変えてゆくが、若い時代の
環境の変化と自覚は、その性格を変えぬままで写真表現の激しい変身(上達)につながるこ
とがわかる。また作品には微妙な感性も影響するので、その折々の環境の変化だけでなく、
精神的、身体的なコンディションも如実に現れる。                  
                                          
  私のこの写真展は、写真表現の写真講座もかねているので、私の写真生活でもっとも変化
の激しかったごく初期の3年間の作品をとりあげ、こうした写真の変身がどうして起つたか
を具体的に述べてみようと考えた。                         
  私は現時点では、「人間の文化は、上昇する一方でなく波動する。また、造形の原理は、
紀元前200年の前漢時代に完成し、以後は時代による粉飾があるのみ」といった見方を持
っているので、私の拙作を並べての分析、解説は、それが現実にあった実証済のものである
ために、或る写真家のわずかな体験でも、写真を始めて間もない方には、多くの共通項があ
るので何らかの参考になるのではと思つている。         
   
     裏話は、作品の成立と切り離せない性格と環境の変化の話になる。        
    しかし、自分の性癖を分析するほどむなしいことはない。こうした分析は幼児期  
   の性癖(性格)から始まる不肖の自分史のようなものでちょっと躊躇したが、いま     
  さらはずかしがる年でもなく、裏ぺ−ジでザックバランに述べることにした。  
   ご用とお急ぎでない方はどうぞ。  裏ページへ
     
    なお、今回から私が述べる風景の解説をうまく解析すれば、もし写真誌などに3
    点くらい応募して、必ず1点くらいは入選するといった各人なりのマニュアルがで
    きるであろう。それは私が応募する立場になった経験と編集者として雑誌の紙面上
    での効果的な作品を選ぶコツや各写真募集時の審査員の選び方の裏側を体験したこ
    となどのエッセンスが作品の解説時や裏話に自然に出てくると思うからである。




               「五月の光」             1949





五月の光

  私の写真で、はじめて世間に出たのがこの作品であった。
    
 俳句に「風光る」という季語があり、「風光り雲また光り草千里」というのがあったが、
この写真はさしずめ「風光り雲また光り屋根光る」といったところであろうか。
     
  1945年、敗戦直後から結核で3年間のベッド生活を送ったが、ストレプトマイシン、
ヒドラジットといった特効薬のない時代。自然治癒にまかせた大気安静療法の回復期にやっ
と許されたのが、ゆるやかな散歩であった。ベッドの上でもカメラを離さず、裏蓋を開いて
スリガラスをあて、戸外を映していた私は当然カメラをぶら下げての散歩に出た。
     
  ある日、山近い隣町との境界あたりで、この倉庫のような屋根が五月の陽光に光り輝くシ
−ンを見つけてカメラを構えた。快晴ではなく、薄い白雲を透した半晴の光りはまぶしいよ
うな風景になる。そこへ、偶然にも赤ちゃんを背負って小さな女の子をつれた女性がやって
来た。点景もピッタリで2、3枚のシャッタ−を切った中の一枚である。
    
  実にありふれた光りに満ちあふれた四国の田園風景であったが、何となく写真雑誌に応募
する気になり、四つ切りに引き伸ばして送った。それがそのまま初応募、初入選になり、ア
−ト・ぺ−ジに印刷された。今見るとまったく素人風の写真であるが、光りの化身のような
風景を描くモネの絵が好きだった学生時代の写真はこんなもので、どれもこれも光りが満ち
あふれたものばかりであった。
      
(入選作品の図柄は、これとは多少異なる。当時は入選作品のネガは雑誌社に送る条件があ
  り、ネガから製版印刷されたが、ネガの返却がなかったので、これはその一連のネガから
 選んだもの。1949年5月1日撮影。「光画月刊8月号」掲載)
         
 それにしても、この2年後には私は東京に出て、まったく立場を変えて写真誌の編集にた
ずさわり、月例の審査に加わって講評の一端を書く身になろうとは−−−。そのわずか2年
間の私の作品の激しい変貌が、私の進路を変え生涯を写真の世界で送ることになった。



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                  「丘」                1949











  これは、日本写真連盟奈良県支部主催の秋季撮影会展に全紙で出品した作品。
  
  画面は、大きな巻層雲が流れる丘の上で9人の子供たちが斜陽を浴びながら無心に遊んで
 いる風景である。簡単明瞭、だだそれだけである。しかし、モチ−フはひとつだけ、ストレ
 −トな感動をといったシンプルな見せ方は、力強い演出といえる。
  
  私はかってこんな単純で大きな風景を撮ったことがなかった。これはまたキャビネや四ッ
 切のような小サイズでは、スケ−ルが出ず効果も出ない写真でもある。
  この頃、私は四国から奈良に出て、一期一会の縁があり、当時関西写壇の雄といわれた前
 衛的な写真集団、丹平写真倶楽部に入会が許されたばかりであった。入会後まだ半年もたっ
 ていなかったが、この会の月例会が全紙で行われていた影響から、それまで漫然とファイン
 ダ−を覗いていたものが、全紙に伸ばした風景を脳裏に浮かべながら、そのシ−ンを見る目
 に変わりつつあった。これはとても重要なことであった。
  
  つまり、一見良い写真に見えても、しつかりした構成と密度がなければ、ただ大きく引伸
 しても、もたないということがわかり始めた。(コップ一杯の水割りを丼一杯に薄めたら、
 とても水っぽくて飲めたものではないといったこと)。といって構成と密度は、画面に材料
 が豊富にあればよいということではない。その写真がそこに在り続けるだけの造形がされて
 いるかどうかがポイントになる。                          
                               
  この撮影会の後半は自由行動となったが、私の目は鹿や猿沢の池からまったく離れていた。
 私は近くの裏山でこの「丘」のシ−ンを見つけた。たまたま私の住まいはすぐ近くにあった。
  古都奈良は、どこを撮っても何とか風景になるところ。そんないかにも奈良らしい風景写 
 真が並んだところへ、全紙でこんなあっさりした風景は目を引くのが当然というのが、展示
 会場での印象であった。(この作品は推薦賞を受け、一番いいところに展示されていたが)






                   「航跡」                 1951





航跡 琵琶湖にて

 これも大きい風景写真である。これはミノルタ・カメラが昭和26年8月に琵琶湖で行っ
た大撮影会での作品である。この日、500名以上の参加があったが私はカメラ会社がチャ
−タ−した京阪丸という遊覧船に乗った。例によってこうした撮影会では、数名のモデルが
用意されていたが、私はそんなサ−ビスには、まったく興味がなかった。        
   
 それよりも私は、どんな作品が上位に入賞するかの条件を考えていた。いくらモデルが良
くてもトップ賞になるわけはなかろう。やはり舞台が大きな湖のこと、大風景に限るとおも
った。しかし、だだっ広くて何の変哲もないこの琵琶湖、唯一の素材として目をつけたのが
航跡である。                                   
  船の艫(とも)までやって来たが水面が遠く、そのままのバランスでは迫力が出ないと思
い、水面近くにまでカメラを差し出し、ファインダ−を見られないままに、見当をつけて撮
った数枚の中の一枚がこの作品。遠景の「沖の白石」という島が画面になければ琵琶湖の証
明にはならず、その位置には神経を使った。                  
    
 この作品は、応募する前に全紙に引伸ばして月例会に持っていったら、先輩が講評のなか
で、「たとえば、海を撮るにしてもその深さやボリュ−ムを、撮る時も引伸ばす時も表現す
る心構えでなければならぬ。また35ミリカメラのプリントでは、粒子が出るのは当然で四
隅まで粒子をギリギリまでシャ−プに出さねば、正しい諧調は出ない。」といわれた。  
  そこまで考えたことのなかった私は、あらためて先輩諸氏のプリントを見直したら言われ
るとおりのシャ−プさで、砂目のような美しさがあり、私のプリントの四隅は粒子が流れて
おり急にはずかしくなった。私はその夜、家に帰ってからすぐプリントをやり直した。
 ちなみに、この作品を応募した結果は特選賞で、私の考え方の方向は当たっていた。






                 「ひわれ」               1950






ひわれ

   これは大風景写真から、足元の物に注目しはじめた頃の作品である。
     
   このころ私は、35ミリカメラに大きな木製三脚をつけて、あちこちを放浪していた。 
   被写体は海岸へ行けば、打ち上げられた流木。岸壁では、大きな赤錆びたブイ。春日大社
  裏の原生林をさまよっては、風倒木。木津川をうろついては、ひわれ−−などであった。 
    
   私は丹平写真倶楽部に入会してから1年がたち、時折例会で見る戦前のドイツでの新即物
  主義を思わせるシャ−プな質感の即物的な表現に注目していた。私の意図はこれらの手法で
  破壊の美学といったことである。ひまわりなども撮ったが、これも枯れ落ちる寸前であった。
  この時期、関東写壇の写真は俳句の写生句のようなものが多く「もし、オレの作品がわび・
  さびの世界や物の哀れといったものに見られたら失敗だ。」という意識もあった。    
  
   そこで私は、被写体の状況に非日常的な緊張感がないものは避けるようになっていた。 
   こうした被写体は中途半端な見方をすると、単なるパタ−ンやいわゆる構成主義的な写真
  になりがちだが、それを避ける要素は、新鮮な構成とリズム感である。ある程度撮り進んだ
  ころから私は、多数のものには擬人化された人の世界が感じられたり、またランダムに置く
  と命あるもののようなイメ−ジが起きることもあった。
   この傾向はかなり続いたが、こうした被写体に異常な程の興味をもったのは、まだ結核の
  病み上がりで微熱が出ることもあり、そんな体と心理の不安定もあったように思う。   






                  「フォルム」                1950





フォルム

 これは「ひわれ」の延長だが、すこし意識が異なり、具象から抽象への興味をもち始めた
ころである。滅びゆくもの、破壊の美学といったものに熱中しているうちに、物の見方にか
なりの変化が起き始めた。物事は行ったり来たり、行き過ぎてみればよくわかる。
    
 ひわれは何日も写していたが、あの日、始めは単なる「ひわれ」と見ていたものが、暑い
日差しで乾くうちに変身し、その変化の初期段階ではかえって命に溢れたものが持つ線や形
やリズムの内的な存在を感じて、それを客観化しようという意識が強くなっていた。それは
新しい不思議な魅力ある形で、題名も「フォルム」とした。
 こうした過程のある瞬間の恐ろしくシャ−プな表現は、単なるリアリズムを越えて、虚し
さや美しさの中にある醜さも象徴している人生をみるようなものを感じ、それが新たな写材
になってきたのである。                            
    
 それは学生時代からモネと共に好きだったキリコの影響もあったように思う。 キリコは
実際には見えないが、影がその存在を示し、期待と不安を効果的に画面に生かした。そんな
心理的な変化が、知らず知らずのうちに具象としての風景や物を写す場合でも、その中に抽
象性を感じさせるような構成や瞬間をえらび、それは自然の光りの瞬間にも及ぶようになっ
た。つまり、どんなシ−ンでも人が感動するのは、その表面を見てそれが深く心に響くのは
根源的には抽象的な或るものが心に残るからだと思うようになったのである。      
    
 私の新しい変化は、丹平写真倶楽部で受けた洗礼の影響が一番大きかったと思うが、今見
れば、中にはあの変てこなオブジェめいたものが、どうして各国の国際サロンや国内の写真
美術展に入選し、展示されていたのかといった不思議に思えるものもある。これも世界的な
流といったものがあったのであろうか。             
 この作品は、丹平写真倶楽部展に出品した。(1950年8月。大阪阿倍野デパ−ト)






私の若かりしころの写真。

誰を抱いているのでしょう?

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