「 よくも生き残ったものだ 」(徳島時代)
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃のニュースを聞いたのが中学5年生の時だった。
ぼくは中学卒業後1浪して徳島高専(現徳島大学)土木工学科に入学し、これを卒業し
たが、当時の学生生活は太平洋戦争と切り離しては考えられないもので、話は戦時下の異
常な記録のみ書き残すことにした。
ぼくの青春は厳しかったが、結局、戦争と結核から生き残った。
< 松山航空基地でも生き残る >
当時の学生は、学業半ばで戦場に狩り出されたが、理科系の学生は学徒動員という呼び
名で、ぼくは海軍の松山航空基地の設営を命ぜられた。准士官待遇で紫電改という戦闘機
の誘導路やこれを守るアーチ型・コンクリートの格納庫の設計、施工監督が仕事だった。
参考書片手での設計は心元なかったが何とか書き上げ、一般人から徴用された108名
の部下を指揮してやっと構造物を造り上げた。
戦争は益々激しくなり、この基地も当然目標になった。B29の爆撃や艦載機の攻撃が
あり、目の前での空中戦も見た。空爆時は飛行場周辺に掘られたタコツボや裏山のトンネ
ルに避難したが、もぐり込む場所次第で生死がきまる。ぼくは目の前の避難壕が一杯にな
り、その隣へ潜り込んで助かったことが2度あった。
広い飛行場に落とされた爆弾の半数は時限爆弾だった。何時爆発するか分からないが、
破裂した大きな穴を埋め戻さなければ飛行機が発進できない。時限爆弾の位置マークをす
り抜けながらの穴埋めも命がけだった。ぼくは梅雨の中で濡れながらやったこの作業の過
労が元で、その秋には結核になった。
終戦の年(1945年)の7月、ぼくは兵役が甲種合格の工兵で9月が入隊と決まって
いたので、その準備のために松山の施設基地から徳島の下宿へ4、5日の予定で帰って来
たら丁度クラスメ−トで他の基地へ派遣されていた親友の美野も帰ってきて久しぶりの再
会になった。
< 徳島大空襲を大八車で走る >
徳島の下宿は市内の丸新というデパートの近くだった。下宿といっても食料難の時代、
ぼくたちは間借りの自炊で、この家の主は60歳くらいの気さくなおばさんだった。
大男が二人揃ったところで、おばさんは頼み事があると言う。それは米軍のB29によ
る主要都市へ空襲が続き、徳島もそろそろ危なくなってきたから、田舎の親戚に大切な家
財を預けたいという希望だった。ぼくたちは2人で大八車を借りてきて、吉野川を越えた
親戚まで届けてあげることにした。
運搬は、昼間は暑いから夜にしようということになった。
その日の夕食は、うどん好きのぼくのために、おばさんが作ってくれた手打ちうどんが
おいしくて、2人とも食べ過ぎて一服するうちに、出発は夜中になってしまった。
ぼくが大八車の前を引き、美野が後押しでスタートしたが、荷物が山と積まれたせいか
結構重い。でも道路は舗装だから何とか行けそうだなどと大きな声で話しながら、頭に入
れた最短コースに向かって行くうちに、突然空襲警報のサイレンが鳴り出した。
でもこれは毎度のことで、阪神方面への飛行コースの警戒警報くらいのものだろうと思
っているところへ、いきなり爆弾が降ってきた。「徳島もそろそろ…」どころではない。
おばさんの家を出て、10分もたたぬ内に始まったのだ。
ぼくたちは仰天したが、下宿のおばさんの大切な荷物を放り出して逃げるわけにはゆか
ない。ぼくは前引き、彼は後押しのままで、道路の真ん中を猛スピードで突っ走った。こ
こは町のほぼ中心地なのだ。
降ってくる爆弾は、焼夷弾と油脂弾で、焼夷弾は話に聞いていたとおり、雨のように降
りそそぎ注ぎ、屋根瓦を突き抜けて家の中で発火した。油脂弾は少し大型で硬い舗装道路
に落ちたものは、火を噴きながら大きくジャンプして二階家を飛び越え、裏通りの家を炎
上させるのも見た。
その時、ぼくたちは遠く近くバラバラ落ちる爆弾を、軒先や防空壕には入って避けよう
といった考えは、全く浮かばず、車の取っ手をしっかり握りしめたまま、炎の拡がる方向
を見ながら、逃げ道ばかりを考えていた。
爆弾が10mほど先に落ちてきて全身で急ブレーキをかけたり、走る後ろにバラバラ落
ちる音を聞いたりしながら、無我夢中のなかでも意外に冷静にコースを選び、かなり遠回
りになったが何とか吉野川鉄橋にたどり着いた。
下宿からこの橋まで直線距離では約5km。歩いて一時間くらいのところを大八車をひい
てあちこち逃げ回りながらで7、8kmか。荷物を川向うの家に届けることができたのは、
もう2時間近くもたっていたように思った。
後で、美野と話しあったとき、みんなが防空壕で息を潜めているときに、俺たちだけが
町中が火の海でバカバカしく明るい炎をバックに、大八車を引いて走り回るシーンをやっ
たようなもの。まるで映画のようだろうなどと笑っていたが、よくも爆弾の直撃を受けな
かったものだ。もしあれが通常爆弾なら、ぼくたちは跡形もなく昇天していたであろう。
この徳島大空襲は、1945年7月4日午前1時過ぎから2時間の間のことであった。
3000人の死傷者があり、投下された油脂弾、焼夷弾は1200トン、広島原爆の12
分の1のエネルギーがあったといわれる。
ぼくは美野と2人で、また吉野川橋を渡り、下宿のあったところまで帰ってきたが、全
くの焼野が原で中々わからず、水道の曲がり具合で何とか特定できた。おばさんは行方不
明だったが、ずっと後になって、眉山の裏側へ逃げて無事だったと聞いた。その後、ぼく
は病気になりお目にかかるチャンスはなかった。
< 脳裏に焼きついた許せないシーン >
この空襲でぼくの脳裏に焼きついているシーンには、爆撃の終わりころになると対空砲
火はもうないとみくびったB29が、100mほどの低空まで降りてきて悠々と飛んでいたが
その銀色の胴体には多くの家が燃え盛る炎が映り、地上から何の手出しもできないぼくは
その光景が悪鬼を見るようで腹立たしかったことや、夜が明けてまだ白い煙がたちのぼる
街の周辺を行くほどに、逃げ遅れてやっとここまで辿りついた男女、子供たちがあたり一
面に息絶えて倒れていたが、そのほとんどがゆで蛸のように薄皮がはがれた状態で、見る
に耐えなかったことなど数多く、松山基地での直爆下の惨状とともに、忘れられない。
ぼくは、また松山航空基地の施設隊に戻ったところで、1945年7月26日、松山空
襲で市街地は灰燼に帰し、広島は8月6日午前8時15分原子爆弾に見舞われ、広島に施
設隊から出張していた者から、その後には黒い雨が降ったと聞いた直後の8月9日には、
長崎のプルトニウム爆弾でぼくの親友2人も蒸発した。
8月15日、基地で終戦放送を聞いた日から5日後に、ぼくはトラックに乗せられて小
松の自宅に帰ってきた。その後、学校の方は繰り上げ卒業があったが、体調を崩したぼく
は徳島には一度も行けなかった。
如何に全面戦争とはいえ、原子爆弾や無差別爆撃の罪深さは絶対許せない。
近くJPSの企画で『日本の子供60年』という展覧会があるが、戦争の被害をモロに受
けるのは子供たち、栄養失調で尻にしわがよった子供まで見られるであろう。
ぼくたちの学生時代は、戦争一色で青春を謳歌するものはなにもなく、人間への不信、
怒りはなかなかに消えない。ぼくたちのような体験をした者は、戦争放棄という9条は絵
空事に見え、理想としてはわかるが、自らを守る手段を持ちながら、戦争だけはしたくな
いと願うばかりである。
徳島でのぼくが撮った写真や持っていた写真は、この空襲ですべてが灰になった。
ここにわずかに掲載した3点の風景写真は、ぼくがアルバム委員をしていた関係
で徳島では有名な立木写真館の主人と懇意だったことから芸術写真好みの彼が撮っ
た数点を選び、卒業前にサンプルとして貰っていたもの。ぼくの2枚の徳島でのポ
ートレートとともに、自宅に残っていたものである。
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