< わが故郷 
   
    
この講座はぼくの自分史をかねたものと思っているので、この裏話は
その備忘録としての身辺雑記である。余談として御覧ください。

        
              

「 両親のこと 」

    
 ぼくは家系を継ぐ長男として、小さい時から昔風の父にかなり厳しいしつけをされた。
まず、小学1年生になった日から、毎朝仏壇の前に正座して般若心経を挙げさせられ、い
やいやながら何んとか暗唱できるようになった。お陰で生涯どこに行っても、このお経だ
けはあげられ、他家の法事などで喜ばれることもあった。 
    
 次は、ある日近所の子供とケンカして泣いて帰ると、「泣いて帰るくらいならケンカは
するな。ケンカするなら勝ってこい」と厳しくいわれ、父の声は命令に聞こえた。その後
ぼくは上級生相手でも負けたことはなく、町内一の暴れん坊といわれたぼくのため、母は
毎度頭を下げてことわりに歩いたという。
    
 その他諸々、おおよそこの延長で、冠婚葬祭時の親戚付き合いから、裏の畑の地鎮祭、
肥え桶担ぎ、山の木の寸法測りなど、長男としてのぼくは全部父につきあわされた。もち
ろん、そんな時のためもあってか箸の上げ下ろしから礼儀作法も厳しかった。
 小学3年で父の代理として、小作人が納める年貢米の端数納入時に、まだ怪しげなソロ
バン片手に上座に座らされ、子供心にも閉口したこともあった。        
   
    
 こんな家系云々については、父の説教の折々に聞かされたが、ほとんど子供の耳には入
らず、ずっと後になって「伊予玉井家元祖ハ清和源氏第14代、初メ宇野頼忠、後玉井四
郎左衛門源頼忠。軍功ニヨリ和泉国和泉郡千原郷玉井荘ヲ賜リ領知シテ氏ヲ玉井ト改ム。
千原城主也。」といった文書を、郷土史研究家の友人に見せられて、何とか理解できた程
度であった。 
   
   
 父は身長180センチ近くで、羽織袴がよく似合い古武士のようなところがあったが、
その容貌からご先祖に白系ロシアの血があるのではなどという人もあった。
 とにかく、家は戒律のきびしい禅宗で、父は信仰心が厚く菩提寺の檀家総代などを務め
座禅にはことさら熱心で、寒夜の川原で座禅を組むなど相当な変わり者といわれていた。
    
  日頃は、上質の抹茶を好み、何時も茶せんなど茶道具一式を持ち歩き一日5、6回以上
も茶を立てて飲み、囲碁には時間を忘れ、謡曲はほどほど。字は昭和の時代には珍しい古
風な矢立てを持ち歩き、愛用していた。
     
 典型的な亭主関白下での母はあわてず、急がず、のんびりした人で、ぼくの野放図に干
渉することはなかった。姉が生まれぼくが小学校に入るころまで、お手伝いさんが2人い
て、家事を任せたせいか、母の料理はあまり上手とはいえなかった。
      
 あの頃の親戚を眺めると、おおむね中小地主のためか小中学校の教師が多く、先生と名
の付く経験者は男女合わせて12名もいた。
 父は地元の中学校長を最期に教職を退き、その後、町長選挙への出馬を要請されていた
が頑強に拒否しつづけ、67歳で早世した。
    
    
 ぼくは、父を理解するのが遅すぎた。
 小さい時は叱られるのが怖く、反抗期になると煙ったく、こんなオヤジはいないほうが
いいと思うことの方が多かった。父と親身になって話ができるようになったのは、学生時
代はまだ照れくさく、社会にでてからからでも随分おそく、やっと自分のスタジオが持て
るようになってからである。
    
 そんなある日、ふと頭に浮かんだのが、<ぼくの中には、やはりオヤジの遺伝子が生き
ている> という言葉であった。つまりぼくが弟子たちにいう文句や態度の根底に、かっ
てあれほど反抗していたオヤジさんそっくりのところがあることに気付いたことである。
     
 蛙の子は蛙ということか。オヤジとぼくは全く同類項で、プラスとプラスが反発しあっ
ていただけと認識したわけである。
 でもオヤジさんはぼくよりも遥かに意志が強く立派に自分を通して生きてきたと思う。
その後、ぼくはこんな父を誇らしく思うようになった。親孝行には遅すぎたが。

    
    

       

「母」 24歳 (1922)
    
父が撮った写真。ぼくは体格は父親
そっくり。顔は母親似といわれた。

「玉井瑞夫」2歳 (1925)     父が撮った幼児期の唯一の写真。ぼくにとって は宝物である。カメラはベス単・コダック。

    

「両 親」 (1960)      父65歳 母63歳 南麻布スタジオにて                                  

                     

「 小学生・中学生時代の日々 」

     
 ぼくが生まれたのは、大正12年12月18日。関東大震災のあった年である。
 生後満1歳になったばかりの頃はしかで高熱が10日間も続き、それまで走りまわって
いたものが、腰が抜けたように立ち上がれなくなるほどの後遺症から、小学1年に入学す
る直前までの記憶は一切ない。
    
 小学入学が間近くなった頃、薄暗い仏間で、1つ、2つと数をかぞえると、母がよくで
きたと頭をなでながらその数だけの1銭銅貨をくれたシーンが、一番古い記憶であった。
小学1年に入る当日でも、まだ10はかぞえられなかった。
 この高熱による後遺症は小学4年生ごろになってやっと奇跡的に回復し、大体普通の頭
脳になったが、2桁以上の数の足し引きには拒否反応を示し、ことに暗算など大の苦手で
この数に対する劣等感は生涯のものになった。
     
   
 ぼくは気が急くと、いまでもちょっとドモルことがあるが、小学時代はこれがひどく、
数字とドモリの2つの劣等感からか、しゃべる前に手を振り上げ、体でぶつかってゆくと
いった短気な少年になっていた。こうした性格から、母にいわせれば手先と体を動かして
できる遊びや物づくりには実に根気よく取り組んでいたという。それがぼくの根底にある
らしい。
    
< ピンからキリまでの仲間たち >
    
 行動派で興味あるものは徹底的に追求するといったぼくは、当然ガキ大将になり、その
辺の仲間を引き連れて野山をかけめぐり、不思議な収穫物を集めてくるといったことが小
学時代ということになる。中学もその延長で、頭は悪くない、勉強すればできるといわれ
ながら、教科書は学校に置いたまま、真っ直ぐ家に帰ったことは少なかった。
     
 ぼくたちのクラスは、成績トップから落第生まで、ピンからキリまで分け隔てなく、み
んな乱暴な口を利きながらも仲良くつきあっていた。
 当時の先生に言わせれば、「お前達のクラス程活気があって面白いクラスはなかった。
随分変わったやつがいて手こずったが不思議なことに全体の成績は一番よかった。」とい
うことであった。
    
  ぼくが中学5年生の9月、急性盲腸炎手術で西條からは正反対の遠い今治に緊急入院し
た時は、彼ら学校帰りに立ち寄る見舞客が一杯で、物珍しくて泊まりたいという者は、毎
日じゃんけんで3名にしぼった。
 泊まるといってもベッドの下に並んで足を入れるくらい狭かった。彼等は若い看護婦さ
ん達とちょっと照れながら四方山話に興じていたが、男女共学でなかった時代、わずかそ
れだけのことでも学校より楽しかったのだろう。10日程の入院はあっという間に終わり
もっと入院してくれというのには閉口した。 
    
 そんな反面、時に硬派でもあったぼくは、運動会の応援練習をサボった10名ほどのク
ラスメートを教段に並べて、頬っぺたを一発づつひっぱたいて歩いたこともあった。 
    
    
 こんな中学時代の仲間は、殊に信義に厚かった。中学5年の時、秋になるとはじまる女
学校の運動会の見物に、ぼくは毎年の行事のように多少顔ぶれをかえながら10人ばかり
の仲間を引き連れて行き、例によって塀の外から冷やかしていたが、用事があることを思
い出したぼくは、一足先に帰ったことがあった。
 その後で、事件があったことを知ったのは、50年余も過ぎてからであった。
    
 つまり、こんな冷やかしながらの見物がまともに許されるわけがない。女学校の先生方
の動きを見ながら、塀の上に頭を出したり、引っ込めたり、時には塀に登ったり降りたり
ことになじみの女学生の仇名を呼ぶ時など要領がいるのだ。それがぼくが先に帰ったばか
りにトンマな彼らは、やり損なって女学校から中学校へ電話連絡があり、全員が捕まって
中学校へ連れ戻され、職員室で厳しい説教を受けることになった。
     
 その時、先生から「こんなくだらぬことをやるのは、誰かリーダーがいるはずだ。名前
を言え」としっこく聞かれたが、僕の名前を出すものは誰もなく、1時間以上も立たされ
ていたという。
 翌日、彼らは学校へ行っても「玉井に悪いから絶対口にするな」と言いあわせて、学校
では全員がこの事件を知りながら、在学中もずっと知らなかったのは、ぼく一人だったと
いうことになる。
    
 それが70歳の時、田舎の法事に帰ったぼくを囲んでの飲み会で、もう時効だろうが実
はこんなこともあったとこの一件を聞かされ、半世紀も前の話ながら、ぼくはそんな中学
時代の仲間の心根がうれしくて、しゅんとなってしまった。

                     

           

「中山川」 (1938) 小学生時代、アユ・ドンコ捕りで遊んだところ。     

「屋根上より 四国連峰を望む」(1938) 小学生の頃から我が家の屋根に登り、48倍の天体望   遠鏡で、昼は海上をゆく船を、夜は星を眺めていた。 

「母校 西條中学校」(1941) 松平家の屋敷城跡にあり、周囲は堀に囲まれている。 バックには石槌山。町には打抜き井戸の名水がある。

「玉井瑞夫」 (1942)      西條中学 5年  卒業アルバムより

                

                     

「 よくも生き残ったものだ 」(徳島時代)

    
  昭和16年12月8日、真珠湾攻撃のニュースを聞いたのが中学5年生の時だった。
 ぼくは中学卒業後1浪して徳島高専(現徳島大学)土木工学科に入学し、これを卒業し
たが、当時の学生生活は太平洋戦争と切り離しては考えられないもので、話は戦時下の異
常な記録のみ書き残すことにした。
 ぼくの青春は厳しかったが、結局、戦争と結核から生き残った。
       
< 松山航空基地でも生き残る >
   
 当時の学生は、学業半ばで戦場に狩り出されたが、理科系の学生は学徒動員という呼び
名で、ぼくは海軍の松山航空基地の設営を命ぜられた。准士官待遇で紫電改という戦闘機
の誘導路やこれを守るアーチ型・コンクリートの格納庫の設計、施工監督が仕事だった。
 参考書片手での設計は心元なかったが何とか書き上げ、一般人から徴用された108名
の部下を指揮してやっと構造物を造り上げた。   
    
 戦争は益々激しくなり、この基地も当然目標になった。B29の爆撃や艦載機の攻撃が
あり、目の前での空中戦も見た。空爆時は飛行場周辺に掘られたタコツボや裏山のトンネ
ルに避難したが、もぐり込む場所次第で生死がきまる。ぼくは目の前の避難壕が一杯にな
り、その隣へ潜り込んで助かったことが2度あった。
     
  広い飛行場に落とされた爆弾の半数は時限爆弾だった。何時爆発するか分からないが、
破裂した大きな穴を埋め戻さなければ飛行機が発進できない。時限爆弾の位置マークをす
り抜けながらの穴埋めも命がけだった。ぼくは梅雨の中で濡れながらやったこの作業の過
労が元で、その秋には結核になった。
     
     
 終戦の年(1945年)の7月、ぼくは兵役が甲種合格の工兵で9月が入隊と決まって
いたので、その準備のために松山の施設基地から徳島の下宿へ4、5日の予定で帰って来
たら丁度クラスメ−トで他の基地へ派遣されていた親友の美野も帰ってきて久しぶりの再
会になった。 
 
< 徳島大空襲を大八車で走る >
    
 徳島の下宿は市内の丸新というデパートの近くだった。下宿といっても食料難の時代、
ぼくたちは間借りの自炊で、この家の主は60歳くらいの気さくなおばさんだった。
 大男が二人揃ったところで、おばさんは頼み事があると言う。それは米軍のB29によ
る主要都市へ空襲が続き、徳島もそろそろ危なくなってきたから、田舎の親戚に大切な家
財を預けたいという希望だった。ぼくたちは2人で大八車を借りてきて、吉野川を越えた
親戚まで届けてあげることにした。
    
    
 運搬は、昼間は暑いから夜にしようということになった。
 その日の夕食は、うどん好きのぼくのために、おばさんが作ってくれた手打ちうどんが
おいしくて、2人とも食べ過ぎて一服するうちに、出発は夜中になってしまった。
   
    
 ぼくが大八車の前を引き、美野が後押しでスタートしたが、荷物が山と積まれたせいか
結構重い。でも道路は舗装だから何とか行けそうだなどと大きな声で話しながら、頭に入
れた最短コースに向かって行くうちに、突然空襲警報のサイレンが鳴り出した。
 でもこれは毎度のことで、阪神方面への飛行コースの警戒警報くらいのものだろうと思
っているところへ、いきなり爆弾が降ってきた。「徳島もそろそろ…」どころではない。
おばさんの家を出て、10分もたたぬ内に始まったのだ。
    
 ぼくたちは仰天したが、下宿のおばさんの大切な荷物を放り出して逃げるわけにはゆか
ない。ぼくは前引き、彼は後押しのままで、道路の真ん中を猛スピードで突っ走った。こ
こは町のほぼ中心地なのだ。
 降ってくる爆弾は、焼夷弾と油脂弾で、焼夷弾は話に聞いていたとおり、雨のように降
りそそぎ注ぎ、屋根瓦を突き抜けて家の中で発火した。油脂弾は少し大型で硬い舗装道路
に落ちたものは、火を噴きながら大きくジャンプして二階家を飛び越え、裏通りの家を炎
上させるのも見た。
     
 その時、ぼくたちは遠く近くバラバラ落ちる爆弾を、軒先や防空壕には入って避けよう
といった考えは、全く浮かばず、車の取っ手をしっかり握りしめたまま、炎の拡がる方向
を見ながら、逃げ道ばかりを考えていた。
      
 爆弾が10mほど先に落ちてきて全身で急ブレーキをかけたり、走る後ろにバラバラ落
ちる音を聞いたりしながら、無我夢中のなかでも意外に冷静にコースを選び、かなり遠回
りになったが何とか吉野川鉄橋にたどり着いた。
 下宿からこの橋まで直線距離では約5km。歩いて一時間くらいのところを大八車をひい
てあちこち逃げ回りながらで7、8kmか。荷物を川向うの家に届けることができたのは、
もう2時間近くもたっていたように思った。
   
   
 後で、美野と話しあったとき、みんなが防空壕で息を潜めているときに、俺たちだけが
町中が火の海でバカバカしく明るい炎をバックに、大八車を引いて走り回るシーンをやっ
たようなもの。まるで映画のようだろうなどと笑っていたが、よくも爆弾の直撃を受けな
かったものだ。もしあれが通常爆弾なら、ぼくたちは跡形もなく昇天していたであろう。
    
 この徳島大空襲は、1945年7月4日午前1時過ぎから2時間の間のことであった。
3000人の死傷者があり、投下された油脂弾、焼夷弾は1200トン、広島原爆の12
分の1のエネルギーがあったといわれる。
    
 ぼくは美野と2人で、また吉野川橋を渡り、下宿のあったところまで帰ってきたが、全
くの焼野が原で中々わからず、水道の曲がり具合で何とか特定できた。おばさんは行方不
明だったが、ずっと後になって、眉山の裏側へ逃げて無事だったと聞いた。その後、ぼく
は病気になりお目にかかるチャンスはなかった。
     
< 脳裏に焼きついた許せないシーン >
    
 この空襲でぼくの脳裏に焼きついているシーンには、爆撃の終わりころになると対空砲
火はもうないとみくびったB29が、100mほどの低空まで降りてきて悠々と飛んでいたが
その銀色の胴体には多くの家が燃え盛る炎が映り、地上から何の手出しもできないぼくは
その光景が悪鬼を見るようで腹立たしかったことや、夜が明けてまだ白い煙がたちのぼる
街の周辺を行くほどに、逃げ遅れてやっとここまで辿りついた男女、子供たちがあたり一
面に息絶えて倒れていたが、そのほとんどがゆで蛸のように薄皮がはがれた状態で、見る
に耐えなかったことなど数多く、松山基地での直爆下の惨状とともに、忘れられない。 
    
 ぼくは、また松山航空基地の施設隊に戻ったところで、1945年7月26日、松山空
襲で市街地は灰燼に帰し、広島は8月6日午前8時15分原子爆弾に見舞われ、広島に施
設隊から出張していた者から、その後には黒い雨が降ったと聞いた直後の8月9日には、
長崎のプルトニウム爆弾でぼくの親友2人も蒸発した。
 
 8月15日、基地で終戦放送を聞いた日から5日後に、ぼくはトラックに乗せられて小
松の自宅に帰ってきた。その後、学校の方は繰り上げ卒業があったが、体調を崩したぼく
は徳島には一度も行けなかった。
     
     
 如何に全面戦争とはいえ、原子爆弾や無差別爆撃の罪深さは絶対許せない。
近くJPSの企画で『日本の子供60年』という展覧会があるが、戦争の被害をモロに受
けるのは子供たち、栄養失調で尻にしわがよった子供まで見られるであろう。
    
 ぼくたちの学生時代は、戦争一色で青春を謳歌するものはなにもなく、人間への不信、
怒りはなかなかに消えない。ぼくたちのような体験をした者は、戦争放棄という9条は絵
空事に見え、理想としてはわかるが、自らを守る手段を持ちながら、戦争だけはしたくな
いと願うばかりである。
      
  徳島でのぼくが撮った写真や持っていた写真は、この空襲ですべてが灰になった。
  ここにわずかに掲載した3点の風景写真は、ぼくがアルバム委員をしていた関係
 で徳島では有名な立木写真館の主人と懇意だったことから芸術写真好みの彼が撮っ
 た数点を選び、卒業前にサンプルとして貰っていたもの。ぼくの2枚の徳島でのポ
 ートレートとともに、自宅に残っていたものである。

              

            

「吉野川橋」 (1944) 全長 1040m curved chord warren truss      (注)この3点の写真は立木写真館主人の撮影による。

「正 門」(徳島高専)(1944) 大正時代の代表的な特徴を示す建物。     

「 藍 倉」  (1944) 白い漆喰造りの藍倉が川に映えて美しい。

         

「空爆下を 大八車で駆け抜けた 相棒」      
 左側が玉井、右の眼鏡がこの時の相棒の美野良男(通称ヒゲ)である。
 彼は、183センチのぼくより5ミリだけ身長が高いヒゲ男だった。
    
  ちょっとカミソリをあてないと熊襲のようなヒゲ面になったが、見かけ
に似ず細かい神経の持ち主で、油絵が達者だった。ぼくとは気の合う仲間
になったが、2人揃うとちょっとうるさいので教授にはホネといわれた。
 
  美野とは卒業後会う機会がなく、数年を経ずして他界したと聞いた時は
あまりの早さに、あの二人で命がけで突っ走った火事場が最後だったかと
ことさら運命の儚さをおもった。

     

「下 宿にて」 (1943) 1年。セルフタイマーでの撮影。この下宿 は藍倉のならぶ川に面したところにあった。

「道場前にて」 (1944) 2年。友人が撮ってくれた。もっとも根性が 鍛えられたころ。試合前で少しやせている。

                       

                     

再び <初心忘るべからず>

      
 今回の講座は、上記をサブ・タイトルとした閑話休題といった話だが、そのキーポイン
トは高貴なコドモの魂を大切にしてもらいたいということである。ところが、この講座を
最近見始めたばかりの方には、ちょっとわかりづらいところがあるらしく、巻末に簡略な
解説を加えておきたい。
    
 ぼくは1986年から「フォトディレクター概論」という講義を展開してきたが、その
ベースとなるものは、世界的な大脳生理学の権威、故時実利彦博士の本がきっかけになっ
た。創造には深い思考と思い切った行動が必要であり、創作への道は「偶然と必然とのあ
ざない」ともいわれる。そんな基礎的な話はPart13「創作へのヒラメキ」にあるので、再
読・参照されたい。
    
 創造力についての解説はたくさんあるが、一般に難しくてわかりにくい。そんな中で、
同い年という親しみもあってとりあげた司馬遼太郎の「高貴なコドモ」という表現は、率
直なフィーリングで中学生にもわかりやすい解説だと思う。ぼくはその概要をなるべく短
い文章で伝えるため多少の意訳を交えながら、以下要点のみ引用し紹介することにした。
    
    
 人は終生、その精神のなかにコドモを持ちつづけている。ただし、よほど大切に育てな
いと、年配になって消えてしまう。天才的な学者が20代で並みはずれた仮説をたてる能
力もその人のコドモの部分である。小学生は空や雲を見るだけで宇宙や神の国を感じてし
まう。彼はその瞬間、科学者になり、詩人になる。
 しかし、人間というものは成長によって失う部分も大きい。コドモの部分が中学生でも
う減りはじめ、すでに干物のようになっている人もいる。オトナの条件である経験がない
から、変に世の中をシニカルに見たりする。あまりいただけない現象である。
    
 正義もまた小学生の特権である。この正義という高貴なコドモの部分は成人すると、複
雑な現実や利害に取り囲まれ、出場所を失いやすいが、干上がってしまってはどうにもな
らない。近頃の卑近な例では、耐震強度偽装のビルを建てた人々など、自分さえよければ
お構いなしのオトナたちである。正義がわずかでもあれば人間の生命を奪う恐れのあるビ
ルなど建てられるわけがない。
    
 ここでいうコドモは、成人仲間での擬似コドモではない。オトナとしての義務や節度か
ら逃避したいだけの、他人に甘えっぱなしの成人は落後者である。
    
 ついでながら家庭や学校で、子供にわざわざ「子供っぽさ」を教育することはない。責
任は回避すべからず、擬態でごまかすべからず、真のコドモをつくるべくしつけるのが、
精神のなかのコドモを充実させることである。
     
    
 ここまで書くともう充分おわかりだと思うが、アーチストはじめ創造にかかわる人々は
生涯コドモとしての部分がその作品をつくる。その部分の瑞々しい水分が蒸発せぬよう心
がけねばならない。万人にとって感動のある人生を送るためには、自分のなかのコドモを
蒸発させてはならない。
 また、たとえ知識は習得しても、そのままでは単なる物知りに過ぎない。それらを自分
の中のコドモの部分が受け止め昇華して身についた知恵にしなければ教養とはいえない。
それなくしては、アートも音楽も心に響く鑑賞はかなわないのではなかろうか。
    
 これらは、左脳と右脳の役割にも関係がある。法律や経理の分野は左脳だが想像力、創
造力は右脳である。素朴な子供から青少年にいたるまで、自然界から感応し受けとったも
のは、理屈はわからなくともその純粋無垢な右脳に残るものだといわれる。
 創作時にはそれらが胎動し、その表現動機が邪心も見栄もなく純粋であるほど、それに
集中でき、密度が高くなるものだ。創作のテクニックは修練によるが、精神は高貴なコド
モでの創造でなければ、人は不純を感じ感動しない。
    
 身近な例として、ぼくの中のコドモを育ててくれた<ふるさと>での率直な体験を引き
合いに出したが、諸兄のその昔の百人百様の純粋で貴重な体験、コドモの部分を何時まで
も枯らすことなく大切にした創作は、また個性ある表現になるにちがいない。
 今回の講座は、そんな初心を忘れないでもらいたいといったことと、たとえどんな理由
があろうとも戦争は罪悪だというのが、ぼくが伝えたかったテーマであった。