< 初心忘るべからず >
ぼくは、近頃よく思うことがある。
ぼくがあきもせず創作らしきものにエネルギーを費やしてきたことは疑いもない。でも
それらが歳をとるにつれていくらかは変身しリファインされた個性を獲得して生まれてき
たものであろうなどとは、どうひいき目にみても思えない。たしかに技術的な要領はよく
なったかかも知れないがそれ以上のものは見当たらない。
それらは、ぼくの少年時代から20歳前後までの主として田舎での自然に接した生活そ
のものや夢見たものが、何かのきっかけでいくらか形を変えて噴出してきただけのもの、
よくも延々とやってきたものだと思う。それが率直に出たのがぼくの個性であり、それが
なければ小手先だけの写真になってしまうだろうなどと手前勝手なことを考える。講座で
口癖のように自分の全身全霊で写真を撮るようにと薦めるのは、そんなところにぼくの原
点を感じるからであろう。
24歳で田舎を出てからのぼくは都会ばかりに住むことになったが、年をとってからの
都会生活からの体験は人工的なものが多く、田舎での子供時代に体験した自然のものとは
スケールの大きさが全く違うのだ。
勿論、写真の世界に入って専門書や諸先輩から学んだものはこの世界での実戦に役立つ
ものだが、それらは論理的でどこか借り着のようなものがつきまとい、司馬遼太郎がいう
創作における高貴なコドモの魂のようなものではない。ぼくがここで話題にするものとは
異質のものである。
ぼくは少年時代に宇宙を感じ、<ふるさと>の自然に遊び、鍛えられ、学んだ思いが大
きい。想像力と創造力は、その豊かなコドモの部分で、オトナの部分の働きではない。
今回のテーマは、そんな<初心忘るべからず>ということである。
東京で長年住んできた南麻布は、自分が初めて建てた仕事場としての感慨はあるがそれ
以上のものはない。ところが、青少年時代を過ごしたあの不便な田舎には、あちこちにま
だコドモの魂を育てられた数箇所の「ふるさと」があると今なお感じている。
ぼくは、仕事柄多くの人を撮るうちに、生まれたばかりのまるっきり無垢の赤ん坊から
青年への入り口までのプロセスの在り方が、その人の決定的な感性を育てる大切な時期だ
と歳を重ねてますますはっきり考えるようになったので、今回はそんな「身辺雑記」とい
った話をすることにした。
それは、もちろんぼくの乏しい体験を承知の上で、丹平写真倶楽部へ入会して写真での
変身をする以前の、ぼくにとってのこれしかない赤裸々な<わが故郷>の体験記である。
以下、資料として挙げた4点のモノクロ作品は、すべて中学時代に撮った写真である。
ぼくは若いころの写真の大半を、戦災のために失ってしまい、この原稿を書きながらも
非常に残念に思ったが、諸兄がもし写真で自分史を考えるときなど、「どんな写真を必要
とするか、どんな姿勢で撮っておくべきか」、そんな基本的なことが、ぼくの歯抜けのよ
うな記録を見ながら、多少は他山の石として参考になるのではと思った。
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