part.47          

     
    
     
( 玉井書 )

< 初心忘るべからず >

     
 ぼくは、近頃よく思うことがある。
 ぼくがあきもせず創作らしきものにエネルギーを費やしてきたことは疑いもない。でも
それらが歳をとるにつれていくらかは変身しリファインされた個性を獲得して生まれてき
たものであろうなどとは、どうひいき目にみても思えない。たしかに技術的な要領はよく
なったかかも知れないがそれ以上のものは見当たらない。
    
 それらは、ぼくの少年時代から20歳前後までの主として田舎での自然に接した生活そ
のものや夢見たものが、何かのきっかけでいくらか形を変えて噴出してきただけのもの、
よくも延々とやってきたものだと思う。それが率直に出たのがぼくの個性であり、それが
なければ小手先だけの写真になってしまうだろうなどと手前勝手なことを考える。講座で
口癖のように自分の全身全霊で写真を撮るようにと薦めるのは、そんなところにぼくの原
点を感じるからであろう。
     
    
 24歳で田舎を出てからのぼくは都会ばかりに住むことになったが、年をとってからの
都会生活からの体験は人工的なものが多く、田舎での子供時代に体験した自然のものとは
スケールの大きさが全く違うのだ。
      
 勿論、写真の世界に入って専門書や諸先輩から学んだものはこの世界での実戦に役立つ
ものだが、それらは論理的でどこか借り着のようなものがつきまとい、司馬遼太郎がいう
創作における高貴なコドモの魂のようなものではない。ぼくがここで話題にするものとは
異質のものである。
 ぼくは少年時代に宇宙を感じ、<ふるさと>の自然に遊び、鍛えられ、学んだ思いが大
きい。想像力と創造力は、その豊かなコドモの部分で、オトナの部分の働きではない。
 今回のテーマは、そんな<初心忘るべからず>ということである。
    
 東京で長年住んできた南麻布は、自分が初めて建てた仕事場としての感慨はあるがそれ
以上のものはない。ところが、青少年時代を過ごしたあの不便な田舎には、あちこちにま
だコドモの魂を育てられた数箇所の「ふるさと」があると今なお感じている。
    
    
  ぼくは、仕事柄多くの人を撮るうちに、生まれたばかりのまるっきり無垢の赤ん坊から
青年への入り口までのプロセスの在り方が、その人の決定的な感性を育てる大切な時期だ
と歳を重ねてますますはっきり考えるようになったので、今回はそんな「身辺雑記」とい
った話をすることにした。
  それは、もちろんぼくの乏しい体験を承知の上で、丹平写真倶楽部へ入会して写真での
変身をする以前の、ぼくにとってのこれしかない赤裸々な<わが故郷>の体験記である。
    
    
  以下、資料として挙げた4点のモノクロ作品は、すべて中学時代に撮った写真である。
     
  ぼくは若いころの写真の大半を、戦災のために失ってしまい、この原稿を書きながらも
非常に残念に思ったが、諸兄がもし写真で自分史を考えるときなど、「どんな写真を必要
とするか、どんな姿勢で撮っておくべきか」、そんな基本的なことが、ぼくの歯抜けのよ
うな記録を見ながら、多少は他山の石として参考になるのではと思った。

          石鎚山       (1940)

              

「 石鎚山 」

    
 ぼくの生誕地は愛媛県周桑郡小松町(現西条市小松町)。地図で見るとコウモリが羽を
ひろげたような四国の瀬戸内海に面した真ん中あたりにある。何の変哲もない小さな田舎
町だが、伊予小松という駅は四国山脈の霊峰と呼ばれる石槌山の登山口といわれてきた。
    
  石槌山(いしづちさん)は標高1981mに過ぎないが、瀬戸内に接して平地からいき
なりそそり立っているためにちょっとした高山気分が味わえるとか、高い山の少ない関西
では一番人気があると聞いたことがある。
     
  ぼくにとっての石槌山は、南を向けばいつでもそこに鎮座し、四季折々に変化するちょ
っと厳しい表情をした山。その頂上には2度しか登ったことがなかったが、四国一の高い
ところから眺めたわが町と瀬戸内海の風景は、印象深く記憶に残っている。つまりそこに
登っていろいろな意味での自分の位置を知ったことである。
    
    
  はじめての登山は小学4年の時、父の自転車の後ろに乗せられて加茂川の上流近くの渓
谷まで行き、そこからはつづら折の急坂を一気に登り、最後は3つの鎖伝いで頂上にたど
り着いた。4年生まで待たされたのはこの鎖場で足が地に届かぬところがあるからだ。
  2回目は中学4年で山岳部に入り、石槌、瓶ケ森、笹ケ峰、赤石と四国の背骨といわれ
る高山を3日かけての縦走に参加した時で、この写真はそのときに撮った「瓶ケ森から見
た石槌山」である。
    
  この体験は実に貴重なもので、登山前の小学低学年のころは前山の大きさから石槌は小
さく見え遠い遥かな山だったが、登山後は急に身近な岩壁の力強い山を感じ、中学での縦
走後は山の高さはこれに匹敵する高さから見なければその偉容はわからぬといった当然の
常識を体感したことであった。このことは後にすべての事に通じることへの認識の基礎に
なった。
    
  そんな贈物をくれた石槌山の写真の中で、ぼくが一番好きな写真はこれである。
  いわゆる山岳写真風ではなく、霞を透したこんな素朴な表情に惹かれるのは、以上のよ
うな体験があるからだろう。
(この原画は小さな名刺判の印画で、それからの複写のため画質が悪いがいたし方ない)

       

         

    冬 畑  (1941)

             

      冬 田  (1941)

                         

            

「 冬畑 」「 冬田 」

     
 四国も瀬戸内海側は、風光明媚、気候温暖といわれ、おだやかな風物ばかりに目がゆく
ように思われがちだが、少年時代からそこに住むと冬の厳しい<石槌颪(おろし)>、夏
には蒸し暑くてやりきれない<瀬戸の夕凪>など、微妙な変化を敏感に体験するからか、
こんな風景に共感するようにもなるらしい。
     
  ぼくの中学時代の写真には、いわゆる美しい花鳥風月はほとんどなく、この2点などか
なり出来すぎた、大人びた渋い写真である。そんなことから、もう一度あの時代の日常生
活をふりかえってその原因を考えて見ることにした。
    
    
  ぼくが中学に入った当時の住居は、父が小学校長としての赴任先の関係から周桑平野も
西端の徳田村徳能という山村近くにあり、そこから西條中学への通学距離はクラスのなか
でも一番遠かった。普通ならコースとしては回り道になるが、川沿いに海へ向かって自転
車で3kmを走り、壬生川駅から汽車通学というのが一般だった。
   
 それをぼくは自転車で学校へ真っ直ぐ一直線の片道4里、往復8里、つまり32kmの
自転車通学を躊躇なく選んだ。大柄な体格と頑固な性格からか、一般常識では考えられな
いこうした日常の始まりが、まず第1に挙げられよう。
    
 入学当初は、こんな距離を走ったことがなく、尻が真っ赤になり辛かったが、慣れてく
るとこの距離は大して苦痛に感じることもなくなった。やがて途中でクラスメートと一緒
になり、走りながら片手で道路の小石を拾って投げ合ういたずらも覚え、気楽な通学気分
を満喫することもあった。
 しかし、長距離を風雨の強い日に雨合羽を着て自転車を漕ぐ気分は最低で、つくづく嫌
になったものだ。でも風速40メートルを越える台風に吹き飛ばされ、川に落ちたりしな
がらも、皆勤賞をいただくほど丈夫で頑固なぼくになった。ぼくはいまだに朝起きると一
番に空模様を見るが、これは中学時代の習慣の延長であろう。
    
 ぼくは、こんな写真そのままの田園を3年間、自転車で走りつづけたことから、自然の
四季折々の環境変化の微妙さを全身で感じとることを身につけることにもなった。
 ぼくの<ふるさと>の写真には、それに加えて少年期の楽しかった日々の感触も加味さ
れているのではなかろうか。
   
     
 「冬畑」は、石槌颪が止んだ日。遠い山に残雪が残る早春といってもよい晴れやかな日
である。放射状の畝に対する微妙なカメラ・ポジションが成否を決定する例であろう。
 でも中学生のぼくがこんな風景に心動かされたのは、その昔、畑の隅にある小さな潅木
に、ホオジロを捕るための仕掛けを作ったころの日々がイメージされたからであろう。
 写真はそれを体裁よく見せるだけのことかも知れない。
    
 「冬田」には、さらに幼いころの泥んこ遊びや、鈍い鉛色の雲行きの輝きには、父の自
転車の後に乗せられた日の冷たさも想い出として浮かんでくる。
 中学時代の風景にはほとんど晴天の風景がなく、これらに近い写真ばかりが撮られてい
るのは、あの通学の影響もあって、甘ったるい風景には心に響くものがなかったのであろ
う。
 他の冬田の写真にも共通するのは、稲の切り株の間に光る水や氷があり、雲行きに晴天
は見られず、冷たく厳しいものばかりであった。
     
 ぼくはプロになり、この30数年後の同じような季節に、この地に惹かれて立ち寄った
が、この風景は全く変わっていなかった。その日いくらかスケッチをして帰ったが、それ
らはこれらとは似て非なるもので、これらの「冬田」には及ばなかった。
 その原因は、詳細はもうおぼろげだが、中学2年に写真を始めこの写真が中学5年の撮
影で、この4年目で急に集中力が増し、ワン・ステップ上昇したと思われる。何の指導者
もなく、やればできるというサンプルか。田んぼ一筋の執念、若さの迫力かもしれない。
             

                                  

    妹背川  (1940)

                   

            

「 妹背川 (いもせがわ)

   
 ここは、一転のどかな水景である。先ごろ、地元の案内雑誌に<伊予のベニス>と書か
れたという話も聞いたが、それはちょっとオーバーかも知れないが、小学生時代からの貴
重な<ふるさと>である。場所は、中山川が海に入る河口の内川、「西禎瑞」にある。
     
 この内川の中と海岸には、ぼくの思い出がいっぱいつまっている。
 ぼくは、この写真の上の方に見える3本松のあたりにある、地元では大きな農家といわ
れた親戚に、小学1年の夏休みから、毎年お盆前の10日間くらい預けられた。理由は、
教師の父がスパルタ式の考えを持ち、跡継であるぼくの心身を鍛える目的だったという。
    
 否応なしに父に連れてゆかれ、置いてゆかれたが、ぼくは従兄弟にあたるこの家の少し
年上の2人の兄弟の手ほどきで、魚の釣り方、エビやズガニの捕え方、シジミ、はまぐり
の掘り方から、舟をあやつる竿や櫓の漕ぎ方まで教わった。
               
 また、この兄弟は非常に器用で、ぼくが里心を起こしてしょんぼりしている時などには
カマボコ板で帆かけ船をつくつてくれたり、ブリキ板をハサミで切ってスクリューをこし
らえ、ゴム動力で走る船まで作って慰めてくれたことが、ぼくの物づくりへのきっかけに
なった思い出もある。
    
   
 2年目になると、とにかく、自分でも魚貝を沢山とってきて、それが家族みんなで食べ
られたり、大人でも扱いにくい箱舟を竿1本で自分の思う方へ動かせたといったことが、
内心ちょっと得意な気分が味わえ、なんとなく自信がつくような毎日で楽しかった。
 小学3年ころには何でも一応自分でできるようになった。といってしまえば、肝心なと
ころが抜け落ちるので、後少し説明を加えておきたい。
    
 このあたりの海岸線は、高い堤防に囲まれているために、支流を流れるたまり水は潮の
引く時に樋門を開閉して海に流す。(この写真の左側には高い堤防と樋門がある)  
 そんな内川の水の流れは緩やかで、干潮時の深さは膝小僧まで下がり、川底はどこまで
も平らで沼のように滑らか、小学生にも安全なこれほど恵まれた水辺の遊び場はないだろ
う。おまけに透明な川底には獲物が一杯いるのだ。
    
 そんな捕り方を肌で感じるのは、とても面白い。
 たとえば、川エビなどはテグスでできた小さな網で捕えるが、エビは頭から網で追っか
けると必ず逃げられてしまう。そこで網を尻の方にそっと持って行き、細い棒きれで頭の
方からちょっと触るとほとんど真後へはねるように下がるので、うまく網に入る。
(後には、手づかみで捕えられる事もあったが、あの手ごたえは応えられなかった。)
    
    
 こんな習性はお兄さんが教えてくれるが、現場はさまざま、エビも藻の陰にいたり小石
の間、石垣にとまっていたり、そう簡単にはゆかない。下手をすると周囲にいる獲物まで
逃げてしまう。それぞれ条件に応じた工夫がいるのだ。
    
 フナやコイはよい餌をつければ、半分居眠りしながらでも釣れるが、ウナギは3種類の
捕り方があって子供にはちょっと難しかった。シジミなどは足のつま先の感覚で見つけら
れるようになった。町育ちのぼくは毎日が興味深々、その他の獲物についても捕り方から
道具つくりまで、子供なりの工夫に明け暮れた。
     
    
 こうした生活が味わえ身についたこの海辺が、ぼくの<ふるさと>第1号、小学4年か
らの野うさぎを追っかけ山いもを掘った山村が<ふるさと>第2号であった。
  ぼくはこれらの時期に、自分が遭遇した自然界の動物植物もろもろの物の栄枯盛衰、生
き様を自分の素手で感じとり、こうした遊びながらの体験がさらに好奇心、探究心を深め
成人してからの創作の源泉になったように思う。
    
 ぼくのオヤジさんの教育は間違いではなかった。
  高見の見物では身に付かない。こんな遊びに恵まれない都会の子供は可哀相だ、親御さ
んたちにはぜひ子供たちにこんな体験をさせてあげるよう薦めたいといつも思う。
   
(この原画も更に小さな名刺判の印画で、非常に画質が悪いが、これ1枚しかないので
 いたし方ない)

            

                           

< ふるさとの祭り >

   
 ここまで書いてきて、何か忘れ物をしたように感じはじめ、ふと浮かんだのがこれであ
る。山と田園は変わらないが、町筋は大型店の影響で歯が抜けたように閑散で、知人もほ
とんどいなくなった。そんな中で変わらないもうひとつがこのお祭りだと気がついた。
    
 愛媛県の東予と呼ばれるこのあたりの秋祭りは、四国三大祭りの一つで300年の歴史
があり、豪華絢爛、元禄絵巻さながらというのが市観光課の謳い文句で、全国的にもかな
り知られるようになってきた。
 そんなことから、付録のようだが紹介したくなった。この撮影は1996年ころである。

             

             だんじり  加茂川 河原  (1996)

             

             だんじり  加茂川 土手  (1996)

                    

            

「 だんじり 」

     
 これは西條祭り(10月14〜17日)の屋台。地元では通常だんじりと呼ばれている。
  この時は、伊曾乃神社の神輿が宮入する日で、加茂川の土手上の道路には「だんじり」
40余台がずらりと整列し、土手にはぎっしりの客が腰を降ろして宮入を待つ、嵐の前の静
けさといったひと時である。
     
 下の写真はそのごく限られた一部分のアップだが、都会へ出た人もこの祭りの日だけは
何をおいてもと里帰りした人々もこの場所に集まつて来るので、そんな大集合の記念写真
といってもよかろう。(西條市でのだんじり総数は、130余台)
 フィナーレの神輿の川渡りは、名残を惜しむ「だんじり」たちが、これを阻止しようと
水しぶきを上げての乱舞で、非常な迫力がある。
    
 ぼくの生まれた小松町にも「だんじり」があった。小学1年生でもタイコやカネを打た
せてくれるので祭りが近づくとうきうきしていた。大人のお母さんでも祭りばやしを聞い
たとたんすっ飛んで行くような人がいるが、見るとやるとは大違い。男の子にはぜひそん
な、血沸き肉躍るような体験をさせてやってほしい。そんな純粋なものが大人になって大
きく花開くこともあるのだ。
    
 ぼくは担ぎ手の掛け声を聞きながら打ち鳴らしたバチさばきや間合いは、今すぐにでも
打てるほど、しっかり身にしみておぼえている。
           

                            

     太鼓台  (1997)

            

     飾り幕  (1997)

 

             

            

「 太鼓台 」「 飾り幕 」(1997)

   
 これは新居浜市の「太鼓祭り」(10月16〜18日)のワンカット。揃いのはっぴで気勢をあ
げている。
 その起源は一説に平安あるいは鎌倉時代にさかのぼるともいわれるが、定かではない。
いづれにしても祭礼時に神輿に供奉する山車の一種であろう。
     
 幕末から明治初期までは、小型であったが明治の中期から急に豪華巨大化し、財力と腕
力を象徴する男祭りの異名があり、150人の男衆に差し上げられ、勇壮・華麗さを競い
あったといわれる。
 通常、地元ではお面と呼ばれる3段に分かれた金糸銀糸の飾り幕は、豪華そのもので制
作費は、木彫り装飾のだんじりの1千万に比べて5千〜7千万位かかるとか。
  太鼓祭りは、5地区に分かれ、48台ある。 

           

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