作品<梟>の制作プロセス



            

 

1. 原画

2. 画面構成

3.露出マスク

4. カラー粒子のポジ (クリックで拡大されます)

5. プリントの部分アップ

. 梟のイラストの原画 (クリックで拡大されます)

    

1. 原画
   
  「梟」のイラストを見た瞬間から、これをモデルの髪の中に入れることを
  考えていたので、こんなイメージを成立させる条件として、厚い乳白色の
  アクリル板にモデルを寝かせ、下からのバックを白くするための照明と上
  からのモデル照明3灯がセットされ、真上からの撮影である。髪は分量を
  増やし、髪のフォルムには、相当の時間をかけた撮影になった。
    
  「魚」のモデルも同一である、魚のシンプルな形との組み合わせを意識し
  て、別に広角でハイアングルからのデフォルメを強調した撮影から、この
  一枚を選んだ。
    
    
2. 画面構成
  
  原画に縮小した「梟」の位置を決めた基本形をつくるが、よく見ると女の
  顔の傾斜を変え、肘の先端から下をカットしたトリミングがされ、肘から
  右の曖昧なボデーの一部を消去していることがわかるだろう。これらは全
  体の仕上がり効果を想定しての毎度の構成作業である。
  
     
3. 露光マスク
   
  この場合は非常にシンプルなため、2を反転しただけの一枚だけである。
  条件によっては、濃淡さまざまの数枚のマスクを必要とすることがある。
    
   
4. カラー粒子のポジ
   
  BGRを基本とする色光源その他の加色混合で照明したカラー粒子もどき
  のポジフィルムである。これはバリエーションの一枚で今回に使用した物
  ではない。
  (拡大カラーポジの原画の粒子はここで見るよりずっとシャープである)
   
    
5.プリントの部分アップ
   
  このパソコン上では相当ピントが悪く見える。実際の全紙のカラープリン
  トの方がはるかに粒子がシャープできれいである。
  
       
6. 梟のイラストの原画
   
  横山君のイラストは、アメリカ留学で鍛えた筋金入りでスーパーリアリズ
  ムといわれる画家のようで、この梟の場合も写真とはまた異なる迫力とリ
  アリティが魅力であり、ぼくの創作意欲をかきたてるのだ。そんな仕事が
  彼との長い共同制作が続いた根底になっているのだろう。

< 粒子表現の限界について > 
 心配性のぼくは、もう一言つけ加えておきたくなった。
 ぼくは表面の解説で、硬調でボケ、ブレ、アレを含むコンポラ風の技法にとら
われない必然性のある写真は認めるといったが、これはキャパの<ノルマンディ
上陸>のような写真のことである。ぼくはキャパの写真集を持っているが、その
中でブレている写真は、「ある共和国兵士の死」とこの写真くらいである。
 彼は生涯をかけて戦争を克明に記録しているが、この2点はその厳しい条件に
よる必然性からこうなっただけである。
    
 ぼくは、かってメキシコの壁画のような壁写真を、陶板で造って見たいという
夢を持ったことがある。こうなるとそのネガが持つ粒状性がどこまでの拡大に耐
えるか、つまり確かな粒子とは何か、その拡大できる限界はどこまでなのか、と
いうことが氣になりはじめた。それからは−−− 
    
   
 こんな話は長くなってしまうので省略するが、現実に立ち返ってHP上での随筆
風の軽いスケッチ程度の写真ならコンポラ風でも何でもよかろうが、何れ写真を
やるなら、せめて全紙、全倍程度の引き伸ばしに耐えるくらいのしっかりした粒
状性を持った 作品を目指してもらいたいと思う。          
 地方のアマチュアの方でもJPS展や二科会展に応募する人も多く、立派な全
紙の出品作をぼくはたくさん見てきた。(たとえ全紙に伸ばさなくても、それだ
けの要素がある作品は見ごたえがある)
    
 ところで、こんな基本的な問題が写真学校での講義でもなかなか伝わらず、閉
口することがあったが、以下のようなたとえ話で、比較的理解が早かったという
体験をした。それはスポ−ツでのことだが、ちょっと殺風景な話なので、裏話で
の話しにした。
      
 ぼくは学生時代、相当柔道に凝ったが、送り襟絞めなどで相手の首をしめて落
とす時、動脈を的確にしめると相手は瞬時にストンと落ちるが、呼吸を通す気道
をしめると相手は苦しみ、かなり時間はかかるがやはり落ちる。
 また、腕ひしぎ(逆手をとる)も厳しいもので、要領がわるいと簡単に技がは
ずされたり、本当に腕を折ってしまったりすることになる。いずれにしても戦場
でない限り、まちがっても相手を殺したり、傷つけたりしては大変で、師範代の
ぼくは蘇生術をはじめ、そんなリミットも研究せざるをえなかった。
     
 こうしたきわどい技の習得は、そのキーポイントとその限界を体で覚えること
になるので、なかなかむつかしい。これは、写真を生かすか殺すかにも通じ、写
真における粒子の変化とその限界を知るには、絶え間ない実験や現場からの習得
が基礎になるので、そっくり当てはまる。
 ぼくは、柔道での動脈と気道との微妙な違いのようなことを、写真の粒子での
コントロールと限界を身につけるために、相当の年月を費やしたように思う。
    
 やや殺風景なたとえ話になったが、この問題に関してぼくが体験した具体的な
結論をなるべく単純にのべておきたい。ぼくは、コンポラ風の表現のすべてを否
定しているわけではない。
   
  つまり、写真の物理・化学を全く知らないで、いきなりボケ、ブレ、アレ写真
をやっても意味もなく成功もしないということ。原理・原則を知悉してやるなら
きわどい表現を余儀なくされた場合、たとえ同じボケ、ブレ、アレ的表現をして
も、その成功の確率は比較にならぬほど高く、もっとメリハリのついたすばらし
い写真になる。
     
  創作には、常識はずれ、或いは意図的なキビシイ、アブナイ写真表現にトライ
したいときもよくある。そんなとき、そんな写真を生かすも殺すも、時には失敗
作を蘇生させることも写真の基礎を充分知り、土台ができていれば、勇敢に立ち
向かえ、自分なりの創作ができるということである。
    
  ぼくは特殊表現技法の道を飽きもせず進んだが、自分の写真哲学を推し進める
ために、途方もなく無理と思える技法へトライすることも多かったが、柔道での
きわどい生殺蘇生との共通点を感じ、これを執念深く追求して切り抜け、蘇生し
たことがままあった。