part.46                   
< ストレートなモンタージュ > 
  
    
  ぼくは、時折、広告写真から逃れたいとおもうことがあった。
 ぼくの仕事仲間で、広告のアートディレクターといわれる連中の創造哲学に
よれば、広告表現の創作基盤とは、消費者への『説得過剰』そのものにあると
いう。
 ぼくの生業としての広告写真の制作はその一端をにない、こうした仕事仲間
とクライアントの意向に従い、経営的にもそれに徹底するのは、当然の義務で
ある。
    
  ところが、本来アートとしての創作写真志向が強いぼくは、広告写真におい
ても出来得ればアートとしても見ごたえのあるものをといった意識がいつも底
辺にあった。
  そんなことから、ぼくでなくても誰にでもできる広告写真の仕事ばかりがつ
づくと、つい逃げ出したくなるといったことである。
  そんな生活は、今日は広告屋、明日はアーチストといったカメレオンのよう
な気分を味わうこともあった。                   
    
 今回紹介する作品は、まとまった仕事が一段落して、やっと開放されたとき
のもので、スポンサーがついての制作ではない。こんなときの写真は、日頃の
凝りに凝るといったものとは正反対の簡明直裁なものになる。
    
  とにかくそんなある日、スタジオへやってきたイラストレーターの横山君と
雑談しているうちに、ぼくはこれという当てもなく、なんとなく「梟」と「魚」
のイラストを頼んだ。これは小学生時代に鎮守の森でフクロウを捕まえ、学校
の帰りにはサカナを追っかけたりしていたからであろう。
    
  イラストが上がってきた時これを眺めながら、これまたなんとなく女のヌー
ドとの組み合わせがしたくなり、その当時、大橋巨泉がやっていたテレビのイ
レブンPMという番組のカバーガールとして人気があった「麻生れい子」をモ
デルにして、頭の片隅でイラストがちらつきながらの撮影となった。
    
 これらの写真技法は、モンタージュとポスタリゼーションによるものだが、
率直に言ってしまえば、小学生の貼り絵のようで何のケレン味もない。何の解
説もいらない作品。そこが見所だといいたいところだが、諸兄には全く自由勝
手にご覧いただきたい。
    
◎これらのプロセスの解説は、裏話にあります。クリックしてご覧下さい。

           「 梟 」       1970

           「 魚 」       1970

       

         
 この2点の作品は個展に出品したが意外と評判がよく、口の悪い友人も「女
の頭の中にフクロウが巣くうというのも悪くない。女の脇の下をサカナが泳い
でいるなんてのは、中々イキなものだ。」などと、勝手なことを言っていた。
    
 殊に「梟」は、遠目には少し色味のあるモノクロ写真のように見えるが、近
寄るとシャドーに細かいカラー粒子が埋め込まれたような印象があり、イメー
ジも増幅されるからか、見る距離で一味違った表現に変化する作品として広告
写真家には注目された。
     
 この「梟」は、個展のオープニング早々、装飾関係のディレクターから室内
装飾用に購入したいといってきた。丁度、赤坂のトップクラスのナイトクラブ
の改装中で、入り口近くのやや薄暗いフロアーに、BIの大サイズの額入りで
展示したいという。
      
 ぼくはそのオープニングパーティには行けなかったが、彼からの電話で、こ
のアイディアは大成功だったといい、タキシードとイヴニングの男女が、控え
めなスポットで照明された写真額の前で立ち止まって眺めたり、挨拶をかわし
ながらアベックが行き交う情景にぴったりマッチして、雰囲気を盛り上げてい
たなどと克明に伝えてきた。
    
 ぼくはそんなシーンを頭に浮かべながら、あのちょっとだけセミヌードの女
だけなら何んということもないが、梟が真正面から見つめている取り合わせが、
こんな場所にはピッタリだったということはなんとなく理解できた。
           

       
            

< 粒子による表現思考 >
    
 この辺で、今回の作品に関連する粒子について、いささか触れておきたい。
純粋な無粒子印画は、フォトグラムであるが、レンズを通した画像のプリン
トは、銀粒子の影である。
    
 モノクロームの写真乳剤は、「感光性をもった銀塩がゼラチン中に分散され
たもので、この銀塩の化学的組成、銀塩を形成している方法および特殊な試薬
の添加などによって、感光材料の感度、グレードおよび画像の色調などの写真
的な特性が決められている」というのは、基本的な常識だがそれが考え方、使
い方によっては千変万化するという歴史も一応知っておいたほうがよかろう。
    
 写真感料の粒状性の良否は、シャープネス、グラデーションによる質感描写
その他に直接関係するが、多岐にわたる写真表現への解釈・主張までに及ぶと
とても書ききれないので、今回はまず簡単な推移のみを述べておきたい。
    
   
    
 大正から昭和の初期にかけての日本の新興写真時代は、新しい写真という手
法が絵画に比して芸術として成立するかどうかが話題になった。そんな劣等感
を持ったこの時期には、写真は精密に写りすぎるとして、わざわざピントを甘
く見せるゴム、ブロムオイルといった印画法もあった。

「 クレインノヒビキ 」 安井仲治  1923     

丹平写真倶楽部の大先達で前衛写真家の安井さんもまだ20歳。
80年前にはこんな絵のようなブロムオイル印画を発表してい
た。これは変わったタイトルである。普通の港の風景だが積み
荷を上げ下ろしするクレーンの音が響いていたのであろうか。

< 35ミリカメラの誕生 >
  
 それが1925年、映画用の35ミリフィルムが使える小型カメラ、歴史的
なライカの発売をキッカケに、速写性、精密描写、グラデーションという写真
本来の三大特性を自由に発揮することが出来るようになった。
    
 しかし、最終印画のサイズが全紙大、印刷でもB全ポスターなど大伸ばしの
要求が増加しはじめたので、35ミリフィルムが高感度のものほど粒状性が悪
くなるところを、なんとかきれいな粒子に仕上げたいといった現像の超微粒子
処方に腐心する時代が続いた。
    
    
 ところが、1956年。まだ若いアメリカの写真家ウィリアム・クラインが
<ニューヨーク>という写真集を発表したことから様相は一変した。
                                   
 彼はニューヨークの市民生活のある種のリアリティを表現する目に、出色の
ものがあった。クラインは何をどのように写すかという命題すら捨て去り、手
ぶらの状態で現実に分け入ったようにさえ見える。
   
 そんな彼の写真は、これまた写真表現のセオリーを大きく外れ、あるいは意
図的に無視したか、従来タブーとされてきた殊更の硬調、ボケ、ブレ、アレの
何でもありのプリントで、その異常さが大都会の虚像を象徴するような印象を
さらに強めたものであろう。それが型破りの新しい表現と見られ、そんな荒っ
ぽさが、かえって世界の注目を浴びることになった。
   
 しかし、こうした写真の特性を無視した表現技法は、一過性のハシカのよう
なもので、その後クラインの手法を真似た亜流によるニューヨークの写真で成
功したものは見当たらない。クラインは、一人でいいのだ。

  「 ノルマンディ上陸 」 ロバート・キャパ  1944     

これはロバート・キャパの歴史的な名作。
この表現はブレ・アレ写真の元祖といえよう。ぼくはキャパの日本で
撮った写真のコンタクトを見たことがあるが、それらは全くノーマル
で、その表現技法は、「事と次第」によって決まることを確認した。

          
    
   
ウィリアム・クラインの <ニューヨーク>1956 から

ウイリアム・クラインの<ニューヨーク>の代表作といわ
れる作品。粒子は荒れ、ややブレて質感表現には欠けるが
これはフェイクされた大都会の一面を思わせ、その手荒い
手法と相まって異様な迫力がある。

女の子。上下のブレが激し
く目鼻もはっきりしない。

男の子。コントラストが激しく
黒白にニジミがある。
      
                                   

                     
   この写真集の影響は、海を隔てた他国の方が多かったかも知れない。
    
 日本でもコンテンポラリー・フォト(同時代的な写真)といった一派を生
み、クライン的技法の安易な物まねは、モラトリアム人間に近い性格をもっ
た一部の写真学生への伝染も急速で、素朴極まりないある種の居直り的な表
現が流行し、まともに勉強しようという意欲を欠いた学生の氾濫で、教授た
ちがぼやくといった時期もあった。
 とにかく、その影響は私小説的な亜流も含めて今日まで尾を引いていると
いった状況にある。
    
 ぼくはこうした現象の中で、技法にとらわれない必然性のあるものは認め
てきたが、その他の多くは、カメラに失礼なほど技術は全くいらない単なる
フィーリング写真に過ぎず、写真の特性を放棄した薄汚く、安易な写真の続
出で、到底支持できるものではなかった。
    
 コンポラ派の多くが、写真画像の骨格を形成する粒子の存在を軽視し、銀
粒子の確保が写真の拡大プリントに必須の条件であるという特性の活用を自
ら放棄しているのは、写真のシャープさ、質感描写をなくしなければ写真が
撮れないということか。写真特性の凄さを有効に生かすべきだと思うぼくな
どは、彼らはまったく怠惰で何を考えているのだろうと思うだけであった。
 コンポラ・フォトとファイン・アートとの諸問題は、諸説紛々、改めて別
項で取り上げることにする。
    
 粒子は、荒くした粗粒子でも美しく見せる技法もある。
 ボケた粒子は大伸ばしすると綿ぼこりが拡大されたようなもの、薄汚れた
印象になり、到底画面を支えられない。
 ウィリアム・クラインの代表作には、露出アンダーを救うための長時間或
いは高温度現像による一般的な粒子の荒れが見られ、人物の年相応の皮膚感
が失われているが、こうしたネガも特殊技法の粗粒子表現での処理をすれば
全紙ぐらいのプリントではグラデーションの整った粒子による砂目状の独自
の存在感のある画面になる。そこまで責任を持った写真を見たいものだとよ
く思う。
   
     
 ぼくはモノクロの粗粒子による、いわゆる「粒子印画」はたくさん作り、
さらにバリエーションとして粒子のトリプル・ソラリゼーションも試みた。
 しかし、カラーの粒子印画は、色彩が粒子でないために、失敗の繰り返し
でそれに近いところまでゆかず未完となった。
 そんなことから、カラー粒子もどきといった試みが加えられているのが今
回の作品である。
                  

            

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