世の中、何時、何が起こるか分からない。片山君はかなり変わった僥倖運をもっていた。
彼の一家は父上が画家で、兄も芸大卒の画家という環境だったが、彼は人物画が苦手で、
自ら下手を公言していた。確かに絵が好きでデザイナ−になったといった人が多い世界で、
人間のラフ・スケッチもほとんど描かないという人は珍しい。
でも、彼はその反作用から彼独自の幾何学模様というか、抽象表現にユニ−クな道を発見
し、その毅然とした精進から世界に通用するデザイナ−、造形家になった。
芸大はあきらめ、高卒後すぐ始めたデザインの仕事がうどん屋の貼り紙、看板だったとい
う彼が後には日宣美で頭角を表し、日本デザインセンターに勤務して、ニコンのポスタ−な
どを手がけていた。その後選ばれて、1963年スイス・ガイギ−社に招聘され、デザイン
を担当していたが、ヨ−ロッパでは更に密度を上げた Visual Constoraction といったタイ
トルでの個展も続け、非凡な技巧による視覚的実験として注目され、好評を博していた。
そんなある日、ポルシェで通りがかった彼が、俄か雨で雨宿りをしていた外国人を、ちょ
っとした親切心から拾いあげたのが縁で、1966年、アメリカへ渡ることになった。
この人は、ロンシャンのル・コルビジュエの建てた教会を見に行くのが目的だったので、
当然彼のお気に入りの建物のこと、そこまで同行し、話しあううちにこの人がハ−バ−ドの
教授であることが分かり、ついでに自宅まで案内し作品も見せたら、相当の関心を示したと
いう。
それから間もなく、この教授から「作品を送れ、ハ−バ−ド大学へ来てくれ」というレタ
−が来たという。彼はハ−バ−ド大学で、それも彼が尊敬するル・コルビジュエが創った視
覚芸術センタ−で教育とデザインを担当することになったのだ。これも大変な巡り合わせで
ある。そのとき彼は「情けは人の為ならず」といった古めかしいコトワザを、ぼくにもらし
ていた。
彼は、「高卒の僕が、ハ−バ−ド大学の教師に」といったことは、別に珍しいことではな
く、才能を大切にするこの国では特に優遇され、すぐ永住権もくれたと、その翌年帰国した
とき話していた。学歴には関係なく、何ができるかが問われ、世界の叡智を集めようという
アメリカの懐の大きさの例の数々も聞かされた。
(彼があっさりと「別に珍しいことではない」と言ったのは、照れ屋で謙虚な彼の言葉をそ
のまま伝えたものだが、外国における彼の厳しい徹底した努力と、常に仕事の協力者で彼を
支え続けた元コピーライターの妻、渥美さんの事を思えば、そう簡単なことではない。)
これまで学閥にとらわれていた日本の大学が、やっと建築家の安藤忠雄さんを迎えた話の
アメリカ版が、もう随分昔にあったということである。
片山君は、数年前、限られた晩年にできる仕事の配分を考え、講座の一部だけを残して、
定年前に早めにハーバード大学教授の職を引き、その時間をかねてから注力していた環境デ
ザイン、大きな壁画、モニュメント作り、そのかたわら油絵の個展も開くという、アメリカ
と日本を往復しながらの多忙な日々を送っている。見事な生活説計というほかはない。
話をまた、1973年に戻す。
とにかく、ぼくたち二人は身体の大小は違うが、頑固で凝り性が共通する。そういえば、
大男のぼくの親しい友人、知人は、小柄で勝ち気な性格の人がほとんどであった。身長の差
がありすぎると、野次喜多道中みたいで、突つっ張りあってもしようがないということか、
かえって親密になるようだ。そして、どういうわけか大男のぼくのほうが、何時も聞き役に
なってしまう。
そんなわけで、ぼくは彼のアメリカのスケ−ルの大きさを交えた,巧みな説得力に感心し
ていたが、ひとしきり話が終わったところで、ぼくは「パソコン時代に入った今頃、何でぼ
くにアナログの講義をやれなどというのか、時代遅れだろう」と反論すると彼は急に真顔で
「英語のご先祖はラテン語、ギリシャ語だ。ラテン語は古代ロ−マ帝国の共通語で中世西欧
世界の文章語、公用語で、今日では学術語になっている。紀元前5〜6世紀からの古典ギリ
シャ語は、後のヨ−ロッパの文芸・学術に多大の影響を与えた。学問というものは自然界、
人間界のル−ツを探り、未来の予兆を見るもの」といった、今度は正攻法でやって来た。
彼のいう論旨は、文化史好みのぼくが日頃、口にするフランスの象徴詩人ポウル・ヴァレ
リ−の言った「人間は後ろ向きに歩く動物。人間は未来へ向けて歩いているが、その顔は過
去をむいているのであり、後ろ向きに歩く動物なのだ」と、まったく同方向である。
それは、自然木の複雑な木目に見るような、文化史の自然な流れであり、異論はない。
彼は、スイスのチバ・ガイギ−社にいたころ、「玉井君と似たようなことをしている写真
家がスイスにもいるよ」という話から、ぼくはスイスへ行き、当時ヨ−ロッパでは唯一の特
殊技法のルネ・グレブリ−の作品を見せてくれたことがあった。彼はその直後、アメリカへ
渡った。彼の大学への話は、後にルネとぼくの何れかにということであったように思えた。
ぼくはスタジオ新設後間がなく、ロ−ン返済等の事情からこのアメリカ行の話は見送った。
中学時代からのぼくをよく知るクラスメ−トたちには、「お前のような凝り屋は、死なな
きゃ変わらない。ロ−ンなど気にせず、売りはらってアメリカへ行くべきだったのだ。」と
言われた。これは、ある意味では、正鵠な答えだったろう。
片山君の話からさらに10年、ぼくは相変わらず、徹底しなければ止められぬ性格から、
[写真特殊技法]の実験を続けた。
そんなノ−トの残りが、戸棚の奥にあった。このノートの記録は助手君達の仕事。書く
とよく覚える。これも備忘録の一片、写真にしておいた。
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