< プロセス あれこれ >

  

マスキング・プロセス図

 これは、ポスタリゼ−ションのマスキングのプロセスの一例である。         
 こいうしたプロセスは、ぼくたちには日常茶飯事のことなので必要ないが、新入りの弟子
には、間違いが起こりやすいため、古参の弟子が四つ切り程の図面にして、暗室の壁に張っ
てあっものを複写したものである。当時は、こんなものでも企業秘密というか発表されるこ
とはなかった。                                  
    
 多少アナログのポスタリゼ−ションなどをやった人なら説明しなくてもある程度理解でき
るであろう。特殊技法の多様性からいえば実技上は、これらのバリエ−ションの方が多いか
も知れない。                      (Part 36 参照 )

         
           

< 遠くて近い アメリカ >     
  この図面を見ていると、遠い過去が昨日のことのように思えてくる。わずかこれだけのた
めに、紆余曲折、心身をすり減らしたのであろうか。
    
 特殊技法といわれるものがパソコンにとってかわられ、友人からは悲劇の主のようにいわ
れたこともあった。「パソコンが後20年も遅くやってくるような時代なら、君は世界でも
もっと有名人になっていただろう」などという。ぼくは有名人というのは、いつもテレビに
顔を出す人のことで、仕事には関係ないと思っているので、苦笑いをするだけであった。
    
 ぼくは、パソコンなるものに近い映像を、1960年代の初期にはテレビのCFを作る関
係からシネカメラのフィルム現像をする東洋現像所でみていたので、これが将来どんな形で
発展してゆくものか特殊技法でも使って見たいという興味があった。
 しかし、「人間は本来アナログ思考だ」という思いのほうが強かったので、方向転換する
意志はなかった。
    
     
 ぼくの仕事は、「1970年の大阪万博の仕事が終わったところで、終わっていたのかも
知れない」と思うこともあった。そんなころ、1973年、ぼくの友人で当時、ハ−バ−ド
大学の講師をしていた片山君から、「数年間ハ−バ−ドで特殊表現の講師をしながら、更に
研究を深めてはーー」という勧めがあった。
                                    
 片山君というのは、ぼくが彼に頼まれて一緒に大阪と名古屋へ行き、初めて広告写真なる
ものを撮り、それがコマ−シャル・フォトグラファ−となるキッカケとなり、彼はその時の
写真で構成したポスタ−が日宣美展に入賞したという、あの片山利弘君のことである。
    
 ところで、これから話が少し長くなるが、数奇というか彼のような3段飛びの変身をした
デザイナ−も非常に珍しく、彼自身からしゃべることはしないと思うので、これも備忘録と
いうことで、彼の作品を紹介し、この話を続けることにする。

        

              作 品 

   

             Blue Star    片山利弘 1964

 デザイン界の先達、亀倉雄策氏が「彼の理詰めと寸分の隙も見せない構
造とが、完成度の高いスイス時代の造形となって、頑固に一歩も後ろに引
けぬという彼の美意識と哲学がそうさせた」と評されたこの作品を皆さん
は、どう見るであろうか。
    
 彼は、著書の中で「私の仕事机には、筆と絵具はない。あるのは、外科
手術用のメスである。それにシャープな鉛筆と、製図用具ぐらいである。
絵具の代わりに、せいぜい8色近い色紙があるだけである。だから、私の
作品のほとんどはこのスイス生まれの手術用ナイフによって産まれたとい
っても過言ではない。」と言っているがその通りである。
   
 いずれまた、彼の他の作品もお目にかけたいと、ぼくは思っている。

 

 世の中、何時、何が起こるか分からない。片山君はかなり変わった僥倖運をもっていた。
     
 彼の一家は父上が画家で、兄も芸大卒の画家という環境だったが、彼は人物画が苦手で、
自ら下手を公言していた。確かに絵が好きでデザイナ−になったといった人が多い世界で、
人間のラフ・スケッチもほとんど描かないという人は珍しい。
       
 でも、彼はその反作用から彼独自の幾何学模様というか、抽象表現にユニ−クな道を発見
し、その毅然とした精進から世界に通用するデザイナ−、造形家になった。       
 芸大はあきらめ、高卒後すぐ始めたデザインの仕事がうどん屋の貼り紙、看板だったとい
う彼が後には日宣美で頭角を表し、日本デザインセンターに勤務して、ニコンのポスタ−な
どを手がけていた。その後選ばれて、1963年スイス・ガイギ−社に招聘され、デザイン
を担当していたが、ヨ−ロッパでは更に密度を上げた Visual Constoraction といったタイ
トルでの個展も続け、非凡な技巧による視覚的実験として注目され、好評を博していた。 
    
    
 そんなある日、ポルシェで通りがかった彼が、俄か雨で雨宿りをしていた外国人を、ちょ
っとした親切心から拾いあげたのが縁で、1966年、アメリカへ渡ることになった。  
 この人は、ロンシャンのル・コルビジュエの建てた教会を見に行くのが目的だったので、
当然彼のお気に入りの建物のこと、そこまで同行し、話しあううちにこの人がハ−バ−ドの
教授であることが分かり、ついでに自宅まで案内し作品も見せたら、相当の関心を示したと
いう。
   
 それから間もなく、この教授から「作品を送れ、ハ−バ−ド大学へ来てくれ」というレタ
−が来たという。彼はハ−バ−ド大学で、それも彼が尊敬するル・コルビジュエが創った視
覚芸術センタ−で教育とデザインを担当することになったのだ。これも大変な巡り合わせで
ある。そのとき彼は「情けは人の為ならず」といった古めかしいコトワザを、ぼくにもらし
ていた。
    
 彼は、「高卒の僕が、ハ−バ−ド大学の教師に」といったことは、別に珍しいことではな
く、才能を大切にするこの国では特に優遇され、すぐ永住権もくれたと、その翌年帰国した
とき話していた。学歴には関係なく、何ができるかが問われ、世界の叡智を集めようという
アメリカの懐の大きさの例の数々も聞かされた。
(彼があっさりと「別に珍しいことではない」と言ったのは、照れ屋で謙虚な彼の言葉をそ
のまま伝えたものだが、外国における彼の厳しい徹底した努力と、常に仕事の協力者で彼を
支え続けた元コピーライターの妻、渥美さんの事を思えば、そう簡単なことではない。)
    
 これまで学閥にとらわれていた日本の大学が、やっと建築家の安藤忠雄さんを迎えた話の
アメリカ版が、もう随分昔にあったということである。
     
 片山君は、数年前、限られた晩年にできる仕事の配分を考え、講座の一部だけを残して、
定年前に早めにハーバード大学教授の職を引き、その時間をかねてから注力していた環境デ
ザイン、大きな壁画、モニュメント作り、そのかたわら油絵の個展も開くという、アメリカ
と日本を往復しながらの多忙な日々を送っている。見事な生活説計というほかはない。
      
    
 話をまた、1973年に戻す。
    
 とにかく、ぼくたち二人は身体の大小は違うが、頑固で凝り性が共通する。そういえば、
大男のぼくの親しい友人、知人は、小柄で勝ち気な性格の人がほとんどであった。身長の差
がありすぎると、野次喜多道中みたいで、突つっ張りあってもしようがないということか、
かえって親密になるようだ。そして、どういうわけか大男のぼくのほうが、何時も聞き役に
なってしまう。
     
 そんなわけで、ぼくは彼のアメリカのスケ−ルの大きさを交えた,巧みな説得力に感心し
ていたが、ひとしきり話が終わったところで、ぼくは「パソコン時代に入った今頃、何でぼ
くにアナログの講義をやれなどというのか、時代遅れだろう」と反論すると彼は急に真顔で
「英語のご先祖はラテン語、ギリシャ語だ。ラテン語は古代ロ−マ帝国の共通語で中世西欧
世界の文章語、公用語で、今日では学術語になっている。紀元前5〜6世紀からの古典ギリ
シャ語は、後のヨ−ロッパの文芸・学術に多大の影響を与えた。学問というものは自然界、
人間界のル−ツを探り、未来の予兆を見るもの」といった、今度は正攻法でやって来た。
    
  彼のいう論旨は、文化史好みのぼくが日頃、口にするフランスの象徴詩人ポウル・ヴァレ
リ−の言った「人間は後ろ向きに歩く動物。人間は未来へ向けて歩いているが、その顔は過
去をむいているのであり、後ろ向きに歩く動物なのだ」と、まったく同方向である。
 それは、自然木の複雑な木目に見るような、文化史の自然な流れであり、異論はない。
   
 彼は、スイスのチバ・ガイギ−社にいたころ、「玉井君と似たようなことをしている写真
家がスイスにもいるよ」という話から、ぼくはスイスへ行き、当時ヨ−ロッパでは唯一の特
殊技法のルネ・グレブリ−の作品を見せてくれたことがあった。彼はその直後、アメリカへ
渡った。彼の大学への話は、後にルネとぼくの何れかにということであったように思えた。
    
ぼくはスタジオ新設後間がなく、ロ−ン返済等の事情からこのアメリカ行の話は見送った。
     
 中学時代からのぼくをよく知るクラスメ−トたちには、「お前のような凝り屋は、死なな
きゃ変わらない。ロ−ンなど気にせず、売りはらってアメリカへ行くべきだったのだ。」と
言われた。これは、ある意味では、正鵠な答えだったろう。
     
 片山君の話からさらに10年、ぼくは相変わらず、徹底しなければ止められぬ性格から、
[写真特殊技法]の実験を続けた。
  そんなノ−トの残りが、戸棚の奥にあった。このノートの記録は助手君達の仕事。書く
 とよく覚える。これも備忘録の一片、写真にしておいた。

データ・ノート    
 後ろにある大学ノ−トは、暗室の中で記入することも多いので、薬
品や手垢で汚れ、もうボロボロである。全部が残っていれば、この2
倍はあったろう。
 それらを時折整理したのが、手前のファイルになる。マスキングに
よる露光部分は、マスクの組み合わせとカラ−・チャ−トによる露光
デ−タ−など数字ばかりが何ぺ−ジも続く。撮影部分は、正確な図解
とポラロイドがついている。
           

玉 井 (新宿にて) 1960年代

 1960年代、40歳代のぼくは、友人たちに誘われて、アング
ラの連中も時折見かける、少しむさ苦しいこんな飲み屋で、ずいぶ
ん勝手なことをわめいていた。静かになったと思ったらもう寝てた
といわれ、酒くせは良い方だつた。これは、ぼくの酔っぱらった時
の唯一の記念写真。
 向かって左のライカを手にしているのが、丹平写真倶楽部時代の
兄貴格の堀内初太郎氏、真中がぼく、右は写真誌フォトア−トの当
時の社長永井嘉一氏である。