撮影がはじまると
ダイヤもガラス玉に?

  ダイヤモンドには、ある一定の方向に割れやすい劈開(へきかい)という特性があるため
に、衝撃を与えると欠ける恐れがあり、セツティングは相当の時間がかかり細心の注意が必
要だが、撮影に入るとダイヤも、ただ複雑な光りを放つ透明な被写体といった認識に変わつ
てゆく。そうなると何百万、何千万円のダイヤもガラス玉に近いものに見えてくる。   
             
  ダイヤは、カットにもよるが写真的に見ると、三角・四角・変形四角・八角・台形・クサ
ビ形などの光る鏡の氾濫のようである。これらを整理統一、コントロ−ルして優雅に、ダイ
ナミックにあるいは神秘的にも、またその目的に応じて静寂にも華麗にも表現する。このと
き写真家はオ−ケストラのコンダクタ−のようなものだが、演奏者の中にはこちらの意志に
なかなかそわず、苦心することもあるというのが実感である。             
 
 ピントグラスをル−ペで覗きながら、まずダイヤのテ−ブル面に微妙なグラデ−ションを
現わし、濃淡さまざまな光のフォルムをきびしく選別しながら構成するために、アシスタン
トにライトの強弱、アングルの変化など、つぎつぎと細かな指示を飛ばしぱなしというのが
現場である。 
 
 そんな撮影が長々とつづくと目も疲れる。コ−ヒ−を飲みながら、チョット気がかりでカ
メラの横から覗いたときなどは、あらためてその美しい輝きを凄いナと感心したり高額な商
品を意識する。ピントグラス上のル−ペと肉眼とでは、ずいぶん変わるものである。  
       
  神経の疲れる仕事のように思えるが気分は悪くない。撮影がスム−ズに運びはじめる 
 とダイヤの無言の光りと輝きは、私の意識を夢幻能を観るような世界に誘う。そんな時 
 私はとても素直になつているように思う。ダイヤにはそんなところがある。      
 
    
    全くの余談になるが、ダイヤに惚れ込んで買いたいと思ったことは殆どないが、宝石 
 のなかでいつまでも飽きがこず一番好ましく思えるのは、やはりブリリアント・カット 
 のダイヤモンドである。それも中くらいまでのもので、大げさなものは好まない。いや 
 財力がないから心底からのあきらめがあるのだろう。日頃は10カラットのダイヤモニ 
 アを机の上で転がして遊んでいる。贋物でもソレコソ相当の輝きで、ラウンド・ブリリ 
 アント・カットというのはスゴイ工夫だと思う。