part.36 

写真特殊表現 - 3

     
  ぼくは、いまさら万博の話でもあるまいと思ったが、この講座は写真界の小さな文化
 史でもあり、「人間は本来アナログ思考だ」と考えるぼくは、アナログによる特殊表現
 の記録として書き残すことにした。      
    
  これは、1960年当初から実験をはじめていたいくつかの特殊表現の内、ポスタリ
 ゼ−ションが公のイベント展示として初めて使われ、また赤・青壁写真の合計 54 mと
 いう長さは、それまでに見られなかった最長の壁写真といわれたもの。       
  アナログでは複写によるクオリティの低下があるが、一面、手作りの跡が残す巧拙を
 こえた良さもある。制作の具体的な一端を解説、紹介することにしたい。    
    
     
 通称、大阪万博(正式には日本万国博覧会・大阪会場)がオ−プンしたのは、もう33年
前の1970年3月のことで、ぼくの記憶もかなり薄らいできたので、当時の運営チ−フ・
プロデュ−サ−、小野一氏の著作を引用しながら話を進めてゆくことにする。      
    
 仕事というものは、相当に苦労しても終わってみれば、こんなものかといった淡い感興が
残るだけである。                                 
 大きなイベントほど空虚感も大きい。あの頃、谷川俊太郎の万博をうたった詩「幻の村」
に、「幻の村のいのちは、はかなくもはなやかに燃え、国々の旗ひるがえる」「人住まず幻
の村に生きる日はいつか」といった言葉があったが、しょせん万博は祭り、「人住まぬ幻の
村」でしかなく会期が終われば跡形もなく消滅してしまう「仮象の世界に過ぎない」、とい
った詩人の心が読みとれ、ぼくは素直に共感できた。
     
   たしかに、それはやむをえぬことかもしれない。しかし、あれだけの巨費と歳月と英
  知を集めた「世紀の祭典」への参加は、万博が未来都市の実験の場といわれるとおり、
  映像、照明、音響、色彩、造形が交錯する現場であり、また異種混合ともいえる多くの
  人間交流をえたことは貴重な体験であった。

                     矛盾の壁       (赤壁 左端部分)    1970

                  

矛盾の壁<赤>  高さ 2.73 m × 長さ 32 m

矛盾の壁<青>  高さ 2.73 m × 長さ 22 m               

 < 万博会場あれこれ >
     
    
 大阪万博テ−マ館の展示総合プロデュ−サ−は岡本太郎氏で、シンボルゾ−ンとお祭り広
場をつなぐ空間に、「人類の進歩と調和」をテ−マに、興味深く、分かりやすい形で、具体
的にまた象徴的な構成展示をするという。
 テ−マ館の展示空間は、地下、地上、空中の三層構造になり、それを貫く形であのユニ−
クな「太陽の塔」がそそり立っていた。そのなかでぼくが参加した空中展示空間は展示とし
ては最も複雑、困難な場所で、地上30メ−トルの空中に浮かんだ大屋根の中にあった。
                                     
 空中展示は、「宇宙」「人間」「世界」「生活」の四つのセクションによって構成されて
いたが、万博開幕直前になって「世界」セクションの「矛盾の壁」の展示が陰惨だとしてク
レ−ムがついた。                                 
    
 この矛盾の壁は、人類が進歩のためには克服しなければならない多くの矛盾を主題とした
もので、そこに展示される写真は、共同通信、国連広報、WHO、NASA、広島原爆資料
館、その他個人の版権所有者から提供された。その写真は原爆被災、公害に苦しむ市民、麻
薬の注射を打つ中毒患者、人種差別、飢餓、老廃、過密、過疎、遺伝変質、サリドマイド禍
などに焦点を合わせたリアルなものが多かった。                   
     
 企画書によれば、その意図は、インタ−ナショナルな立場を越え、グロ−バルでユニバ−
サルな観点から、高度に発達した文明社会における最も基本的な人間社会の矛盾をとりあげ
未来に対する問題提起をすることで、「人間は今日、神業に近い物力を持つに至った。神で
ない人間がこの力によってひきおこした現実、人類の存続、生命の保証が瞬時に、あるいは
序々におかされる可能性の生じた今日、この問題は万博に欠くことのできない世界共通の関
心事である」という。
     
 これに対し、政府各省次官たちから「戦後、もう20数年もたって、いまさら原爆の悲惨
さを見せることはない」「人種差別の写真を出して、人権問題にならないか」「全体的に暗
い。陰惨な場面を余り取り上げる必要はない」などという意見が続出したが、なにしろ開幕
直前のことであり、全体的な変更は不可能で、この展示が中止されることはなかった。
    
 ぼくたちの認識からいえば、「これこそ万博のテ−マ「進歩と調和」を願う世界の中の大
きな矛盾だ」ということが、ことなかれ主義の役人たちには納得できなかったらしい。  
     
 こうした問題は、他のいくつかのパビリオンでも起こった。「万博という国際的な祭典に
対して、汚いものにはフタをし、キレイな面だけを見せようとする主催者。政府や自治体が
金を出すといっても、それは税金で賄われているのだ。それを一部の官僚の体質が原因で表
現者の自由と尊厳を一方的に剥奪するなど納得が行かないし、許されることではない」とい
った憤りの声を何人かの制作者から聞いた。
    
    
     
     
              制作期間はわずか50日
     
   
    
 この仕事にとりかかったのは、1969年9月の初めであった。
 ある日、知友のデザイナ−木村恒久氏が、上記の膨大な写真を持ってやって来て、これら
を合成して、万博の三つの大壁面に戦争、破壊、平和というテ−マで、展示したいという。
日頃から、彼はぼくの一風変わった特殊技法を知っていたので、何とかなるのではと思って
いたらしいが、万博現場の青写真のスケ−ルを見て、内心これは大変だと思った。
    
 ぼくのデパ−トなどでの大型展示写真制作の経験から割り出すと、正面の 3.6m×3.6 m
の壁はよいとして、左右に延々と続く高さ3 m×長さ 32 mと高さ3 m×長さ22mの壁いっ
ぱいに、シャ−プでドラマのある大伸ばし写真を展示するとなれば、およそ20〜30点の
バラエティのある 8×10サイズの合成原画が必要になる。
     
 更に、万博の1970年3月初旬オ−プンの期日まで、あと6ケ月しかない。     
 オリジナル写真を生かす合成に不可欠な副材料、資料撮影などを含めて、年内3ケ月で合
成原画を創るとなれば、ぼくのスタジオと同程度の合成設備と技術を持った他の2つか3つ
のスタジオにも、同時に依頼して間に合うかどうかといったところである。
     
 ところが現実はもっと厳しかった。こうした仕事は、相次ぐプレゼンテ−ションとそれに
続く上層部でのディスカッションの連続で、かなりの期間が空白となってしまい、最終的な
決定をみたのは1969年11月であった。                 
     
 ここまで期日が押し迫ると、当然最初のプランとはまったく変わって、大いに期待してい
た合成は取り止めて、オリジナルを適当な大きさに引伸ばしての展示に変わった。  
 そこで、ぼくたちはこれらのすばらしい報道写真が、だだの殺風景な壁写真の展示に終わ
らず、それらが引き立つ舞台装置、テ−マを明確に迫力ある展示壁面をつくるといったこと
になった。 
     
 テ−マ館空中展示施設の世界セクションは、最初から左は矛盾の赤壁、中央が転換の壁、
右が矛盾の青壁と名称が決まっていた。                  
 ぼくは、矛盾という視覚的にはつかみどころのないタイトルを頭に置きながら、こうした
リアルな写真の結集が矛盾というテ−マを表現するにふさわしいバック・グラウンドとはど
んなものか。時間に追われながら試行錯誤の結果は、ぼく好みの宇宙それも続々と新星が生
まれてくる迫力のある星雲のようなイメ−ジが好ましいと思うようになった。   
     
 被写体としては、炎、閃光、爆発物などを合成して、終局の表現は抽象化して被写体の実
態を見せないポスタリゼ−ションの処理を考えた。                
 デパ−トのウインド展示でもよく体験したことだが、こうしたディスプレ−は両者が単な
る足し算でなく、掛け算以上の効果を発揮できるかどうかが決め手である。       
     
 制作期間は50日しかない。7名のスタッフで正月なしの覚悟でスタ−トした。事実、徹
夜つづき、休日は正月元旦1日だけという有様になった。

                     < 矛盾の壁の原画と        ポスタリゼ−ション >         

赤壁 モノクロ (A+B+C)

A

B

C

       

 赤壁 カラー (A+B+C)

A
B

C

             

青壁 モノクロ (D+E)

       

  青壁 カラー (D+E)

       

 これらは、矛盾の壁<赤><青>のモノクロ原画と完成したポスタリゼ−ションで
ある。モノクロ原画は、浜松砂丘で撮影した爆発物、炎、閃光など、約千枚のネガか
ら数十枚を選びだし全紙大に引伸し、破りつぎでツナギ写真を作り、制作プロセスの
能率をあげるため、8×10のコマ−シャルフィルム(モノクロ)5点にまとめた。
      
 この8×10のネガから、更に60cm×2mの印画5点をつくり、これを修正し
てツナギを目立たなくしたものを、再度コマ−シャルフィルムで複写して、8×10
のマスタ−ネガを得た。
 マスタ−ネガから、ト−ンセパレ−トして、ポスタリゼ−ションへの方法は、裏話
で別に述べるが、これらのカラ−パタ−ンはそれ自体で非常に美しいものになった。
     
 最終の展示写真は予算と展示効果から、一般的な印画プリントはやめ、NECO方
式(日本エンラ−ジング・カラ−株式会社)という新しいシステムを採用し、布(キ
ャンバス)にプリントしたが、味わいのある染料プリントはモダ−ンな壁紙か新しい
抽象画のように見えた。                           
 こうした表現に初めて接した万博関係者は、こんなものを生かした作品を創りたか
ったといった感想をもらしていたが、時すでに遅しである。
   
   
< 最長32mの矛盾の壁 >
      
 これらは、リアルな写真をセットする前の展示壁で、高さ約 3m 幅約 1 mの屏
風のようなパネル(キャンバス)赤壁32枚、青壁24枚が、隙間なく並んでいる。
      
 ぼくは西武デパ−トの仕事を11年以上やってきたので、ウインド・ディスプレ−
など、高さ 2m×長さ 10 m位の大型展示用写真もいくつか制作してきたが、これら
の壁写真は1枚の写真としては羽田空港のものよりずっと長かった。   
 引伸しをしながら、プリントの色調や全体のバランスを見るプレビュ−は、近距離
では仕上がり効果の見当がつきかねて、これらのパネルを長々と地上に並べ、何度も
何度もビルの5階屋上から眺めた。 ぼくの慌ただしい日々はこうして終わった。

       

    

 

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裏話や制作のプロセスなど
     
が見られます。