写真表現の多様性

      

 ぼくが土木屋から編集屋を経て写真家になったことはすでに述べたが、具体的な話は
  編集屋までで終わっていたので、その続きを述べておきたい。
     
 ぼくは1951年11月、玄光社の「写真サロン」編集部に入ったことからズブの素人、
駆け出しの編集者ながら取材という名目で、当時の著名な写真家、写真や美術の評論家のほ
とんどの方にお会いでき、またそれぞれに個性のある撮影ぶりも拝見することができた。
 それは写真の専門教育を受けたことがなく、まったく独学で写真を学ぶぼくにとっては、
僥幸そのものといった日々であった。僥幸というのは、後にわかったことだが親しい写真家
同志でも、話はしてもめったに撮影現場を見られるものではないからである。
    
 後半には、アマチュア写真団体の例会めぐりがあったが、ぼくはそんなアマチュアの人々
と話すのは好きだった。こんな例会でお目にかかる方たちは、ひとつの職業を持ちながら独
学で自分なりの個性ある写真を目指す熱意があり、ぼくも独学では同様であったことから親
近感を持つていたからである。
     
 玄光社に勤務した期間はわずか1年6ケ月、1953年3月には退社したがその中身は非
常に濃かったという実感があった。
 その後はぼくのやりたい目標を立て、物事はすべて、人が10年かかるところは2年で、
5年なら1年でやろうといった考えになっていた。「世の中には、自分がどんな願望を持つ
ているかを自覚していない人が多いのではないか。それではその日暮らしになってしまう」
など、自分を戒めることも思った。
    
    
 玄光社退社直後の1953年5月、ぼくはちょっとおもしろい体験をした。
 オリエンタル社が日本としては画期的な自分でカラ−プリントができるという「オリカラ
−・ネガティブフィルム」を1ケ月前の4月に発売したばかりで、もう第一回目の講習会を
開くという話を、当時写真評論家で同社の社員でもあった田村栄さんから聞いて、イの一番
に申し込んだ。
    
 会場に来てみると、多少入れ込んでいたぼくの盛況予想は、見事にはずれて参加者はわず
か10名ばかり、研究熱心のあまり田村さんの企画はタイミングが早過ぎたのであろう。 
 内容は丸1日をかけてネガカラ−の原理の解説にはじまり、現像、プリント、更に色補正
の要領まで各自が実習してみるという懇切丁寧、立派な内容であった。ぼくは初めてのカラ
−処理で戸惑ったが「百聞は一見にしかず」、これは後々貴重な体験として生きた。   
今は、ふと日本初の珍しい講習会の生き残りを想い、親しかった田村さんの笑顔が浮かぶ。
    
 やっとカラ−写真が普及し始めたのは、戸惑いと高価ということもあって、1958〜5
9年にフジカラ−、コニカラ−ネガティブの発売を見てからで、その後こうしたカラ−講習
会はほとんどなくて、独学する向きには残念なことであった。             
     
  ぼくはあの講習会の刺激もあってか特殊技法に興味を持ち始めたばかりだったが、その辺
の教科書ではわかりかねるところは、片っ端から製版所や印刷所の現場の技術者を訪ねて教
えていただいた。技術者という人は、こちらが熱心だと見ればどこでも親切丁寧に話してく
れ、企業秘密、秘技ともいえるところまで明らかにして下さる人もあった。もちろん当方も
礼を尽くしての話である。

           

         
         

 初めは、写真技術の執筆から          
 1953年フリ−にはなったが、すぐ撮影の注文が入ってくるわけではない。それから6
年位は主として写真の撮影技術や暗室技術の執筆を生活の基盤としており、1956年初め
てのコマ−シャル撮影をしたが、1960年にコマ−シャル・スタジオを開くまでは、朝日
グラフといったものの表紙、つまりカバ−写真やウインド・ディスプレ−の写真などなんで
も手がけた。
     
 わずか1年半の編集経験でそんな原稿が書けるものかという疑問があるかも知れないが、
幸いなことにぼくが所属していた関西の丹平真倶楽部という前衛的な写真集団の例会は、全
紙の額装で行われる程、その技術レベルが関東の執筆者よりも高かったということがある。
     
 そんなことから、ぼくは編集者になった直後から鈴木編集長の指名で自分が編集する写真
サロンに連載で、丹平で身につけた技術を公開する原稿を書いていた。
     
 フリ−後の寄稿先は、カメラ毎日、写真サロン、フォトア−ト、カメラクラブ、サンケイ
カメラなどで、そのうち時折は口絵の依頼もあった。                 
 暗室技術は丹平で受けた技術で十分足りたが、ポ−トレ−トの撮影技術はまだ未知数。 
そこで新しい特色を出すために、写真サロンの編集をしていた当時、世界中の写真雑誌をみ
て感じていた日本と海外の技術解説の根本的な相違を明らかにする方向での視覚的、論理的
な作例と解説を試みた。                              
 これは、海外の写真誌、単行本、絵画など新旧を問わず、新鮮なアイディア、合理性に富
む作例を翻訳し、その日本版を作って何ペ−ジかのグラビアペ−ジで見せることである。 
     
     
 例えば、人間がごく普通の速度で歩く姿を写すとしよう。この時、カメラに向かってまっ
すぐ歩いてくる場合、斜め45度の方向に歩く場合、真横に歩く場合、それぞれ人物までの
距離とシャッタ−・スピ−ドでブレ方がまったく異なる。
 これを条件を変えながら、具体的な実例を人物、自転車、自動車など被写体も変えながら
数種類をしっかり見せるのが海外の写真誌なら普通のことで、このサンプルを見て自分なり
の納得の行くデ−タ−を作るよう薦めた記事もあった。もし、このテストを実際にやってみ
た人は、動きをストップさせる最低必要なシャッタ−スピ−ドや最も動きを感じさせるブレ
加減は、どんな条件かを一度で体験してしまうだろう。
     
 また、ポ−トレ−トの半身像のライティングなど、日本流なら斜め上方から照明して立体
感を出すことといった説明で終わるが、アメリカ流はさらにライトの距離と方向で顔に真珠
のような輝きをみせる位置を発見するならさらに美しくなるという。          
(これをパウリ−ライトという。真珠のような輝きを出すライト)
     
 さらに、逆光線で人物を引き立てようという日本の解説に比べ、外国の解説はもっと物理
的で、人物をドラマの主役のようにみせるには、光源(太陽)を人物の向こうに入れて人物
の周囲に「光の縁」をはっきり確認して写すとよい。この「光の縁」を見せるライトをリム
・ライトというとある。この方法で、人物の顔も明るく見せるなら、銀レフをカメラ側から
当てるか、ストロボによる日中シンクロを利かせばよいという。
     
 つまり、これが当時の外国人の解説だが、日本のフィ−リングに頼った書き方に比べ、そ
の説明は実証的、合理的で、算数の苦手だったぼくには、丸暗記させられた掛け算の九九、
つまり5×7=35は5を7回足すだけの足し算なのだといった話し方のようで、実証する
作例も明快で分かりやすく、ぼくはそれを伝えたかった。               
 これに類する技法解説はいくつもあり、ぼくはそれらをお手本に次々と実験し、ポ−トレ
−トのライティングなども独習しながら身につけ、併せて原稿料までいただくという一挙両
得、不思議なことになった。
     
 要するに、プロ写真家入門時のぼくは、生活のためばかりでなく、おっくうがらず興味の
赴くままに、<あれも これも>と何でもやり、生来の好奇心が特殊技法の実験につながっ
ていったということである。                            
     
 次回からは、特殊技法の実験の内容とその周辺のあれこれをお伝えしたい。
  

    

  

   
    

    

   
 このインタ−ネット写真展・講座は、これから実際的な仕事の解説が多くなるが、寄る年
波を考え、自分史を兼ねたものとするため、私的・公的なデ−タ−、資料、写真などを、巻
末に記録、掲載することにした。

     

フリーライター時代

編集者時代 右から、佐保山尭海、鈴木八郎、棚橋紫水、玉井瑞夫。
    

<玉井の編集者時代 1952年>   鈴木先生宅にて

    
 これは、1952年5月、丹平8人展が銀座松島メガネ店2階のニコン・サロンで行われ
た時、この写真展に出品していた丹平写真倶楽部の先輩、佐保山、棚橋のお二人を、練馬に
住む鈴木さんのお宅に案内した時のもの。
     
 鈴木さんは、本来、アマチュア向けの写真の撮り方、処方集など単行本の著作者として有
名だったが、当時は「写真サロン」の編集長で、玉井の上司であった。
 佐保山さんは、僧侶としては遊びも融通無下という珍しい写真家で、後に東大寺第209
世の管長になられた。棚橋さんは、ポ−トレ−トの写場を経営していたが、前衛的な写真家
として丹平写真倶楽部ではリ−ダ−格で、暗室の名人でもあった。玉井はその教えを棚橋さ
んの暗室で直接に受けた。 
    
    
[ 備 考 ]
    
 1951年11月(11/7〜13)、戦後初の「丹平写真倶楽部東京展」が銀座松島メガネ店
2階のニコン・サロンで行われ、関西の前衛写真の健在ぶりが認められた。その余勢をかっ
て半年後、翌年の1952年5月(5/1 〜7 )に、「丹平8人展」が同じ会場で行われた。
    
             「丹平8人展 出品者」
     
 棚橋紫水、木村勝正、佐保山尭海、河野徹、岩宮武二、堀内初太郎、和田正光、玉井瑞夫。
    
 この当時、ぼくは東京に移転し、玄光社という雑誌社に入社したばかりだったが、写真の
本籍地は大阪ということで、「丹平8人展」の出品メンバ−として、一番新人のぼくも丹平
のベスト・エイトに選ばれたいう知らせが棚橋さんからあった。            
                      
 この展覧会のオ−プンまで、ぼくが東京へ出て僅か半年後というのは期日が短かすぎる。
 ぼくは光栄と作品への責任感から一時辞退を考えたが、佐保山尭海さんの当たって砕けろ
という励ましから、ぼくは何でも前向きをと、覚悟して参加を決めた。         
 すべてが珍しく、駆け出し編集屋という超多忙の中で、何とか出品作品を創ったあのエネ
ルギ−は、一体どこに隠れていたのだろうか。                    
    
 当然、被写体は瑛九やその帰路、会社近くの焼けビルなど手近なモチ−フになったが、作
品は一応自分でも納得できた作品として「瑛九氏」「木蔭」「コンポジション」「木型1」
「木型2」の5点を出品し、東京に出てきて撮影したこれらの作品が、東京進出の第一歩と
しては予想外の高い評価をうけ、どんな環境でもやれば出来るのだという自信が生まれた。

    

<玉井のフリ−・ライタ−時代 1954年>  深山荘にて

    
 これは、東京、雑司が谷、深山荘の6畳1間に住み、フリ−ライタ−を始めた頃。ペンキ
屋の倉庫に暗室を借りて、モノクロ原稿用写真の現像、プリントをしていた。
 せっかちなぼくは原稿を書き始めると止まらず、まだスタミナも豊富で、一晩で400字
詰原稿60枚の技術記事を書いたこともあった。                    
 仕事が暇なときは、浦和の瑛九を訪ね、毎度終電車まで放談していた。
     
 自分の当時のポ−トレ−トに対する感想は、「その折々の顔つきというものは、嘘をつけ
ないものだ。上記の丹平8人展開催中のこの顔はやはり厳しい顔をしており、フリ−ライタ
−開店当初のこの顔は、貧乏などどこ吹く風といった解放感にあふれている」と思った。