<玉井の編集者時代 1952年> 鈴木先生宅にて
これは、1952年5月、丹平8人展が銀座松島メガネ店2階のニコン・サロンで行われ
た時、この写真展に出品していた丹平写真倶楽部の先輩、佐保山、棚橋のお二人を、練馬に
住む鈴木さんのお宅に案内した時のもの。
鈴木さんは、本来、アマチュア向けの写真の撮り方、処方集など単行本の著作者として有
名だったが、当時は「写真サロン」の編集長で、玉井の上司であった。
佐保山さんは、僧侶としては遊びも融通無下という珍しい写真家で、後に東大寺第209
世の管長になられた。棚橋さんは、ポ−トレ−トの写場を経営していたが、前衛的な写真家
として丹平写真倶楽部ではリ−ダ−格で、暗室の名人でもあった。玉井はその教えを棚橋さ
んの暗室で直接に受けた。
[ 備 考 ]
1951年11月(11/7〜13)、戦後初の「丹平写真倶楽部東京展」が銀座松島メガネ店
2階のニコン・サロンで行われ、関西の前衛写真の健在ぶりが認められた。その余勢をかっ
て半年後、翌年の1952年5月(5/1 〜7 )に、「丹平8人展」が同じ会場で行われた。
「丹平8人展 出品者」
棚橋紫水、木村勝正、佐保山尭海、河野徹、岩宮武二、堀内初太郎、和田正光、玉井瑞夫。
この当時、ぼくは東京に移転し、玄光社という雑誌社に入社したばかりだったが、写真の
本籍地は大阪ということで、「丹平8人展」の出品メンバ−として、一番新人のぼくも丹平
のベスト・エイトに選ばれたいう知らせが棚橋さんからあった。
この展覧会のオ−プンまで、ぼくが東京へ出て僅か半年後というのは期日が短かすぎる。
ぼくは光栄と作品への責任感から一時辞退を考えたが、佐保山尭海さんの当たって砕けろ
という励ましから、ぼくは何でも前向きをと、覚悟して参加を決めた。
すべてが珍しく、駆け出し編集屋という超多忙の中で、何とか出品作品を創ったあのエネ
ルギ−は、一体どこに隠れていたのだろうか。
当然、被写体は瑛九やその帰路、会社近くの焼けビルなど手近なモチ−フになったが、作
品は一応自分でも納得できた作品として「瑛九氏」「木蔭」「コンポジション」「木型1」
「木型2」の5点を出品し、東京に出てきて撮影したこれらの作品が、東京進出の第一歩と
しては予想外の高い評価をうけ、どんな環境でもやれば出来るのだという自信が生まれた。
<玉井のフリ−・ライタ−時代 1954年> 深山荘にて
これは、東京、雑司が谷、深山荘の6畳1間に住み、フリ−ライタ−を始めた頃。ペンキ
屋の倉庫に暗室を借りて、モノクロ原稿用写真の現像、プリントをしていた。
せっかちなぼくは原稿を書き始めると止まらず、まだスタミナも豊富で、一晩で400字
詰原稿60枚の技術記事を書いたこともあった。
仕事が暇なときは、浦和の瑛九を訪ね、毎度終電車まで放談していた。
自分の当時のポ−トレ−トに対する感想は、「その折々の顔つきというものは、嘘をつけ
ないものだ。上記の丹平8人展開催中のこの顔はやはり厳しい顔をしており、フリ−ライタ
−開店当初のこの顔は、貧乏などどこ吹く風といった解放感にあふれている」と思った。
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