part.35                       写真表現の多様性

    

   この「玉井瑞夫インタ−ネット写真展」は、写真展というよりは明らかに写真入門
  講座といった方がふさわしい方向で展開してきた。それはぼくが撮影の第一線を引
  いた後は写真によるボランティアをしたいと希っていたことに原因がある。
    
  しかし今回からは、あまり一般的でない少し個人的な技法、つまりぼくが生活の基盤とし
てきた写真の話が主体になる。退屈と思われるところも多くなるが、写真の世界では多少変
わった分野でもあったので、「写真は生誕後、まだわずか160年あまり、小さな出来事の
積み重ね記録が歴史をつくる、目の黒いうちに何でも書き残して置いてほしい」といった向
きもあるので、あと6、7回は勝手気ままながら重い筆を運ぶことになる。  
      
 ぼくの仕事は、専門誌の「コマ−シャル・フォト」などで、スペシャリストへの道といっ
た特集記事には、「写真の物理的化学的メカニズムにめっぽう強いので有名。製版用感光材
料を素材にシュ−ルな世界を創る。必然的だった特殊表現への道。−−」などと書かれてい
るがこれはオ−バ−に過ぎる。めっぽう強いどころか弱すぎて、苦労の連続だったというの
が実情であった。でも、「必然的だった特殊表現への道」というのは、正解である。
     
  この「必然的」ということは、カラ−表現では非常に大切なことなので、再度おさらいに
なるが、もう一度箇条書きで述べておきたい。
  1940年代、写真における「時間と空間」という問題にふれた人に、ウィン・バロックとモ
ホリ・ナギ−があるが、カラ−写真が生まれた直後に、もうナギ−はカラ−の将来について
示唆をふくめた次の言葉を残している。
  
         
  「最高の期待はカラ−によるフォトグラムを征服することにある。カラ−・ヴァル−ルの
真の力学的表現は、直接の光の展開による継続と構成が純粋な光学的法則と視覚的基礎によ
って統一されることによって創られる。                       
  そこでは、色彩は物体をあらわすサインやシンボルとしてではなく、それ自体が本来の形
として理解されることになるだろう。このように内容からはなれて、光による色の形を創造
することはたぶん抽象的な映画や静力学的なカラ−フォトグラムの方向に発展させていくこ
とができるであろう。」
     
  画家は写真の発明で、人物や風景をありのままに模写することを追われ、色彩で生きるこ
とになったが、前衛画家瑛九の描く油絵の生の色彩の威力を目の前で、時には天日でも見て
きたぼくには、モホリ・ナギ−のこの言葉は何の躊躇もなくストレ−トに入ってきた。
     
  「色は光の一部であり、光と同じように変化する。この形象をはなれた、変化しやすい光
りを対象として知覚された主観のなかに認識されたスケ−ルが、それぞれの個性を表現する
ようになって、はじめてカラ−写真の芸術が生まれてくるであろう。」ともいう。    
      
 先覚者のいわれたこれらの言葉に強いショックをうけ、好奇心の強いぼくはすぐそれをや
り始めただけのことで必然性というのはこのことである。後に、ぼくはごくわずかな期間だ
ったが編集者という仕事についていなかったなら、乱読癖のあるぼくでもナギ−のこの言葉
は知らずに通り過ぎたことであろう、これも運命だったかと思ったものである。
      
  それにしても、こうした問題に興味を示した写真家は、内外ともに非常に少なくて外国で
は、スイスのルネ・グレブリ−という写真家があり、縁あって1966年にはスイス・ガイギ−
社で彼の原画を見ることになった。彼の特殊技法の進捗度はほとんどぼくと同程度で、世界
は広いようで狭いものだ感じた。
    
    
    

 < 表現とは、経験の残留物である >

    
  ぼくは60歳のとき自分の写真人生を総括し分析してみた。そして、それまで何となく気
になりながら過ごしてきたマンレイの「表現とは、経験の残留物である。」という言葉を、
慄然とした心地で受け取った。 
  
                               
 残留物とは自分そのものであり、分析の結果はエネルギ−を注いで創作に取組んだのは、
25歳から55歳まで約30年にすぎないことがはっきりした。これを10年づつ1期、2
期、3期に分けると、1、2期はあふれるエネルギ−で、<あれも これも>なんでも手を
つけ、3期になると<あれか これか>と自分の願望にランクづけして、選別しながら仕事
をしている。もちろん55歳をすぎても創作はしているが、慣れと技術でいわゆる精緻とい
えるかも知れないが、エネルギ−が不足気味でパンチに欠ける例が多い。
      
  1期が一番エネルギ−に満ち、下手さ加減もまあまあならパンチがあって気持ちがいい。
失敗が許されるのは、若者の特権だなどといっていた年頃である。2期からは写真家協会の
役員などで要領の悪いぼくはずいぶん時間とエネルギ−を取られ体調はいつも疲労気味。 
  技術的には向上はしてはいるが今ひとつ迫力に欠ける。3期では、口の悪い友人から色気
違いいわれた色彩も渋くなり、どこに出しても一応通用するが、「質は良くても力がなけれ
ば訴えるものは少ない。」と自戒することがままあった。               
    
 「作品は経験の残留物である。」ということが身に沁みてわかり、残留物が最後まで魅力
を発揮するのはその作品がもつエネルギ−から発散するパンチとその質であり、それは必ず
しも終局の地点にあるとはいえず、むしろそのプロセスの途次にあることの方が遥かに多い
とぼくは感じてきた。人生にも創作物にも旬というものがある。
     
  芸術家の「終生現役」という言葉を信用しなくなったのは、45歳を過ぎてからであった
が、それは氾濫するおよそ主義という主義への不信にもよるが、思考はもちろんだが感情と
いったその場かぎり根無し草のようなものも信ずるに足りず、純粋な知覚としての非合理的
な機能、感覚の確実性だけを仕事の土台としたからである。
    
    
   
     
   今回は、45歳前後の仕事として多かった「表紙」の一部を題材に解説する。
     
   一目瞭然ですぐわかることだが、技術的には一般的な作品、「デンマ−クの少女」  
  「カンペコ・プレス」を除いて、他の作品のポイントは、光の3原色(赤・青・緑)
  つまり3つの色光によるものである。店頭効果を考えて緑の色光はひかえ気味にして
  あるが、加色混合の効果の変化も重要で、その辺は注意して見ていただきたい。   
     
   もし、わかりにくいところがあれば、再度 Part18 写真家の色彩学(1)
   をゆっくり何回か読めば、理解は早いと思う。

          

            

    「 デンマークの少女 」  (小型映画 1967)

    
  その時、ぼくはその辺での撮影を終えて小公園で一服していた。そこへ、この少女はやっ
てきた。自転車を下りると4、5メ−トル先の石垣の端っこへちょっと腰掛け、小さな手提
げをひざに置くと、サッとこのポ−ズをとって遠くを眺めはじめた。
     
 そのスピ−ディでスム−スな一連の動作は、バレ−の素養でもあるのかと思われるほどス
マ−トそのもので、ぼくは思わず見とれてしまった。
  髪の毛からサブリナ・パンツ、足元のシュ−ズまで見事なコ−ディネィトで、短いちょっ
と天を向いた鼻も可愛いい。ブランド物は一切なく身に合ったこんなオシャレは、現代の日
本の少女たちにも真似てもらいたいと思う。
    
  ぼくはこの愛らしい絵のようなシ−ンをそっと一枚、気づかれないようにスナップした。
その頃のぼくは西武デパ−トの広告写真のすべてを撮っていたので、参考資料として、ヨ−
ロッパ各地で見かけたさりげなく、気の利いたファッションも撮影していた。      
  これはその中の一枚を雑誌の表紙に選んだものである。
    
  「小型映画」の表紙は、1967年から74年頃まで8年ほど担当したが、初期はストレ
−トな風景、スナップなどを使用したが、編集担当者がその昔の同僚で、気心もよく分かっ
ていたことから、その後は何の制約もなく、ぼくの気の向くままに新しく表現技法を変えた
ものを制作していった。                   
    
 その他各種の雑誌、単行本などの表紙の依頼も多かったが、でき上がりの作品がどんなも
のになるかは、ぼく自身にも明確でなく、過去の例を見せて大体あんな方向のものといった
引き受け方をしていた。

   

                           

            

「 ビーナス 」  (小型映画 1969)

   

  ビ−ナスの石膏像は、小中学校の図工室でよく見ら
れた。スタジオでは、ライティングのサンプル作製や
ちょっとしたアクセサリ−に使われる。
    
  ぼくは見慣れすぎたビ−ナスだが、見方を変えて表
紙をと考えたが、どうしてもそのフォルムやライティ
ング図から離れられず、平凡なアイディアしか浮かば
なかった。
   
  そんな或る日、夜明けの目覚め時、ボンヤリとこん
な図柄が現れすぐメモしておいた。
  撮影はメモどうりで、カメラの上下位置と像の向き
を変え、ちょっとカラ−・スポットを加えながらの撮
影である。4×5カメラの蛇腹の中で、フィルム直前
の位置に黒い厚紙を置いて上下4分割の露光をした。
   
  どうしてこんなアイディアが浮かんだのか、よく質
問されたが、ぼくの答を聞くと誰もなんだそんなこと
かと、あきれ顔になった。 

  つまり、精密な色彩を要求されるコマ−シャル・スタジオでは、新しいフィルムに変わる
度に発色テストをするが、使用頻度の多い4×5版はフィルムサイズが大きく、経済的にも
画面を分割して露光テストすることがあり、それを応用したそれだけのことである。

   

        

            

「 レンズ A 」  (カメラ毎日 1968)

     

 これは、月刊誌でなく「カメラ白書」という特集で
あったために、ずばりレンズそのものを被写体とした
イメ−ジで進行した。
 手持ちの撮影用レンズを分解するわけには行かぬの
で親しい友人、ニコン・レンズ設計者の掘邦彦さんに
話したら、会社で研究用にバラバラにしたニコン・レ
ンズ一式を並べた箱入りを下さった。
    
  これはまさしく、フォトジェニックな被写体を、カ
ラ−・スポットライトで加色混合の変化を見せたカラ
−写真の原型、標本のようである。
     
  真っ白なイラスト・ボ−ドの上に、大小さまざまな
レンズをならべ、色光を当てた真上からの撮影では、
ほんのわずかなライト位置の変化で、小さな虫のよう
な形が現れたり、レンズを通過した光どうしが干渉し
あって、複雑な影の明暗が波紋を見るようで美しい。
      
  しかし、しばらく眺めているうちに、そのままのグ
ラデ−ションでは、しげしげと眺める分には透明なき
れいさはあるが、所狭しと色彩の氾濫する書店の店頭
では、ややパンチに欠けるかも知れないといったこと
が気になって来た。

 そこで、銀色の粒子の凹凸のあるメタリックのバックに変えての撮影がこの写真である。
バックの変化は中央のレンズに白点状の粒子の明暗が現れ、周辺、暗部のグラデ−ションに
も砂目のような白い粒子が散らばり、かなり力強さを増した表現になった。
     
  表紙もいろいろで、単行本は渋さで見せることも可能だが、雑誌の表紙は店頭効果が重視
され、下手をすると下品になり兼ねない難しさがある。
  今回のぼくの表紙は、赤と青のコントラストが目につく派手さがあり、明快とスツキリを
ポイントにした構成が見られるであろう。

   

                       

            

「 レンズ B 」  (小型映画 1971)

    

 これは、ちょっとモダ−ンな風景といったところ。
4×5用引伸機用の大きなコンデンサ−レンズ2枚に
それぞれ35ミリカメラのレンズを載せて真横から撮
ったもの。ピンスポットによる赤・青の色光はバック
寄りが主体となっているが大小レンズに反映し、収斂
と干渉で複雑なフォルムを表現している。
         
  意外性を狙って入れた、バックのビルの窓はニュ−
ヨ−クの夜景で、天地を逆さまにして白い輪とともに
後からマスキングで、モンタ−ジュしたものてある。
    
  レンズA、Bは赤と青による色光は共通しているが
表現・効果には大きな差がある。
  同じレンズでも真横から見たBの方が立体感、遠近
感があるのはレンズ下部の床に映されたホワイトとマ
ゼンタの不思議な模様と細い水平線のようなグレ−の
ライン、その向こうの空間のデリケ−トな色調、明暗
のト−ンによる。
   
  ぼくは、こうした部分が成否をきめる場合が多いこ
とを、しばしば体験してきたので、最後の詰めに延々
と時間をかけることがある。

  この作品には、バリエ−ションがあり、バックの暗部にイエロ−のカラ−粒子を入れたも
のが使われたが、後であれは手を入れすぎでうるさく、この方が簡明直載で良かったと思う
ので、ここではその原画を掲載した。

   

                            

            

「 メビウスの輪 」  (小型映画 1969)

   

 ドイツの天文学者で数学者、メビウスの名で知られ
るこの帯を、ぼくが知ったのはどういうわけか、かな
り遅く30歳を過ぎていた。
     
 細長い長方形の帯を一回ひねって、一方の端の表と
他方の端の裏を張り合せたときにできる輪。この帯が
つくる面は表裏の区別がつけられず(単側面)、また
左まわりと右まわりの区別がつけられない(向きのつ
けられない面)という性質をもつ。
     
 表紙写真は、スタジオでのテ−ブル・トップフォト
で創られることが多いので、何時かこの輪を使って見
たいと思っていたが、最初から小型映画の表紙にふさ
わしいということで、撮り始めたわけではなかった。
   
 ぼくは、モノクロの粒子印画の美しさにほれこんで
ずいぶんシャ−プな粒子のグラデ−ションを楽しんで
きたが、カラ−印画での粒子は拡大すると色ボケ写真
になってしまい、それを鮮明な色のままシャ−プにし
ようという実験を何度か試みたが成功しなかった。

 そんなある日、ウインド・ディスプレ−の現場で表面が微粒子で、砂目が銀色に光るメタ
リックなボ−ドを見つけた。このプレ−トに各色光の加色混合で、数種類のカラ−粒子まが
いの合成用ポジ原画を作ろうとしていた時、ふと「メビウスの帯」を思い出し、材料も金属
質で光る輪っぱを二つ置いてみたのがこの作品になった。
     
 カラ−粒子もどきの合成用フィルムは、七色のバリエ−ションが作られ、その後大いに活
躍することになったが、これまでその技法を発表することはなかった。
    
(この作品の右上の金色に輝くイエロ−が、緑と赤の色光の加色混合によつて生まれたもの
 だと、一目でわかった人は合格だ。ヒントは輪っぱの左下のハイライトにわずかながら緑
 の色光を感じたかどうかである。右下のマゼンタは、赤と青の色光の加色混合による)

   

                            

            

「 カンペコプレス 」  (コマーシャル・フォト 1969)

       

  エントロピ−が叫ばれ、資源回収に力を入れ始め
たころ、空き缶をコンパクトにプレスする機械らし
きものが現れて、その名がカンペコプレスであった。
   
 物好きなぼくは、これでコマ−シャル・フォトの
表紙を創ろうとイメ−ジしたが、だだの空き缶ばか
りではパンチが弱く、到底写真にならないと考えて
ブリキ製のオモチャ、機関車や自動車を買い集めて
カンペコプレス屋へ行った。
    
 おおまかなイメ−ジに合わせて、どの辺にオモチ
ャを入れるかがこの作品のキ−ポイントだが、プレ
スされて出てくるまでわからないので一発勝負。
 結果は、思いのほかの面白い構成を見せた長方形
の塊になって出てきた。
                     
 ぼくは、この被写体、カンペコプレスの塊が、と
ても気にいったので、コマ−シャル・フォト用のス
トレ−トな撮影後、2点のバリエ−ションを創った。
 次の「カンペコプレスA」はその1点である。

          

              

                            

    

     「 カンペコプレス A 」  (1969)

   
 これは、カンペコプレスのギラギラ光るいびつな四角の金属の輝きをテ−マに、少し色光
を加えた照明と思いっきりオ−バ−な露光で、廃品とは思えないしゃれたハイキ−な作品を
試みたものである。下部手前にながれる白いモヤは、ドライアイスの煙である。アニメの世
界から見れば中世にはなかった何処かのモダ−ンな城に見えないだろうか。
 
 同じ被写体も、見方でまったく変化する。 
  ぼくは撮影中、興が乗ると突然変異を起こすこともよくあって、こうしたバリエ−ション
の実現は、時間を気にせず、無制限に使える自分のスタジオを持ってのことであった。
     
 アイディアなどというものは、真っ白なところには浮かばず、わけもわからぬ処での連鎖
反応から生まれる。また、割り切れない、未知数の多いところほど情報量も多く、そんなと
ころで野放図な見方をしていると、リラックスしたある時にフワ−と浮かんでくるといった
ことが多いようにぼくは思う。

    

               

これは働き盛りの40歳を過ぎ たばかりの頃。外出時は、何時 も古いライカを手にしていた。 この写真をクリックすると

裏話へいくことができます。