写真表現の多様性

 丹平東京展あれこれ
 もう50年も前のピンボケ写
真だがぼくにとっては、この当
時唯一のメモリ−である。
    
 四国生まれで大阪までしか知
らなかった僕は、初めての上京
で岩宮さんにくっついて会場ま
でやってきた。
 街に出たかったが、迷子にな
っても困るので、受付あたりで
ウロウロしていたら、昼前にな
ると、ぞくぞくとお客さんがや
って来た。
     
  その内どこかで見たような人
が先輩と話し始めたので、岩宮
さんに「あのハンチングをかぶ
つたオッサンは、誰だろう?」
と聞くと、「あれがかの有名な
木村伊兵衛さんだよ」という。
 これが、木村さんとの初対面
だった。       

丹平写真倶楽部 東京展会場にて 左から、木村伊兵衛、林忠彦、玉井、岩宮武二     丹平東京展 1951・11・7 〜 13 (銀座松島メガネ店2階 松島ギャラリ−)

 ぼくは東京に2日しかいなかったが、当時名の売れた第一戦の写真家のほとんどが現れ、
丹平写真倶楽部がそれほど注目されていたことに驚き、戦前の丹平の先輩たちの実績をあら
ためて認識するようになった。
 ぼくはその後、3週間も経たぬ11月30日に上京し、編集者としてこれらの写真家に、
またお目にかかることになった。
   

 

         

         

 土門リアリズムのルーツ 

          
 土門拳は、ぼくが1951年に上京する直前の1949年、ぼくの所属していた前衛写真家集団、
丹平写真倶楽部のリ−ダ−安井仲治の「安井仲治遺作集」の写真展を大阪で見て、強い衝撃
を受けたという。
    
 安井さんは、1930年、丹平写真倶楽部を創設し、戦前のモダニズム写真の興隆期に、最後
までアマチュアを通しながら象徴的な一閃の光跡を残し、1942年、38歳の若さでこの世を
去った。           
 彼はテ−マの幅広さに加え、その人間の内面を見通したような鋭いまなざしのありようは
彼のもうひとつの特徴であり、この写真家の最大の魅力であった。あの口の悪い東大寺の佐
保山さんさえ、安井さんには心酔し、事あるごとにもう少し生きていて欲しかったとつぶや
いていた。  
    
 土門は「ぼくは安井氏の作品をはじめて見た時、目頭が熱くなった。彼も写真家ならぼく
も写真家である。どうしてぼくにはこんな写真がとれないのかと口惜しかったのである。 
 そんな口惜しさを感じたのは、ぼくの20年間の写真生活で後にも先にもその時一度だけ
である」と言っている。 実に正直で、率直な告白である。
    
 安井仲治は、知性的な造形と鋭い感受性によって日本の近代写真に画期をもたらした作家
だった。土門の中で、安井芸術は彼の血肉となってリアリズム理論に組み込まれた。
   
                                     
 土門の論旨では、写真には自己の解放的写真と閉鎖的写真の2種類があり、前者は「社会
的遠心的な精神状態から生まれ、後者は個人的求心的な精神状態から生まれる」とした。 
 自己解放的な写真は、「世の中のことを憂え、憤り、喜ぶ精神の豊かさが満ち満ちている
写真」で、つねに視線が社会に向かっている。「それは頭を上げて、まっすぐ前を見て、精
神的にも肉体的にも、健康な力が満ち満ちている積極的な状態からでなくては生まれようが
ない写真である」という。                             
   
 一方、自己閉鎖的写真は、「孤独な状態にある時にうまれ、頭をたれて自分の精神の内側
を見つめるひとりぽっちの写真である」といい、この2つの方向にそれぞれ安井の代表作が
あり、日本の写真史上、これをしのぐ「芸術的に香り高い、社会的に内容の深い作品」はな
いと彼はいった。土門はその衝撃をバネに、リアリズム写真の王道を歩もうとした。
 我執の強い彼だが、負けたと思えば正直に敗者の弁を語る。彼は人間がキレイで純粋なの
である。                              
    

       「 検 束 」 安井仲治 1935

         「 蛾 」 安井仲治 1935
   
 以下は、土門の安井仲治の作品への感想である。
 後者の代表作は、「蛾」である。息子が入院している病室の窓ガラスに一匹の蛾が止まっ
ている。「モチ−フの蛾と安井さんの気持ちが一分の隙もなくからみあって、作品「蛾」は
安井さんの暗い不安な気持を、永遠に語り続けている」。
    
 前者の代表、いわば自己解放的な写真の名作は「メ−デ−」と「検束」で、「これは1935
年の大阪メ−デ−を写したものである。作品「メ−デ−」は赤旗をもってメ−デ−歌を歌っ
ている2人の労働者のクロ−ズ・アップである。「検束」は検束される労働者と検束する警
官とを地上に写った影だけで暗示したものである。それらの作品は、あの治安維持法時代の
警察政治の暗さを、今に伝えて余すところがない。もっとも鋭い、そして深いリアリズムな
のである」という。 
    
 以上は、都筑政昭氏の実証的な労作『火柱の人 土門拳』の中に見られる言葉であるが、
この話は、ぼくも土門さん自身の口から聞いたことがある。(以下、わかりやすい都筑氏の
著作を引用し、要点のみを記録する)

          
                

 「 リアリズム宣言 」 

    
 土門は、1950年からはじめ、8年間にわたるアルスカメラの月例選評のなかで、プロ15
年の実戦を通してつかんだ写真論や方法論を次々と展開した。
    
 その最初のスロ−ガンが、「カメラとモチ−フの直結」で、カメラとモチ−フの直結こそ
が優れた芸術作品の基本条件だといい、さらに次のスロ−ガンは「実相観入」であった。 
 実相観入は、斉藤茂吉が唱えた短歌の写生理論であり、表面的な写生だけでなく、対象に
自己を投入して、自己と対象がひとつになった世界を具象的に写そうという理論である。 
 彼は「カメラとモチ−フの直結」ないし、「実相観入」こそは古今東西のあらゆる造形芸
術の大道であるといい、これが土門の実質的なリアリズム宣言であった。
       
    

「 絶対非演出の絶対スナップ 」

   
   
 月例選評をはじめて3年目、1953年には彼のリアリズム写真の決定的スロ−ガンとして、
さらに「絶対非演出の絶対スナップ」を打ち立てた。
    
 彼は「絶対非演出の絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真だけが、社会的現実
そのものに直結するもので、「絶対非演出」は演出的作為が少しでも加わると底の浅いもの
になる。                                     
 「絶対スナップ」はモチ−フに体当たりして、電光石火、直感的にシャッタ−を切る。こ
れは、カメラとモチ−フの直結ですでに学んだリアリズム写真のベ−スである。「絶対非演
出の絶対スナップ」は、その次元を越えたスロ−ガンで、より社会との結びつきを鮮明にし
たものだ。
    
 傷痍軍人、浮浪者、浮浪児、パンパン、混血児などは、敗戦日本の最も典型的な現象であ
り、存在である。社会的リアリズムの立場からは重要なモチ−フである。反対者がどんなに
「乞食写真」とののしろうとも、それらをモチ−フとすることは絶対に正しいし、またしな
ければならない。                                
 今日ただ今、もつとも現実的な記録的な機能を持つカメラというものを手にしながら、そ
れらの戦争犠牲者から目をそむけている写真家は、日本民族の一人として、非人間的な背信
行為者であるとすら僕は思っている」という。                    
    
 こうなると、風景写真や花などを撮ってる写真家やアマチュアは、国賊だといわれている
ようで、またまた反論が始まり、自然を対象とした写真は、現実逃避かといつた論議にまで
および、土門への批判はエスカレ−トした。                     
 しかし、土門は馬耳東風、非難や誹謗を無視した。                 
 やがて、それは「ヒロシマ」、「筑豊の子供たち」につながった。
    
    
 土門ほど誤解されやすい人も少ない。土門教の信者にもそれらがたくさん見られた。
 「リアリズム宣言」「絶対非演出の絶対スナップ」とは、非常に簡単に言えば、『モチ−
フの発見とシャッタ−・チャンス』、それを瞬間に結びつけるのが近代写真のひとつである
ということである。                                
     
 ところが親切一途な彼の説明は、強調するあまり話がエスカレ−トすることも多かった。
 「きちんとみんな入っているのがいい写真ということではない。一番大事なことは、まと
めるよりもシャッタ−・チャンスの決定がいきいきした瞬間にあることだ。ゆっくりピント
をあわせて、よけいなものを切って画面をうまくまとめようとすると常識的な写真しかでき
ない。だからよいモチ−フに出会った瞬間、ファインダ−なんか覗かずに、カメラをモチ−
フに向けてシャッタ−を切るのだ」といった表現さえする。  
    
 また、「少なくとも、寝顔というものは、絶対非演出の世界である。だから、最もリアリ
スティックな人間像としての肖像を追求するならば、寝顔こそ撮るべきではあるまいか」と
もいつたことがある。
 さらに、「女の一番美しい顔を撮ろうとするなら、その女の情夫になるより仕方がない。
モデル対写真家の関係で撮れる女の美しさなどは、高が知れたものだ」などという。  
   
 そんな影響もあってか、月例応募には、ボケ、ブレ写真をはじめ、破れかぶれの写真や浮
浪者の寝顔などが氾濫し、意図不明、不思議な写真が続々と送られてきたという。
 世界のスナップ・ショットの名作は、絶妙なシャッタ−・チャンスで、内容、構成ともに
それぞれユニ−クですばらしいものがある。土門の話の性急な直訳は一考を要する。
     
 土門を誤解している人は、土門の一面しか見ていない。
 土門の仏像の撮影や周辺の風景など撮影の大半は、モチ−フ、被写体の凝視に費やされ、
撮影時間の三分の二はじっと眺めている。大事なものは、見れば見るほど魂に吸いつき、不
必要なものは注意力から離れるという。しかし、撮り出したら早い。仏像も、風景も気合い
は、絶対非演出の絶対スナップなのだ。                       
 彼はスナップ・ショットにふさわしいモチ−フも日頃からしつかりと見つめているはずで
ある。必要な条件は、頭にインプットされていて、電光石火の一瞬にもひらめくのだ。
                                        
     
 こうした話は延々と続き書き切れないので、この辺でリアリズム宣言のあったごく初期の
土門、木村両氏の作品の一端を掲載するので、スナップ・ショットのあり方の参考にしても
らいたい。
    
 それぞれ、ポ−トレ−トと、市井の子供たちや青年のスナップ・ショツトを並べてあるが
これには理由がある。ただ1人の人物写真と不特定多の人物写真をならべ、これらの撮り方
も併せて比較すると、作者の見方、取組み方がよく分かるからである。   

     

 

梅原龍三郎  土門拳

しんこ細工(浅草) 土門拳 1954         

    

土門拳の作品

   
  彼は、被写体になった人物から強力な印象を受け、また相手に強烈な印象を与え、まさに
一期一会の思いですべてのポ−トレ−トを撮ったという。
   
 彼は撮影前にその人物の資料を能うかぎり読み、業績を頭にたたき込んだ。      
 そして、尋常一様には人物と接しない。納得行くまで食い下がり粘り抜き、カメラに向か
ったら最後、相手が超一流でもただの被写体になる。
    
 「玄関払いを食わせるような手ごわい相手ほど、反っていい写真が撮れる。玄関払いを食
ったら、写真家は勇躍すべきである。写される人に押されてはろくな写真はできない。写さ
れる人が「あなた任せ」の心境になるまで押しきらなければだめだ」、気力次第だという。
    
 見かけによらず、大のフェミニストだった土門だが85人のポ−トレ−ト中6人しか女性
を撮っていない。「僕の撮りたい女性は、目鼻立ちのととのったいわゆる美人ではなしに、
内なる精神的なものが外にあらわれても、顔の豊かな深い美しさが湛えられている御婦人で
ある。外面的な目鼻立ちの美のむなしさを知っている御婦人である」といっていた。

       

秋田おばこ 木村伊兵衛 1953

青年 (秋田市) 木村伊兵衛 1953

      

木村伊兵衛の作品  

   
 木村伊兵衛といえば「ライカ使い」の名手として並ぶものがない評価を得ていたことはあ
まりにも有名であるが、プリントの美しさも抜群であった。
    
 彼は写真を見て感心したとき、しばしば「イキなもんですよ」という口ぐせがあったが、
彼が相手が知らぬ間に撮ってしまうのもそんな現れであろう。 土門とは正反対である。 
 彼はカルチエ・ブレッソンに傾倒していた。それはブレッソンが現実をみつめながら、そ
れに寄りそうようにシャッタ−を切るので、その写真はメッセ−ジを逸脱し、常に現実の多
様性を含み込んでくる。そんなところを肯定していたからであろう。
 彼は一枚一枚で語ろうとした。また、絵画に近い写真を「間がいい」という言い方で嫌っ
ていた。                                     
    
 写真ジャ−ナリストの草分け名取洋之助は、「木村の写真は人の目をひきつけている時間
が長い。それはその内容に訴えるものがあるとか重大なことを物語っているためではない。
 木村の写真の味というものは、文章でいう行間を読むのと同じように、視点が移動する間
の時間が、そのモチ−フや写真の調子と共に大いに関係していると思われる」と言ったが、
この言葉は木村の本質を見事に言い当てているように思う。

      

    
   

 余談あれこれ
 とにかく、当時、これだけ対象的なお二人は、アマチュアにとって教祖のような存在にな
り、その影響はそれぞれカメラやレンズにまで及んだ。                
    
 土門さんが「ぼくは、普段自分のライカにもニコンにも35ミリをつけっ放しで、自分が
撮ったネガの95パ−セントまでが35ミリである。35ミリという、このやや広角のレン
ズが『絶対スナップ』には一番適しているからである。それは一番肉眼とレンズのズレが少
ないということでもある」。
                                         
 こんな話がカメラ雑誌に載ったので、「土門教のアマチュアは、いつせいにカメラに付い
ている50ミリレンズを売って、35ミリにつけ替えた。カメラ屋のショ−ケ−スには後家
になった50ミリがだぶつき、35ミリの生産が間に合わなくなった」などという話はまゆ
つばものだが、これに近い現象があったのは事実であった。
    
 一方、木村さんはライカ使いの名人だけに、ライカ・クラブのリ−ダ−であった。   
 カメラはライカのみ、50ミリレンズを基本とし、長短様々なレンズを使い分けていた。
そして、カルチエ・ブレッソンの信奉者だったためか、ノン・フラッシュ主義で自然な雰囲
気をことさら重んじていた。                            
    
 そんなわけで、レンズのボケ味を大切にしていた。例えば室内の自然光だけでバ−テンダ
−にピントを合わせた時、十分に絞りを絞れないのでバックのガラスのボトルはかなりボケ
るが、そのボケを伴いながらの質感がガラスなのか金属なのかの正しい表現は大切だ。  
 そんな厳しい条件でも、ライカのレンズはそれがガラスであることを表してくれる。それ
がライカを愛用する理由のひとつだという。
    
 現在はレンズのボケ味を問題にする人は、ほとんどいないが、この時代は国産の大口径レ
ンズが出始めた時で、ぼくも各種レンズのテストをしたことがあった。         
 ボケ味はなめてみてわかるものではないから、その判断は非常に主観的な好き嫌い、印画
の硬軟の調子にも大きく左右されるので、最後は趣味的なものとみなされたが、ぼくは憧れ
もあって当時は、ライカのレンズのボケ味がお気にいりであった。
     
 ライツ社が新しく発売した軟焦点レンズ、タンバ−ルをいち早くテストした木村さんが、
その優美なフレア−のあるボケ味のすばらしさを褒めた時、経済的な余裕のあるライカ・ク
ラブの大半があっという間に入手していたというのは、土門教の人たちと同様であろう。
     
 土門さんは絞り第一主義、できるだけ小絞りにしてシャ−プにすることで、いかにモチ−
フのマチエ−ルとフォルムを正確に写すかは、彼の表現を借りれば、視覚的であると同時に
触覚的な美しさ、「写真的肉体」の表現を重視するということで、必要ならフラッシュもフ
ル活用するという。                                
 このあたりの考え方には、双方に大きな違いがある。 これも写真表現の多様性である。