part.33                       写真表現の多様性 

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  このところ特殊技法の解説が続いた。これは更に続くので、今回はちょっと趣向を  
 かえてスナップ・ショットと日本におけるリアリズム論を紹介することにした。
  写真の種類を分けるのに、今でも人物、風景、スナップという人があるがこの分類  
 はかなりおかしく、つじつまが合わぬといわれたのはもう50年も前のことである。  
    
 人物、風景はモチ−フ、被写体を指す言葉であるが、スナップはモチ−フでも被写体でも
なく、スナップ・ショットつまり早撮り写真という意味で使われ始めた言葉である。早撮り
の可能は、感光材料の感度が高くなり、カメラのレンズが明るく、形が小さく手持ち撮影が
できるという写真機材の進歩からである。                      
     
「小型カメラとアングルの自由」
 1926年のライカ発売に代表される小型カメラ続出は、写真の3大特性つまり瞬間の固定・
精密描写・グラデ−ションの表現に加えて、「アングルの自由」と「遠近感の解放」という
従来の絵画的な構成を越えた写真による新しい視角を駆使することになった。
 スナップが目的でなく、手段方法だということが理解されれば、スナップ技術を応用して
表現できる世界というものは無限の広がりを持つものだということに気がつくはずである。
    
 ぼくは、Part28 の裏話の「フォト・エッセイストになり損ねた話」で述べたよう
に、ペンキ屋一家をテ−マにして相当数のスナップ・ショットをしたが、その出版が中止に
なったことから広告写真への転向で、いわゆるスナップ写真は少ないが、今回はそれらの中
から視覚の自由、つまり「アングルの自由」と「遠近感の解放」という話の題材として、い
くつかを捜し出して解説を試みることにした。

 

     

              楽 屋     玉井瑞夫  1965                 

    
     
    

「 楽 屋 」

   
 これは、当時人間の視覚に一番近いといわれた標準レンズ 50ミリ。F2ズミタ−ルを
つけたライカ3Fによる真正面からの、衣装とお白粉の質感描写も重視した撮影だが、この
レンズのにじむようなボケ味の美しさが効果的であった。
     
 モデルは、知人の地唄舞の名取、後に一派を興した神崎ひで女さんの若い頃の姿である。
 舞台撮影を依頼された当初、茶道や華道のような一般教養的なお稽古事のうち、日本舞踊
の藤間流など子供のときから入門して身につけるものかと思っていたら、地唄舞に限っては
これが大間違いであった。
     
 日本舞踊の多くが、一種のきまりどころ見栄を切るようなところを撮れば、踊り手には喜
ばれるといったことだが、地唄舞にはこれがない。どこでシャッタ−を切ってよいものか、
理屈を越えた感性で見ていなければわからない、ということが解った。         
 
 観客の方を向いている時は全くマバタキもしない修練もあるというこの地唄舞は、動きが
超スロモ−で相当に上達しなければ格好がつかず、舞台には上がれない。踊りは遅いものほ
ど難しい。素人目にも上手下手が一目でわかり、子供にはとても向かない。       
 やがてこれが京舞に近く日本舞踊の中では、能に一番近いもので、演題も「葵上」など能
と共通するものが多いことがわかり、ぼくは改めて見直すことになった。
     
 彼女自身も古典芸能に対しても前衛的な姿勢での模索、工夫をしていたので、能の精神を
舞踊ではどんな形に表現できるものか。そんなことからぼくはテ−マを持ち、舞台だけでな
くその周辺も写すようになった。テ−マをもつということはそれだけ深くなり、ただの見る
から洞察に変わる。                                
 この作品は、間もなく舞台が始まる直前の緊張した華やぎのある一瞬を捉えようとしたも
のである。バックの女性はお弟子さんたちで環境説明の一助である。   

                  


    


           稽古待ち     玉井瑞夫 1962                            
   
   
     

「 稽古待ち 」

    
 これは、真上からのカメラ・アングルの一例である。
 この作品は思いがけないチャンスから生まれた。広告写真でも、時折普通のモデルさんで
は間に合わぬことがある。ある時、生命保険の雑誌広告の依頼で、コピ−のタイトルが「目
に入れても痛くない」というのがあった。つまり赤ちやんにかける保険に、父親がそんな顔
をしたクロ−ズ・アップの写真をメインに載せたいということである。
                                         
 ぼくは、「目に入れても痛くない」という顔が心象的には想像できても、具体的にはどん
な写真になるかわからない。下手をすると漫画になりかねない危惧もある。そんな時、ぼく
は新劇の役者を頼むことが時々あった。この時、ぼくのイメ−ジに出てきたモデルは民芸の
内藤武敏さんで、彼に連絡して民芸の稽古場で会うことになつた。      
    
 少し早く着いたぼくは、しばらく待つ内に、この日は大物の女優が椅子に掛け、待ち疲れ
てか居眠りをしている人など7名の劇団員と誰かが連れてきた犬1匹もいるといった、ちょ
っと変わった情景に、急に写真を撮りたくなった。                  
 こんな恵まれた条件をどう料理するか、どんな表現をすべきかを思案する内に、ふと中二
階の踊り場が目に入った。これ以上のカメラ・ポジションはない、「シメタ、出来た」と思
ったものである。        

         
               

            知恵の輪    玉井瑞夫 1968                      
   
    

「 知恵の輪 」

    
 これは真下からのカメラ・アングルである。
 この作品は、アメリカのフォ−チュンという雑誌で日本の企業の特集があり、ぼくは富士
製鉄を担当し、その企業広告として制作、掲載したものである。            
    
 ぼくはこの頃、どういうわけか鉄やアルミなどの金属の大手の広告の仕事が割合多かった
ので、それらの重い企業広告との競合は容易に想定できたので、金属の塊をもろに出すこと
は避けて、こんなソフトなものにした。これは正解だったらしく、クライアントにはあの雑
誌のなかでは風変わりで、充分人々の目を引き止める効果があったいわれた。      
    
 このモデルたちは3人とも素人である。ぼくの自宅兼スタジオは南麻布にあり、この辺り
は外国の公大使館の多い場所で人種もいろいろ、そこに勤める外国館員の家族も日頃からの
犬友達や顔見知りがあってモデルは容易に依頼できた。
    
 鉄は知恵の輪ひとつ。演出されたスナップ・フォトである。             
 はじめ目の高さで遊んでいるところを撮っていたが、どこかで見たようなものにしかなら
ず、一眼レフのハッセル・ブラッドで下に潜り込んでからやっと調子が出て、このアングル
を主体とした1枚がこれである。
    
 いずれにしても、「知恵の輪」「稽古待ち」のような真下から、真上からといった表現は
絵画にはほとんど無かった。1920年代の新興写真運動から始まった絵画追従を否定する写真
独自の視角は、今日では至極あたり前のことになったが、もっと活用されてよいと思う。

       
                 

    

      

 日本のスナップ・ショット、スナップ・フォトの歴史にふれる時、多くの先輩たちの顔が
浮かんでくるが、中でも土門、木村のお二人は特に印象深い。             
 ぼくは初めは編集者として、続いて写真家としておつきあいをしてきたので、通り一遍の
誉め言葉を並べても意味がない。ぼくの見たお二人の素顔、作品についての率直な私見を述
べることにしたい。
    
   

土門拳のリアリズム論

     
 土門拳のスナップ・ショットによるリアリズム論なるものは、ぼくがまだ大阪にいた1950
年から始まったアルス・カメラの月例選評で知っていたが、丹平写真倶楽部の前衛的、シュ
−ル的といった作品が部屋いっぱいに並ぶ例会に浸っていたぼくには、まったく別世界のこ
とのように思え、土門の論旨は理解できたが特に関心を持つことはなかった。  
   
 それがわずか2年ほどの間に、様子が変わってきた。
 土門が月例選評をはじめてから、彼のいう「カメラとモチ−フの直結」、「実相観入」に
影響されたアマチュアの応募写真のモチ−フは一変し、花鳥風月は姿を消して、生活臭漂う
人間や社会にカメラが向けられるようになった。
    
 そんな時期、1951年、銀座で丹平写真倶楽部東京展が開催され、久々の戦後はじめての丹
平展には、初日から各写真誌の編集長やマグナム社のウエルナ−ビショッフ、木村伊兵衛、
林忠彦、三木淳、亀倉雄作、土門拳、渡辺好章その他トップクラスの人々が現れて絶賛、肯
定されたが、その後の座談会の席上で、土門は物議をかもす発言をした。
   
 土門は、雪の降りしきる「東大寺」の作品(佐保山尭海作)を採り上げて、「僕は買わな
いね」と至極アッサリという言葉とその説明に他の出席者は驚いた。          
 土門が買えないという理由は、「佐保山君は東大寺の坊主である。雪は作品で見るごとく
霏々紛々と降りに降っている。ああこの雪ではお賽銭の上りは少ないなあ、というそうした
坊主の気持ちが作品に出ていない。出るように写さねば駄目ですよ」という。土門という人
の気質を知らない人には、こんな見当違いの評論では返答のしようがない。
    
 この霏々と雪降る「東大寺」の作品は、シンプル明快な表現で奥深く、時空を越えて天平
時代の東大寺もかくやと思わせる秀作で、まさかお賽銭云々といった批判がでるとは思わな
かった。(この作品は、ウエルナ−・ビショッフの推薦でスイス・カメラに掲載された) 
 後に、ぼくは土門氏と親しく口が利けるようになった時、この件で抗議したら、ケロッと
した表情で、いともアッサリ「あれは言い過ぎた」といった。
    
     
 この後、リアリズムの大道を目指す土門は、先輩の木村伊兵衛批判もやってのけた。
 「かって写真評論家田中雅夫氏は、その木村伊兵衛論において、木村氏をもってリアリズ
ム作家と規定しているが、僕個人としては、当時も今も木村氏の作家的本質は、リアリズム
ではなく、前近代的なナチュラリズムに過ぎないと規定すべきであるという反対論を持ち続
けている」という。これは先輩木村氏を斬ることで一層土門リアリズムの本質を浮き彫りに
しようとしたものであろうという意見もあった。
   
  その後、土門はリアリズム写真の決定的スロ−ガンとして、絶対という強い表現を冠して
「絶対非演出の絶対スナップ」を打ち立てた。       
 「絶対非演出と絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真だけが社会的現実そのも
のに直結するという可能性としてここにある。リアリズム写真は現実を直視し、現実をより
正しい方向へ振り向けようという抵抗精神の写真的な表現としてあるのだ」。
   
 「保守派の人々は、この今日只今の現実から目をそらし、現実から逃避して個人的な主観
の中にあぐらをかいて、いわばこっそり精神的なマスタ−ベ−ションにふけっているのであ
る。道楽や手すさびで社会的にも文化的にも意義のある一流の仕事がなされたであろうか」
ときめつけた。
 土門はこうした理論で、保守派と目されるサロン・ピクチュア−への総攻撃を始めた。 
    
    
 出る杭は打たれる。その反駁は当然起こるべくして起こった。
 写真評論家田中清隆は、「土門氏のごとき狭いリアリズム論に制約される必要はない。写
真界が社会悪やパン助や乞食写真や貧民窟写真に限定されては重大事と考えねばならない。
 その狭義のリアリズム一辺倒をもってアマチユアを指導しようとするところは、非常な害
毒を流す結果となるであろう」と抗議した。
     
 土門は自らアルスカメラに『街』や『今日に生きる』などのシリ−ズものを発表した。 
こうした写真はただちに応募者に影響し、毎月、相当数の浮浪者や傷痍軍人の写真が応募さ
れ、モチ−フもリアリズム写真が圧倒的になった。土門の畏友亀倉雄作が土門の写真を評し
て、「乞食写真」と悪口をいったことには、両人を知るぼくにはおかしく愉快に感じた。
   
 こうした論争は、土門が8年間の月例選評を終えるころまで続いた。ぼくはずっと客観的
な立場で見ていた。論争の下手な日本人がこれだけよくやるなと感心していたが、後半のリ
アリズム運動はマンネリと停滞が顕著でやがてスロ−ガンも錆び付いてきたように思えた。
 やがて、それはコンテンポラリ−・フォトグラフィ−という賛否両論飛びかう写真時代を
迎えることになった。      
 
    
   

玉井の見解

    
   
 土門拳氏は、敗戦後の虚脱状態にあった時、リアリズム写真の認識と可能性について、真
摯な姿勢で土門リアリズムを提唱した。ぼくはこれを大きな功績と評価していた。    
 純粋一途、異常な執念を見せる彼は、のめり込むと時折脱線はしたが、こうしたリアリズ
ム論はやがて「古寺巡礼」に結集・昇華して、プロとしての充実した作品を世界に残すこと
になったとぼくは思つている。
      
 土門氏の全作品を収蔵した酒田市の土門拳記念館には、開館記念日の撮影会の指導など頼
まれて、じっくりと何度も見直して来たが、あの特大サイズの仏像写真は見ごたえがある。
当今、大伸ばしするとかえって貧弱で保たない写真が多いが、彼の造形は強靭なのだ。  
 チャンスをみて、ぜひ立ち寄られることをお勧めしたい。
    
     
 木村伊兵衛氏は、その融通無碍、ナイ−ブな姿勢から大アマチュア写真家といった人で、
木村流のさりげなく匂うような女性写真には、秋山庄太郎も及ばぬ独壇上のものがあった。
 1952年からはじまった秋田への撮影行は、木村氏が戦後という新たな時代を生きはじめる
転換点となったが、秋田の一連の作品がぼくには一番の秀作と思えた。         
 彼は土門氏のような論客ではなかったので盟友の写真評論家、伊奈信男氏が折々にその代
弁をしていたように思う。
    
 今、手元にライカクラブの例会で木村氏がしゃべっているテ−プがある。彼の指導にはダ
メという言葉はなく、懇切丁寧、こうすれば良くなるという具体的な指摘ばかりである。 
先程からこの声を聞いていると、真面目な話に落語家顔負けのとんでもないオチをつけ、何
度も大笑いをさせられた<伊兵衛節>を思い出した。彼は艶話の名手、大先生でもあった。
    
    
  土門拳のリアリズム論は、実技としてのスナップ・ショットも含めて、日本の写真  
  史では珍しい出来事であり、一応は知っておくべき内容と思うので、「裏話」にそ 
  の概略を掲載しておいた。

         

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