ぼくは、part9の裏話で、丹平写真倶楽部の東京展のために上京したことがきっかけ
で、1951年11月に玄光社に入社し、写真雑誌「写真サロン」の編集部に勤務することになっ
たことを述べた。
ぼくは、オリジナルの写真のことなら全紙のプリントをやってきたので、すぐ引伸の原稿
などを書くようになったが、編集・印刷については全くのズブの素人だった。
それが、2〜3ケ月もすると持ち前の好奇心から印刷に非常な興味を覚え、出張校正など
自ら志願してゆくようになった。それは写真の製版や校正の現場が見られるからだった。
写真誌のトップ・ペ−ジは、ア−ト紙に刷られるプロ写真家の作品で、仕上がりにはこと
さら気を使っていた。この最重要な口絵は松本精喜堂という小さな町工場で印刷していた。
一般の応募作品や本文は大日本印刷といった大手がやっており、ぼくは本末転倒かと思っ
たが、この町工場のおやじさんと親しくなるにつれて、この人が凄腕の持ち主であることが
わかり、合点がいった。彼はぼくのむつかしい注文に応じて、針で点をけずりおとす技術な
ども見せてくれた。
後に、カラ−写真の製版や印刷の実態を知るほどに、印刷物の仕上はかなり工芸的性格が
強いことがわかり、ある場合には名人芸といわれる技量が要求されることを知った。
それは原色版印刷等ではカラ−写真の連続諧調と印刷の網点諧調の本質的な違いによるた
めであった。
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