part.32  

写真特殊表現 - 1

< カラー写真における現実と創造の接点 >
    
   
 ぼくは、生来の好奇心から写真の特殊表現といった分野に足を踏み入れることになり、そ
のいきさつは裏ペ−ジに述べてあるが、こうした問題の先駆者の一人であるラズロ・モホリ
・ナギ−が、カラ−写真の将来について示唆を含めた言葉を残しているので、金丸重嶺先生
の著作から原文のままそれを紹介しておきたい。
    
 ついでながら、こんな直訳的な文章は性急に読むと堅苦しく、ことさら難しく感じるもの
でゆっくりイメージしながら言葉どうり、素直に読んでゆけば分かりやすいものである。
   
   
 ナギ−は、「最高の期待はカラ−によるフォトグラムを征服することにある。」と言い、
「カラ−バル−ルの真の力学的表現は、直接の光の展開による継続と構成が、純粋な光学的
法則と視覚的基礎によって統一されることによって創られる。」
    
 「写真や映画の中の一般の写実的幻想の意味から切り離されるところにいくまでには、多
くの時間を要することであろう。」
    
 「そこでは、色彩は物体をあらわすサインやシンボルとしではなく、それ自体が本来の形
として理解されることになるであろう。このように内容からはなれて光による色の形を創造
することは、たぶん抽象的な映画や静力学的なカラ−・フォトグラムの方向に発展させてい
くことができるであろう。」という。
   
    
 ナギ−の意見は、純粋な意味でカラ−のマテリアルに触れている。カラ−フィルムの出現
は、初めは色のない黒白写真よりも、より現実感に近い再現ができると錯覚した人もあった
が、やがて進歩的な写真家は色彩の性質を考えて表現すべきあると考えるようになり、カラ
−は手でふれることの形象とは、全く関係のないことを知った。
     
 色は光の一部であり、光と同じように変化するものである。この形象を離れて変化しやす
い光を対象として、知覚された主観のなかに認識されたスケ−ルが、それぞれの個性を表現
するようになって初めてカラ−の芸術が生まれてきた。色彩を知覚した写真の表現は、形象
を通じたものより一層、強烈な影響を感情に与えるに違いない。
     
   
 ぼくの講座は、基礎としての大切な写真の特性や原点の話が多いが、法則やぼくの技法を
そっくりそのまま会得してもらいたいということではない。              
    
 創造するというただ一つの方法は、あらゆるものを試みることにあるとぼくは信ずる。 
 われわれは誤りをおかすことで、学び、発見する。また自分自身に対して常に批判的であ
り、瑛九のいう自己嘲笑の精神をもち、失敗に対しては、もう一度やり直す勇気を持たねば
ならない。そこで、はじめて、吸収し、知ることができる。              
 ぼくの本来の目的は、そうしたことのタッチトレ−ニングによる<浸透>である。   
                    
 この講座を見る人には、そうしたエッセンスを吸収してもらい、ぼくのいう何かを心の中
に残されて、成長を続けてもらいたいと希っている。これからの講座に掲載される作品は、
一般にはやや特殊かもしれないが、エッセンスは伝えられるとぼくは思っている。
      
 ぼくの試みは、いわゆる写真表現におけるあらゆる可能性の実験である。今回掲載したも
のはその手始めで、対象の一般的なリアリティを破壊して、色光の世界のリアリティを創る
ことを考えたもの。ポスタリゼ−ションはその道程の第一歩であった。        
   
 ここに掲載した「海」「鳩」の2点の作品は、劇的なクライマックスではなく、視覚的
 なクライマックスの表現である。

 壁   アムステルダム 1966
     月明の壁    玉井瑞夫 1967

       

「 月明の壁 」

    
 これは、アムステルダムの運河沿いに建ち並ぶ歴史的な古い倉庫群の一部である。  
 ぼくはこの時期、学習研究社の原色百科事典のため、ヨ−ロッパ各地の代表的な風物を撮
影して歩いた。その写真は百科事典という性質から、誰でもがすぐ理解できる代表的、象徴
的、普遍的といった表現が要求される。                       
 といって、その辺で売っている絵はがき風では、わざわざぼくが撮りにゆく必要はなく、
そのへんを心得た写真というものは、結構むつかしいものだと実感する日々であった。
    
 この写真は、そのタイトルから本物の月明の風景と思われた人があるかも知れないが、左
側にある午後の壁を元にしたポスタリゼ−ションによる作品である。          
 いたずらっ気からつけた題名だが、ぼくはこの近くを月夜に通ったことがあり、その時の
印象をイメ−ジして表現したのでかなり実感に近い。青白くコントラストが強く、シャド−
はつぶれてしまうが、色目はある程度わかる。
     
 こうした表現における諸説、諸問題は、追々にこの講座でとり上げ、解説したいと考え
ている。

   

                

ポピー B  1970

ポピー A  玉井瑞夫 1970

「 ポピー 」

 ぼくは、花は好きだがわれながらあきれるほど知識に乏しい。はじめ芥子もポピ−も同じ
花だと思っていたぐらいであった。
 それが写真家になって、ものを見つめる習慣がついてから、横から見ると芥子は枝わかれ
して花がつき、ポピ−は地上から1本づつ茎が伸びて花がついていることに、やっと気がつ
いた。でも上から見るとほとんど同じに見える。全体の印象は、芥子のほうが姿がしっかり
しているように思える。
    
 ポピ−は、どこかしまりないように見えるが、自由で野放図なところが良い。     
 ぼくは、そんなポピ−の花を思いきり変身させてみようと思ったのがこの作品になった。
     
 この一輪はありふれたフォルムで黄色い花であった。それにライティングでハイライトか
らシャド−まで明暗をつけ、モノクロ−ムでの撮影が原画である。
 後はこれらのト−ンを4段階に分けて、ネガ、ポジのマスクを作り、カラ−・バランスを
考えながら、暗室で色光を露光するだけである。露光時間はカラ−チャ−トで算出する。
    
 この作品は、小型映画という本の表紙を目的としていたので、このままでは店頭効果が弱
いため、別に線状の色光の動きを撮影してそれを合成した。掲載したA、Bはバリエ−ショ
ンで普通3〜4点の試作をする。バックへの色彩の入れ方、濃淡のグラデ−ションで相当の
変化がつくことがわかるだろう。

    
                         

              海      玉井瑞夫   1970

        

「 海 」

   
 この夕映えに輝く海をどう表現するか。「写真は現実と想像の接点の中に生まれる」とい
うエルンスト・ハ−スの言葉を思い出したぼくは、日没前の海を長々と眺めていた。   
 太陽が雲間からもれると、まぶしくて目をつぶるとまぶたの裏側に、波の輝きがハレ−シ
ョンのような残像として残り、さらに眼球を押えると赤紫のバックに青い玉が見えた。  
 夕日が弱くなると、刻々と波の色も変わり、やがて夕闇が迫って来た。 
     
 人間があるものを見ているとき、一つのイメ−ジは、すぐ次のイメ−ジの中にとけ込んで
しまうものである。したがって、表現に際しては、ある一瞬のイメ−ジをとらえるか、また
は動きのなかにある仮像の中にひとつの根本的な色と形をとらえるか、その何れをとるかが
最後の表現を決定する。
 実在というものは時間によって固定されないから、記憶と新しい写真技法によって、運動
のリズムの中に、実在を生き生きと表現することができるのではなかろうか。
     
 そんな時間的なト−タル、時間を抽象する作品をぼくはポスタリゼ−ションで表現してみ
ようと考えた。ただ、合成的な性質によって生じたカラ−写真は、化学的に総合された色合
いで、曖昧で欺瞞の結果をあらわす場合もあるので注意が必要だ。           
 カラ−は原点として手に触れることのできない光として意識しなければならない。光を対
象として知覚し、それがリファインされた時に、新しい創造が生まれるだろう。     
     
 この作品のポスタリゼ−ションでの表現は、海だけで空は原画のままである。
 このことは、ぼくが自然がもつセッティングの中から、その主題となるものを分離させる
という意識が重要なことだと考えていたからだ。それは単なる再現ではなく、物体を超越し
た意味を伝える要点となる。

        

         

   

             鳩     玉井瑞夫  1972

           

       

「 鳩 」

     
 この作品は、「時間」という実験の過程で生まれた。写真は、時間に対して特別な関係が
ある。われわれは自然に流れている時間を変えることはできない。しかし、写真家はこの時
間に対していかに対決するかという態度で、創造の時を表現できる。
    
 写真家は現在という時間の断片のなかで限りないテ−マを発見する。また現在という限界
のなかで、過去と未来を暗示することもできた。
 更に、露出時間が瞬間の固定といった時間を越えた条件、やや長い露出中に対象が動いた
場合には奇妙な結果があらわれた。つまり犬の頭が二つになったり、尾が一つの束になった
り、画像が流れたりする。
 これらの多くは失敗として扱われ、やがて人は時がたつにつれて見慣れてしまった。 
     
 しかし、このことはもし写真が生まれていなかったら、肉眼では経験できなかった視覚現
象である。この興味ある課題を歴史家が問題にしなかったのは不思議である。
 こうした写真は、写真家が明確さだけでなく、曖昧さのなかにあるものも表現できること
を発見した。そしてこれらの、時には神秘的なつかまえどころのないイメ−ジも、またそれ
自体のなかに、秩序と深い意味をもっていることを発見したのである。ぼくはこうした問題
の一環としての実験的な作品に熱中した時期があった。
    
 この鳩は、モノクロから創ったカラ−写真である。浅草の浅草寺で35ミリカメラ、モノ
クロで撮った一枚のネガから、ポスタリゼ−ションによるモンタ−ジュである。     
 この作品のポイントは、カラ−とモノクロのネガ、ポジの組み合わせの微妙な色と構成の
バランスによる、動きのなかの視覚的な時間の表現である。動きのなかの視覚ということは
空間と時間を同時に理解することである。
 この構成には試行錯誤、あれこれ時間を費やしたが、ほぼ我が意を得たように思った。
     
 カラ−写真では、カラ−エマルジョンの科学的記録と肉眼の心理的視覚の間には、まだ解
決できない多くの問題があり、ぼくはその実験を延々と続けることになった。

         

       

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