「 ポートレートというもの 」

フォト・エッセイスト になり損ねた話

     
 ぼくが、関西から東京へやってきて編集屋になった話は、この講座のPart7,15,
 17の裏話でした。                             
    
 ぼくは思い掛けない縁から写真誌の編集者にはなったが、写真の歴史も充分知らない恥ず
かしさから、毎夜、編集長の書庫にもぐり込んで、写真書を片っ端から覗いて見る日が3ケ
月続いた。そこで、出会ったのが「LIFE」に掲載され、1951年USカメラ賞を受け
たユ−ジン・スミスのフォト・エッセイ『スペインの村』であった。その瞬間は、文字どう
り目からウロコが落ちる思いであった。
    
 関西でぼくが所属していた丹平写真倶楽部の展覧会は、風景写真やオブジェが7割位、後
は特殊表現による前衛的な作品が出品されるといった状況から、LIFEという名前は知っ
ていたが、新聞社の事件写真の大判位にしか思わず、ほとんど見ることもなかった。   
 もしぼくが編集屋にならなかったら、知らないで通り過ぎていただろう。
    
 何枚かの写真を組み合わせ、ある主題を雄弁に語らせるこの手法は、1936年発行され
たLIFE誌が始めたが、この手法による数多い名作の中で、ユ−ジン・スミスの『スペイ
ンの村』は、古典的な傑作といわれた作品である。

「スペインの村」  ユージン・スミス 1951      
*これは、PR用のもので「LIFE」誌上では、数ペ−ジにわたり
 見事なレイアウトと印刷で展開されている。
   

   彼は主題にふさわしい古いデレイトサの村を捜し出すために1万キロも走破した。
   このフォト・エッセイは、フランコ独裁政権下を思わせる、眼光するどく厳重な警
  戒にあたる田舎の警察官のカットに始まり、貧しい村人の尽きることのない仕事に追
  われる日々、わずかな収穫にわく喜びの顔、悲しみにうちひしがれ死者をみとる厳粛
    さに満ちた瞬間などがヒュ−マンに表現されていた。
    
   ぼくは、まずこの警官たちの表現で示した彼のワイド・レンズによる力強い構成力
  にびっくりした。そして見るほどに、彼の写真家としての確かな視線は、その物事の
  解決はできないかも知れないが、広く世界にその真実、リアリティを伝えることがで
  きることを示していた。 ぼくは写真家としての在り方を強く考えさせられた。
    
 スミスに魅せられたぼくは、彼がぼくよりわずか5歳年上だと知り、そのすごさに圧倒さ
 れると同時に身近くも感じ、至極自然に俺も「スミス」になろうと思うようになった。 
     
 それは、瑛九のいう絵画の造形主義と対決する、写真本来の写された現実で訴えるヒュ−
 マニティあふれるフォト・エッセイを志すことである。(part 11 参照)

          

            

   

      

ペンキ屋一家と親しくなる

   
 それまで、ほとんど風景一点張りに近かったぼくは、人間のスナップをこころがけ編集の
仕事をしながらもライカをぶらさげて歩くようになっていた。
 チャンスは足元にあった。ある休日、池袋東口に近い6畳一間だけの狭いアパ−トに住ん
でいたぼくは、すぐ近所の空き地で遊ぶ子供たちをスナップしているうちに、カメラを向け
てもおじけない一人の子供と親しくなった。
     
 彼は小学1年生、通称「豆ダヌキ」とよばれていたが、名前が孝夫というので大人からは
「タ−坊」とも呼ばれていた。ぼくは子供たちの写真を届けてあげているうちに、その家族
にマ−ジャンに誘われるほど親しくなった。ペンキ屋というこの一家は21歳の長男を頭に
4歳の末女までいれて男4人、女3人。長男は15才から年季奉公にいったが今は一家の支
え、父親が仕事を取って来て長男が仕事をするという、まず代表的な職人一家である。
   
       
 ぼくがタ−坊を写し始めたころは、まだ戦後のきたないバラック建に住んでおり、破れ障
子から覗く彼の勉強姿などをスナップしていたが、やがて住宅公庫で2階家を建てた。それ
がしばらくすると不払いで差し押さえを受けた。でも、痩せこけたおかみさんは不機嫌な顔
で酒ばかり飲んでおり、おやじさんの顔はほとんど見かけない。            
    
     
 どうもおかしな様子だと思っていたが、ある日から、思いあまってか、おかみさんはだん
だん家の事情をぼくに打ち明けるようになった。つまり、その原因はおやじさんが池袋の飲
屋の女将に入れ込んで、朝帰りの常習犯。家のロ−ンの支払用40万の金が愛人の飲屋のた
めに使われていたということであった。                      
 結婚以来、25年の間に夫が浮気をしなかったのは、わずか3年間だけで終戦後だけで7
人もいる。ぐっすり寝込んだ夫の首にひもをかけようとしたこともあったという。憂さ晴ら
しに酒を飲むようになったのは割合最近のことだという。ぼくは、ウ−ンとうなったきり返
事のしようもなかった。              
         
 しかし、それらでぼくは納得のゆくことがあった。たまに、おやじさんの朝帰りに出会っ
た時の間の悪そうな顔。子供たちは父親が来ると、プッと席を立ってしまう。子供はきたな
い格好をしているのに、おやじさんはいつも真っ白いワイシャツを着ている。この一家には
父親を含めての団欒がないのだ。そのうちに、おかみさんの酒の飲っぷりも分かってきた。
彼女はぼくにお茶をすすめながら自分は一滴も飲まない、それは晩酌時の酒の味が悪くなる
し、効きめが悪いからだという。ここまで徹底すると泥酔状態にもなる。
  
    

一家の日々を見つめる

 そんなシ−ンがはっきり見えてきたぼくは、そのままの情景を写真に撮るようになった。
 つまり、こんな状況でも意外に子供たちの顔が明るいのは、母親への絶大な信頼感がある
からだろう。おかみさんが離婚しないのは、子沢山で、子はカスガイといった倫理観か、外
見はやせこけてとても肝っ玉母さんとは見えないが、子供への深い愛情と開き直ったような
芯の強さがうかがえた。あてにならぬ亭主、家を守る主人は自分しかないといった意識があ
ったのであろうか。
    
   
 ぼくは何でも克明に撮った。子供たちは、お母さんの味方だ。よくお手伝いをしていた。
小さい子は喜んでお使いに行くし、18才の長女と中学3年の次男は、長男を助けて家です
るペンキ塗りは手伝った。ぼくのカメラはつい子供たちの数多い年中行事に目がいったが、
父親がケ−キを持って帰らないクリスマス・パ−ティは末っ子には可哀想。七夕祭りでタ−
坊が短冊に書いた「ハヤクカエレ オトウサン」などの記録は空しかった。一方度重なる裏
切りのため、帰ってきた自宅でご飯を食べさせてもらえないおやじさんの顔などもあった。
   
     
 厳しい状況も、相当写した。そんなぼくを見ておやじさんは口もきかなかったが、ある時
「実は今晩飲屋のワイフが、おれの誕生祝をしてくれるから記念写真を撮ってくれないか」
という。ついてゆくと、普段はジャンパ−のおやじさんが芸人のような着物を着て、器用に
三味線を弾き、浪花節をうなり、「女遊びだけはやまらん」と上機嫌であった。     
 おやじさんは、背丈もありちょっと苦み走った良い男で、こんな場所がピッタリというタ
イプか。飲み屋の彼女のことを新劇の「杉村春子」そっくりというが、これは好みの問題で
そう見えるのかなというところ。とにかくおやじさんの希望どうり、写真はふんだんに撮っ
てあげた。本妻と妾、両方の状況がこんなに明確に撮れるのは珍しい。
   
     
 この一件以来、おやじさんは玉井びいきに早変わりで、男気をみせてか庭先にあるペンキ
用倉庫の中に、ぼくのために小さな暗室を作ってくれた。               
 そんなことから撮影はまったくフリ−になった。深夜たまたま暗室を出てきた時、娘がい
かにも健康そうな寝息をたてている枕元で、仏壇に向かっているおかみさんの姿をカメラに
収めたが、ロ−ソクと線香が消えるまで手を合わせていると気持がしずまるという。そのう
ちさらに新興宗教に入信し、渋谷の教団に足しげく通うところなど、この一家の日常のバラ
エティのある姿も撮れるようになった。
    
 これらの写真には、ひとつの効用があった。それはある日、写真に興味を示し始めたおや
じさんが、暗室に入ってきた時、ぼくはわざと問題のありそうなシ−ンばかりを大きく、六
っ切りに引き伸ばして見せたことである。                      
                                       
 暗室で、白い画面にだんだん浮かび上ってくる画像は、始めてみる人にはことに珍しく、
印象も強いものだ。はじめ、自分が飲み屋で歌っているところや酌をしている彼女の横顔な
どが出てくると大変なご機嫌だったが、そのうち、父親がほとんど家に居つかない家庭のあ
りのままの様子、どことなくわびしく暗い子供の表情やおかみさんの酔いつぶれた顔、仏壇
に手を合わせる深夜の情景などが出てくると、だんだん口数が少なくなった。      
    
   
 おそらくこんな経験は初めてのことであろう。さすがのおやじさんも、これらの写真には
かなりショックをうけたようであった。家族に疎外された自分も感じたであろう。ぼくに向
かってしきりに「悪い親父だな」、「本当に悪い親父だ」といい、リアルな写真を前にして
自分の非を認めるような言葉を口走った。あけっひろげで涙もろく、イサミ肌。職人気質の
おやじさんはそんな人でもあったようだ。
    
 その数日後、ぼくはおやじさんに「これをまとめて本にしたいが、いいだろうか」と聞く
と「本当のことだから仕方がない。少し恥ずかしいが、まあいいだろう」といった。   
     
 偶然だったが、この日のショック療法のようなできごと以来、おやじさんの外泊は殆どな
くなり、ぼくの目には少しは身を慎む風が見え始めたようで、おかみさんの顔もいくらか明
るくなったように思えた。しかし、こうした問題はそう簡単に片づくものではなかろう。そ
れが永続する可能性も保証もできないものであろう。                 
 その結末が分かる前に、この写真に対する問題が起き、答は見えなくなってしまった。

                    

               

      

ザ・ライフ・オブ・アン・オカミサン

   
 勝手気まま浮気ざんまいのおやじさん、たくさんの子供を抱えて苦闘するおかみさん、子
供たちの教育はどうなるのか。
 こうしたテ−マは、古今、東西、余りにもありすぎる愛憎問題、その影響をもろに受ける
家族たち、平凡というか、舞台なら誇張もできるが写真にはなりにくいテ−マである。訴求
力も弱いかも知れない。だが、ぼく流の考え方では、こうした日常茶飯事、フラットに見え
る問題こそ、真剣に取り上げるべきだと思うようになっていた。
     
 こんなぼくの考え方を支持して相談に乗ってくれたのが、朝日新聞出版写真部の吉岡専造
氏であった。彼は例の「人間零歳」の作者である。                  
 彼は、八分通り揃ってきたキャビネ判のプリントを見て、「地味だが、これだけの写真な
ら組み方で相当のものになると思う。出版の方は俺が引き受ける。本番のプリントといわず
今日からでも朝日の暗室を使って、印画紙も好きなだけ使っていいよ」といってくれた。 
   
 「問題は、タ−坊という子供の目から見たものにするか、おかみさん中心とした組み方に
するか。プライバシ−の問題は、おやじさんがOKというのならいいのではないか。」とも
いわれた。<ザ・ライフ・オブ・アン・オカミサン>は、海外展なら、こんなタイトルはど
うだろうということだった。

              

            

    1954年7月24日  婦人タイムス

「フォト・エッセイ」が紹介された新聞記事     

           

               

すべては裏目に

   
 ぼくはその頃、写真サロンの編集部をやめて、フリ−でカメラクラブ、サンケイカメラ、
カメラ毎日などに写真の撮影技術をグラビア・ぺ−ジで解説する仕事をしていた。フリ−に
なると、交遊も広がり、ある日、顔見知りの「婦人タイムス」の記者が遊びに来ていた。 
 婦人タイムスは、婦人運動家の神近市子が社会党代議士になって主宰した週刊の新聞で、
一応信頼のおける新聞であった。この記者がペンキ屋一家の写真を見つけ、ちょっと貸して
くれないかというので、安易に渡したのが大変なことになってしまった。        
                                      
 数日後、彼が電話でとてもいい話だからちょっとした記事にしたいという。ぼくはどうせ
小さなカコミ記事ぐらいだろうと予想して、簡単にまあよかろうと返事した。 
 それから2、3日して送られてきたのがこの記事で、ちょっとした記事というのが、写真
も全部使って7段ぬき、3分の2をさいたこの大きさである。             
    
 彼の書き方は話を面白くするためだったろうが、第一、「カメラが招いた家庭の幸福」な
どといった大げさな見出しが気にいらない。ぼくが伝えようとしたものは、そんな安易なも
のではない。そんなカメラ美談などで救えるような問題ではない。           
 さらに、これはあらゆる矛盾をはらんだ人生、そんな中での一家を守る庶民、或るおかみ
さんの厳しい奮闘記だなどといった安易な姿勢で撮ったものではない。ぼくは人間の宿命の
ようなものを感じつつ、人さまざま、明日の分からない人生、現実に展開される人間の喜怒
哀楽の機微、そこにあるリアリティそのものを写真表現の中にとどめたいと思っていた。
    
 ぼくには何の答もない。厳しいシ−ンには無力感を味わったが、牧師でも坊主でもないぼ
くにはどうしようもなく、彼の記述にあった教訓風な誇張は一番気にさわった。ことに長男
についての解説の印象が悪い。                           
 ぼくの不快感は不安に代った。彼に文句をいったがもう遅い。
    
 これだけ大きく扱われると、当然地元では話題になる。ぼくは早速ペンキ屋へ了解を求め
に行った。夫妻はぼくの立場も考えてのことであろうがあっさり理解してくれた。しかし、
長男はプライバシ−の侵害で納得できないし、出版は絶対拒否するという。       
 まだ、ぼくが文章を書いていれば長男も納得できる記事になったと思ったが、長男の身に
なって考えれば、プライバシ−の問題は難しい。この問題は、この一家の親戚まで巻き込ん
で、更にもつれてしまった。                 
    
 結局、僕は一切を放棄することにした。もっと慎重にことを運ぶべき責任は自分にある。
 「ユ−ジン・スミスになる話」は、「間抜けな男になる話」で終わった。この家族に密着
した2年間におよぶ撮影、7000枚のネガの喪失、徒労は、フォト・エッセイへの初仕事
だと意気ごんでいただけに本当に痛かった。                   
 呆然自失、何もやる気を無くして半年後、僕はこれからは宣伝写真の時代がやって来ると
いうフランス帰りの友人と2人でスタジオを持ち、広告写真家への道を歩むことになった。
     
 といって、この世界も宣伝広告はまだ手探りの時代。専門のグラフィック・デザイナーと
いう片カナの名前はなく、図案家といわれていたころ。写真の方もカメラマンか写真屋さん
と呼ばれて、写真家という名刺をもっていたのは、土門拳氏だけであった。
 しかし、ぼくはこの時、まるで正反対の方向で、どうなることか分からないが、ぼくの生
涯の転機をはっきりと予感した。

  

   

           

以下、当時の写真の一部を紹介する。
 フォト・エッセイのメインになる写真やネガは、出版が絶望となった時、腹立ちまぎれと
すべてを清算したいという複雑な気分から焼き捨てた。今にして思えばこれも浅慮で、あの
ネガは保存しておくべきだったと友人たちにもいわれる。ただ、この経験は、地味なドキュ
メンタリ−の人物撮影についてのノウハウは得たように思う。             
   
「何事も見れば見るほど、深く洞察するほど、違ったものが見えてくる。何事も見つめる 
 ことが大切だ。」これは、自分自身への教訓であった。
       
   
 ここに紹介する写真は、このスト−リ−を支える環境を説明するためのもので、ペンキ屋
一家からおよそ1キロ範囲で撮影されたものである。焼却をまぬがれたごく一部の紹介のた
め、組写真にはならないが、自分史のメモリ−として掲載することにした。       
 当時の池袋界隈の記録の一部にはなるだろう。 

                   敗戦後、間もない池袋界隈 >          

       バラックの街並み  池袋 1953

 終戦後の池袋西口は、バラックの家並みで
埋めつくされていた。密集した建物は、小さ
な商店、飲屋、住居などさまざまであったが
今はすっかりビル街に変っている。 

     野外テレビ   1953

 戦後間もないころは、テレビは一般庶民に
は手が出ないほど高価であった。公園にある
野外テレビには、空手のスタ−力道山の奮闘
ぶりをみる観客が蝟集していた。


          露 路 1   1953    

 もし、火災が起きると手がつけられない程
密集したバラックの建物。その通路は両手を
広げたほどの狭さだが、暑い日盛りにはいつ
も幼い少女たちの行水が見られた。   

        露 路 2   1953  

 この細い通路は、まっすぐに伸びて、向こ
うが霞むほどであった。直線の細い空間は、
風向きによっては、意外に涼しく、コンクリ
−トと木造バラックの違いを感じた。

          

        看  板       1953      

 池袋の東口には、「人生座」というバラック建ての小さな劇場があった。格安で、少し月
おくれの名画を見せるので、中々人気があり、ファンも多かった。
 手書きの予告ポスタ−は、貼りつけたり、はがしたり、劇場の黒い板壁はちょっと気のき
いたモチ−フだった。1/10秒の露出で、片足の靴以外はブレている通行人は、すぐにも
画面から消えるが、魅惑的なパタ−ンの痕跡だけは、いつまでも画面に残りつづける。

           

        騎馬遊び     1952       

 密集した住宅地にあるちょっとした空き地は、子供たちのいい遊び場である。
雨の日に傘をさし、しゃがんで遊んでいる子供さえ見かけた。でも、この空き地は、子供た
ちだけのものではない。時に、ペンキ屋一家の家計を支える仕事場になり、占領されてしま
うこともある。この日は、開放されたばかりだったのか、子供たちは空き地いっぱいを使っ
て大声をあげて遊んでいた。騎馬に乗っているのが、通称「豆ダヌキ」、タ−坊である。
 
(ペンキ屋一家のフォト・エッセイで、残っていた写真は、表の「運動会の朝」とこの写 
 真のわずか2枚のみであった)

       

    

フリ−ライタ−時代の玉井 1953

 

 「自分のポート・レートというもの」

 自らの存在がもつ<生>と<死>を一枚の
印画紙に記録するということでは、僕自身、
投げやりに近いほど無関心であった。
    
 今回のテ−マにしたがって、おこがましい
が、ぼくの大きな転換期であったこの頃の顔
を残すべく、当時の写真を探したが、数もな
ければ質においてもろくなものがなかった。
 やっと見つけたフリ−ライタ−時代のこの
写真は、執筆に疲れて居眠り中を写されたも
の。だからフェイクはないだろう。
    
 変な写真だが、ペンキ屋一家の撮影も終わ
りに近いころ。6畳一間の安アパ−トで、ミ
カン箱に載せた製図版とマ−ジャン台が机代
わり、家財道具は一切ないという、当時の僕
の生活がよくわかる。 時に 29 歳。
     
 もっとまじめに自分自身の自画像も撮って
おくべきだった。ゴッホはじめ多くの画家が
自画像を描いたことの意味がやっと理解でき
るようになった。

☆ つい、長々しい話になってしまった。これは部外者には退屈な話かもしれないが、こ
  れから人物写真、ことにスナップ写真で組写真を試みようとする人には、或る程度の
  参考になるかも知れない。そうあれば幸甚だが。