ペンキ屋一家と親しくなる
それまで、ほとんど風景一点張りに近かったぼくは、人間のスナップをこころがけ編集の
仕事をしながらもライカをぶらさげて歩くようになっていた。
チャンスは足元にあった。ある休日、池袋東口に近い6畳一間だけの狭いアパ−トに住ん
でいたぼくは、すぐ近所の空き地で遊ぶ子供たちをスナップしているうちに、カメラを向け
てもおじけない一人の子供と親しくなった。
彼は小学1年生、通称「豆ダヌキ」とよばれていたが、名前が孝夫というので大人からは
「タ−坊」とも呼ばれていた。ぼくは子供たちの写真を届けてあげているうちに、その家族
にマ−ジャンに誘われるほど親しくなった。ペンキ屋というこの一家は21歳の長男を頭に
4歳の末女までいれて男4人、女3人。長男は15才から年季奉公にいったが今は一家の支
え、父親が仕事を取って来て長男が仕事をするという、まず代表的な職人一家である。
ぼくがタ−坊を写し始めたころは、まだ戦後のきたないバラック建に住んでおり、破れ障
子から覗く彼の勉強姿などをスナップしていたが、やがて住宅公庫で2階家を建てた。それ
がしばらくすると不払いで差し押さえを受けた。でも、痩せこけたおかみさんは不機嫌な顔
で酒ばかり飲んでおり、おやじさんの顔はほとんど見かけない。
どうもおかしな様子だと思っていたが、ある日から、思いあまってか、おかみさんはだん
だん家の事情をぼくに打ち明けるようになった。つまり、その原因はおやじさんが池袋の飲
屋の女将に入れ込んで、朝帰りの常習犯。家のロ−ンの支払用40万の金が愛人の飲屋のた
めに使われていたということであった。
結婚以来、25年の間に夫が浮気をしなかったのは、わずか3年間だけで終戦後だけで7
人もいる。ぐっすり寝込んだ夫の首にひもをかけようとしたこともあったという。憂さ晴ら
しに酒を飲むようになったのは割合最近のことだという。ぼくは、ウ−ンとうなったきり返
事のしようもなかった。
しかし、それらでぼくは納得のゆくことがあった。たまに、おやじさんの朝帰りに出会っ
た時の間の悪そうな顔。子供たちは父親が来ると、プッと席を立ってしまう。子供はきたな
い格好をしているのに、おやじさんはいつも真っ白いワイシャツを着ている。この一家には
父親を含めての団欒がないのだ。そのうちに、おかみさんの酒の飲っぷりも分かってきた。
彼女はぼくにお茶をすすめながら自分は一滴も飲まない、それは晩酌時の酒の味が悪くなる
し、効きめが悪いからだという。ここまで徹底すると泥酔状態にもなる。
一家の日々を見つめる
そんなシ−ンがはっきり見えてきたぼくは、そのままの情景を写真に撮るようになった。
つまり、こんな状況でも意外に子供たちの顔が明るいのは、母親への絶大な信頼感がある
からだろう。おかみさんが離婚しないのは、子沢山で、子はカスガイといった倫理観か、外
見はやせこけてとても肝っ玉母さんとは見えないが、子供への深い愛情と開き直ったような
芯の強さがうかがえた。あてにならぬ亭主、家を守る主人は自分しかないといった意識があ
ったのであろうか。
ぼくは何でも克明に撮った。子供たちは、お母さんの味方だ。よくお手伝いをしていた。
小さい子は喜んでお使いに行くし、18才の長女と中学3年の次男は、長男を助けて家です
るペンキ塗りは手伝った。ぼくのカメラはつい子供たちの数多い年中行事に目がいったが、
父親がケ−キを持って帰らないクリスマス・パ−ティは末っ子には可哀想。七夕祭りでタ−
坊が短冊に書いた「ハヤクカエレ オトウサン」などの記録は空しかった。一方度重なる裏
切りのため、帰ってきた自宅でご飯を食べさせてもらえないおやじさんの顔などもあった。
厳しい状況も、相当写した。そんなぼくを見ておやじさんは口もきかなかったが、ある時
「実は今晩飲屋のワイフが、おれの誕生祝をしてくれるから記念写真を撮ってくれないか」
という。ついてゆくと、普段はジャンパ−のおやじさんが芸人のような着物を着て、器用に
三味線を弾き、浪花節をうなり、「女遊びだけはやまらん」と上機嫌であった。
おやじさんは、背丈もありちょっと苦み走った良い男で、こんな場所がピッタリというタ
イプか。飲み屋の彼女のことを新劇の「杉村春子」そっくりというが、これは好みの問題で
そう見えるのかなというところ。とにかくおやじさんの希望どうり、写真はふんだんに撮っ
てあげた。本妻と妾、両方の状況がこんなに明確に撮れるのは珍しい。
この一件以来、おやじさんは玉井びいきに早変わりで、男気をみせてか庭先にあるペンキ
用倉庫の中に、ぼくのために小さな暗室を作ってくれた。
そんなことから撮影はまったくフリ−になった。深夜たまたま暗室を出てきた時、娘がい
かにも健康そうな寝息をたてている枕元で、仏壇に向かっているおかみさんの姿をカメラに
収めたが、ロ−ソクと線香が消えるまで手を合わせていると気持がしずまるという。そのう
ちさらに新興宗教に入信し、渋谷の教団に足しげく通うところなど、この一家の日常のバラ
エティのある姿も撮れるようになった。
これらの写真には、ひとつの効用があった。それはある日、写真に興味を示し始めたおや
じさんが、暗室に入ってきた時、ぼくはわざと問題のありそうなシ−ンばかりを大きく、六
っ切りに引き伸ばして見せたことである。
暗室で、白い画面にだんだん浮かび上ってくる画像は、始めてみる人にはことに珍しく、
印象も強いものだ。はじめ、自分が飲み屋で歌っているところや酌をしている彼女の横顔な
どが出てくると大変なご機嫌だったが、そのうち、父親がほとんど家に居つかない家庭のあ
りのままの様子、どことなくわびしく暗い子供の表情やおかみさんの酔いつぶれた顔、仏壇
に手を合わせる深夜の情景などが出てくると、だんだん口数が少なくなった。
おそらくこんな経験は初めてのことであろう。さすがのおやじさんも、これらの写真には
かなりショックをうけたようであった。家族に疎外された自分も感じたであろう。ぼくに向
かってしきりに「悪い親父だな」、「本当に悪い親父だ」といい、リアルな写真を前にして
自分の非を認めるような言葉を口走った。あけっひろげで涙もろく、イサミ肌。職人気質の
おやじさんはそんな人でもあったようだ。
その数日後、ぼくはおやじさんに「これをまとめて本にしたいが、いいだろうか」と聞く
と「本当のことだから仕方がない。少し恥ずかしいが、まあいいだろう」といった。
偶然だったが、この日のショック療法のようなできごと以来、おやじさんの外泊は殆どな
くなり、ぼくの目には少しは身を慎む風が見え始めたようで、おかみさんの顔もいくらか明
るくなったように思えた。しかし、こうした問題はそう簡単に片づくものではなかろう。そ
れが永続する可能性も保証もできないものであろう。
その結末が分かる前に、この写真に対する問題が起き、答は見えなくなってしまった。
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