今回は、ポ−トレ−トのことについて話したい。その理由は、人間に一番近いの
は人間。しかし、ホ−ム・ペ−ジの多くが花や風景に偏りすぎて、少し人間をおろ
そかにしているのではと思われることがあるからだ。
どんな写真も究極は、人間性が現れる。ぼくは、今少し人間も撮り、人間を知る
ことが自分を知り、それが他の写真にも影響し、両々相俟ったバランスの良い成長
が期待できるのではと考える。
この頃、ぼくは電車に乗る度に、「日本人の顔は、貧しくなった」とよく思う。それは、
写真的にという意味ではなく、人間らしい社会人としての良い顔にめったにお目にかかれな
いということである。
映像というものは、恐ろしいもので、テレビでの映像が人々のいかにとりつくろっても隠
せない人間像を見せるが、最近のように虚像がはがれ落ちた貧しい政治家の顔が頻出する番
組に食傷しているところへ、無責任な官僚やリ−ダ−格の社会人まで、公私見分けのつかな
い情けない顔も見あきた。見あきたといえば、もちろん人様のことを言えた義理ではなく、
自分の貧しく老いゆく顔には特にうんざりで、近頃は鏡をまともに見たことがない。
混んだ電車は、いやでも間近でまじまじと観察することになるが、貧しさ、生気のなさは
若い男女にも及び、良くなる気配は感じられない。といって、ぼくは謹厳実直、聖人君子の
ような(一応は認めるが)、そんな味気のない顔が良いなどといっているわけではない。
偏差値だけが高く、知識が人間としての知恵になっていない自己中心主義の顔もいただけ
ない。物知り顔でインテリタイプが多いが、正義がわからないから冷ややかで魅力がない。
良い顔とはといっても、とても一口では言えないが、人間としての豊かさ人間らしい魅力
ある顔を持った人。言葉をかえていえば、司馬遼太郎のいう高貴な子供の心を終生その精神
のなかに持ち続けている顔。良い音楽を聴いて感動するのは自分の中のオトナでなく、コド
モの部分である。そんな部分の広がりが学問において、なみはずれた仮説を立てる能力にも
なり、もちろんア−トをはじめすべてのクリエイティビティの源泉である。
また人の痛みががわかる人間といってもいい。教養とは、人の心がわかること。そんな人
々の顔には、豊かで頼もしい人柄がかい間見られるであろう。
こんなことをぼくがことさらに感じるのは、ものを書きながら日本ばかりでなく世界の多
彩な歴史的な人物の顔写真に接するチャンスが多いからであろうか。
「 フェイク 」 ということ
ぼくはこうした日々を感じながら、ふと「フェイク」(Fake)という言葉を思い出し
た。それは、本物のルポルタ−ジュ映画を撮り、写真を見る目も確かな羽仁進氏の講演後の
彼と早田雄二氏を交えての私的な雑談の中にあった。もう20年以上も前の話である。
「フェイク」は直訳すると、ごまかし、いんちき、まやかしもの、つくりごと、虚構とい
った意味になるが、人間は誰しも写真を撮られる時、よりよく撮られたいために、ある種の
フェイク、表情を装い、何となくポ−ズをつけたりする。
でも、小さな女の子が夜中にこっそり一人で起きてお化粧をするといった行為は、これは
観客のためにするものでなく、自分が自分のために演技することである。こうなると、もう
フェイクの域ではない。優れたファッション写真家は、成熟した女の中から、それを引き出
すのだという。もちろん、フェイクを逆手にとり、これを強調したユ−モアのある写真もお
もしろいが。
また、フェイクは動物にもあるという。ライオンが狩りに失敗すると、どうにも格好がつ
かないというか精神的に変わった状態になるのか、とても不思議な動作をするというのはお
かしかった。
大都会というものは、ある意味ではフェイクの山みたいなものだろう。近代的な大都市の
顔は、ハダカの王様のようなインチキな宝石をつくって首につけてみたりするが、翌日には
もう色が落ちたりあせたりしているようなところがある。
フェイクというのは、ぜったい隠しおおせないもの、紙で作った王冠のようなもので、そ
れはすぐシナッとなってしまう。またシナッとなるからゴミになって、逆に救われもする。
東京もそうではないだろうか。非常に通俗的な世界、人生そのものにもそんな部分がなき
にしもあらず。大目にみられるようなインチキ、許されるフェイクもするわけだが、都会人
はそんな都会人のなかに、真実のようななものを見る瞬間がある。またそんなわずかなキラ
メキをとらえて行く写真家もある。ぼくはそんな写真も味わいがあって好きだ。
しかし、「当今の日本の教育、しつけの悪さは、許せないフェイクが多過ぎる。学校もだ
が親の自覚の無さ、無責任さはどうしようない。」
「男たち一家の柱も揺らいでる。<婦唱夫随>も困ったものだ。このままでは、アメリカ
並みの凶悪犯罪がやがて日本でも起きるだろう。」といった話が終わりになり、お互い悲憤
慷慨?、同感したが、それは遂に今日現実のものとなってしまった。
貧困と繁栄と
ぼくは、生前親しくしてくれた先輩の写真家、林忠彦氏の人柄と作品が好きである。
彼の撮った敗戦直後の写真は、意外に写されている人がいい感じで写されている。写され
ているものは、浮浪児だったり、闇屋が喧嘩してるとか、どちらかというと貧困で悲惨な環
境だが、そうした写真が意外にいい感じに写されている。彼の作品はあのころの厳しい現実
を伝えているが、人間を暴くのではなく底辺にある彼の優しさが、これらの人々に安心感を
与え、彼らが素直に応じたからであろう。
これは彼の人間性の反映もあるかも知れないが、戦争が終わり、かえって自由な解放感が
あり、ボロボロの服をきているが、何かこれから自分たちの生活がはじまるという混乱の中
にある程度の希望を持っていたからであろう。
ところが今は経済的には恵まれ、ものは豊かになってはいるが、あの時代にくらべて人間
の心は狭く貧しく公私共に自分に責任がもてず、目的を失ったやる気のないモラトリアム人
間があふれ、それが顔にあらわれている。自分の志、夢と希望をもった顔を見たいものだ。
人物写真の原点は
ぼくはコマ−シャルを職業としてきたので、それらの作品の中には、作者の表現自身にも
一種のフェイクを感じることも多く、まず手始めはそれらがまったくない時代のポ−トレ−
ト、ぼくが考える人物写真の原点のような作品を紹介してみよう。
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