part.23         

   

  このところ、色彩の歴史など解説が多く、「玉井瑞夫インタ−ネット写真展」の方  
  がお留守になっていたので、今回から作品鑑賞も少しづつ掲載しようと考えた。
    
 ぼくのインタ−ネット写真展は、アマチュア時代の「私の風景」に始まり、プロへの道の
入口付近の作品をほんの少しだけ紹介したが、絵画との垣根を取り除き<写真の特殊表現>
といった分野を生きたのがぼくの特色だったために、一般のストレ−トな写真は少なく、多
少わかりにくいかも知れない。
    
 しかし、アナログでのこうした分野はデジタルへの基礎をなすものだから、自分なりの創
作を志す人々には、十分参考となるものである。
   
「写真界のある者は、フィルムはデジタルより優位だと主張し、若い人たちはフィルムは死
んだと叫んだ。しかし、どちらか一方が正しいわけではない。映像という切り口で見ると、
フィルムという伝統技術とデジタル技術を融合した<インフォイメ−ジング>という巨大な
世界が拡がっている。」というのが、写真業界の先駆者イ−ストマン・コダックの主張で、
この10年間その体制を整備してきたようだ。
    
  写真の歴史はまだやっと150年あまりに過ぎない。デジタル出現で写真表現の成長性は
計り知れず、ぼくは興味しんしん、これからの変化、発展を期待している。       
    
  之からのぼくの作品は、多少風変わりに見えるかもしれないが、写真表現の多様化  
    のひとつとして、気楽に鑑賞してもらえればと希っている。





               「 夕 日 」    玉井瑞夫     1971                                  

夕 日 sunset
   
 今月はもう11月の神無月(陰暦10月)。季節にあわせて、ぼくの想い出がいっ
ぱいつまった晩秋の作品を紹介する。
   
 この遠景は、僕が生まれた田舎の町はずれ。子供のころは木の実拾いによく行った
雑木林の秋の夕暮れである。あまり長く故郷を離れていると、少年時代の遊び場をふ
と、訪ねたくなるらしい。
 これは、そんな時に撮っておいた1枚で、何時かこれを素材に作品をつくって見た
いと思っていた。それが三里塚の広い御料牧場で馬を撮っている最中に、田舎の風景
がダブってイメ−ジされたのである。
 田舎の夕景はセピア調、牧場を走る馬は新緑のため、馬の方をセピアにして合成し
た。重なった馬の幻影は、ミラ−ジュ・フィルタ−による。  
    
(これは後に、三菱電機のオーディオ、ダイヤト−ンのコマ−シャルに使用し、雑誌
 広告賞を受けた。)

           

        

< 他流試合のすすめ >
                                       

                                         
 「他流試合」というとものものしいが、これからはある程度写真ができるようになると、
コンテストにも応募して腕試しをすることも、考えておく必要があろうということである。
                                       
 ここで、一応写真50年間の歴史を実感できた僕の体験を少しばかり述べておく。
 50年前は、写真雑誌の月例、既成画壇の写真部展、各国の国際サロン展、朝日新聞社が
後援する全日本写真連盟展、毎日新聞社が主催する日本写真美術展などが主な応募先であっ
たが、入選・入賞作品は秀作として表彰するという賞状・メダルだけで副賞はなかった。 
     
 その後カメラやフィルム・印画紙メ−カ−の公募展が加わり始めてから、副賞にカメラな
どが贈られるようになり、やがて賞金へと変わっていった。              
 敗戦後の写真復活の初期は、写真誌の月例の上位を行く常連からプロ写真家になるものが
多く、写真誌の月例はプロへの登竜門といった風潮もあった。(ぼくが盛んに応募した時代
は、まだ賞金などはなく沢山の賞状と国際サロンのメダル数枚が残っただけであった)
    
 当今は、APAのトップ賞100万円をはじめ、ニコン、フジフィルムその他もろもろの
コンテストの賞金額はアップするばかりで、これに入賞する楽しみもあるが、ぼくが望みた
いより大切なことは、他流試合による必然的な視野の広大からのより自由な物の見方、自分
の姿勢を確立するという問題である。  
    
 先頃もこの講座で、当塾の塾生に限らずあちこちのHPを見る度に、ほとんどの人がいつ
も等距離でしかものを見ていないと、ぼくが言ったのはこの問題である。
    
 少々写真ができるというだけでは、グル−プ内での井戸端会議には間に合うが、そんなと
ころでいつまでも足踏みしていると年期が入るばかりで、やがて独善的な写真に安住し、人
も作品も痩せてゆく。                   
    
 アマチユア出身のぼくは、やる以上は例えアマチュア写真家でも、写真を通じてルネッサ
ンス時代の識者のような豊かな精神生活がもてる力を身につけてもらいたいと思ってきた。
 たしかに自前のHPでのフォトギャラリ−は、新しい形式の個展のようなもので、ミニコ
ミュニケ−ションの効果は認識したが、多くのHPがあまりにもイ−ジ−で、自己批判もな
い温室育ちといえる現況では、モヤシしか育たないのではといった危惧を感じる。 
    
 もっとも近代的な表現手段といわれ、下手な絵画をはるかに上回る写真の特性が限られて
はもったいない。視野の狭い井の中の蛙、小さなお山の天狗にはなってもらいたくない。 
 コンテストへの応募は自分の能力を試し、限界を知り、傲慢にならぬということもあるが
広くなった視野から岩登りのように自分に可能なル−トを見いだす助けになることも多い。
    
 ところで、コンテストへの応募では、先々は日本という狭い範囲だけでなく、世界へも出
品するという視野を持ってもらいたい。これは決して大げさな考えではない。早い話が自分
の作品に世界旅行をさせると考えれば分かりやすい。写真は視覚言語、通訳がなくても世界
に通用するものであり、またそんなスケ−ルと意欲がなければ、熱意が相手に伝わらない。
                 
 しかし、よほどの僥倖がないかぎり、初めから入選、入賞するのは難しい。それでもいい
のだ。何度もトライするうちに、より広い世界が見えてくると、スケ−ルの大きい密度のあ
る、その人らしい個性を発揮した作品が出来てくる。それが大切なところである。
    
 そして、究極は、その写真にグロ−バルな社会性があるか、その人なりのユニ−クな見方
(哲学)、創造性があるかどうかが問題になる。それはその作品が訴えるその作者のスケ−
ルでもある。                                 
    
 そんな意味合いも含めて、身をもって体験する他流試合、コンテストに参加してみること
も薦めたいと考えてきたが、僕は強引に勧めたことはない。人それぞれの生き方があるから
だ。信条として、他流試合は遠慮するという人も僕のいうことの真意はくんでもらいたい。
   
 ぼくはそうした作品を選ぶ側、つまり長い審査員の体験から、応募する側は何をポイント
に、どんな作品を出品すべきか、まず基本的なことを少し述べておきたい。    

                    

「森の道を歩く子供」 ウィン・バロック       

     

森の道を歩く子供
  
 ほとんどの子供の写真は、自分の子供の顔の表情だけに主眼を置いて撮ったものが多い。
身内や友人に見せるものは、表情の良さだけがよい写真の判断になるが、もっと多くの第三
者にも見てもらうコンテストでは、そうした狭い範囲の興味だけでは通用しない。  
    
 このウイン・バロックの作品は、子供の写真として有名な作品で、高い評価を受けてきた
が、その理由は、自然と子供を客観的に見つめている作者の姿勢にある。        
 この画面は森の中で、1 番下ぎりぎりに非常に小さく子供がとらえられており、この小
ささは大きな森との対比でかえって目立ち、作者の考えを鮮明に伝える内容になっている。
(もちろん、上を見上げた子供の表情も興をそえるものになっている。)       
   
 つまり、自然と子供とのかかわり、さらに、自然と共存する人間の問題、環境と人間とい
うテ−マをさりげなく伝えているからである。咋今は地球環境や公共問題などを課題にした
コンテストが多いが、こうした姿勢の作品は、ずばり審査員の注目をあびるだろう。  
   
「私ども人間とは自然の一部に過ぎない。人間は自分で生きているのではなく、大きな存在
によって生かされている。同時に、子供たちには未来に向かってずっしりとたくましい足ど
りで、大地を踏みしめて歩いてもらいたいという願いも示唆するもの」としてである。
   
(こうした作品は、パソコンの小さなディスプレ−で見るよりは、ポスタ−程度に引き伸
 ばされた時、はるかに迫力を増すものである。それが分かるようになれば、写真を見る
 目もかなりレベル・アップされているだろう。)
   
[註]
 
『玉井瑞夫<写真繧繝彩色>塾』の10月例会の「ワンポイント・レッスン(5)」に、
 子供の写真について、<人間零歳>、<子供の撮影では、電柱になれ>という話をし
 たので、これもあわせて参考にされたい。
 http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/getireikai/0110/hyou.html

  

  

      「ピアノとネコと」  作者不詳         

     

ピアノとネコと
  
 この作品は、友人にもらったもので作者不明だが、ユニークなアイデアで、注目し保存し
ていたものである。猫好きの人は何でも猫さえ写っていればご機嫌だが、この作品は猫に無
関心な人をも引き込む魅力があり、より多くの人々にも好ましく思える作品であろう。  
 音楽でいえば、近頃いわれる「いやしの曲目」のようなものであろうか。
   
 このほっそっりした子猫の腰のあたりのしなやかさは、思わず触れてみたくなるような親
しみを体全体で表している。動物は心をいやしてくれる。ぼくは、ずっと犬(ペキニ−ズ)
ばかりを飼ってきたが、こんな写真を見ると猫も飼いたくなった。           
   
 こうした写真はいつでも撮れそうでなかなか思い付かないアイデアで、写真家の誰しもが
してやられたなと思う作品である。前のウイン・バロックの作品もこの作品も、子供や猫の
後姿が物語る代表的な例だが、そこには作者の冷静で客感的な姿勢がうかがわれ、物語の核
心となるバック・グランドの設定とその対比が生むバランス感覚の良さは見事である。  
        
 ぼくが選んだこの2点の作品は、近視眼的な興味でなく、普遍性があること、最大公約数
のような見方でないこと、特別のテクニックは必要のないものである。
 しかし、題材、見方がよい作品が伯仲する審査の最終段階で、後一歩で惜しくも遅れをと
るのは、最後のつめの甘さが多く、心すべきである。
    
 文化は地域的なものだが、写真はより広い視野をもち、世界中の言葉が通じない人々にも
分かる内容と表現が、より大きなコンテストほど最優先され、注目されることを知っておく
ことが、まず第一のキ−ポイントである。   

  

          

  
     

< HPの催眠効果 >

  

 ここから書くことは、写真は下手でもいい、友好手段としてホ−ム・ペ−ジに写真を発表
しあって、遊んでいるのだと割り切っている人たちには、なんの役にも立たない。むしろ有
害かもしれず、読まない方がいい。そんな話である。ぼくは率直な本音を書く。
   
 僕は去年の7月、初めてホ−ム・ペ−ジなるものを見てから1年を過ぎた。2、3ケ月は
只々珍しく文明の利器に恐れ入るばかりであったが、写真に関する限りでは、「はてな?」
と思うことが多くなった。
    
 人間は本来自己顕示欲があり、多少身についた自分の余技を多くの人に見てもらいたいと
思うのは、至極当然のことである。書画・舞踊・華道・詩歌そして写真など多少の心得がで
き、向上心が伴えば、相当の費用がかかるが発表会・展覧会・出版などを行うか、公募展・
コンテストへ応募などを試みるのが一般であった。それは国内だけでなく海外にも及ぶ。 
    
 ところが、僕がこの1年ほどの間に体験したことは、かなり悲観的な予感であった。
 リンクを知ってからは、HPのひとつのグル−プから次のグル−プへと、その伝達の構造
はある意味ではねずみ講のようにも思えたが、いもづる式に先々まで見ることができた。
 もちろん、それは写真だけでなく、他の分野も見て歩いた。
    
 僕が一番関心を持ったのは、パソコンという不思議な機械が、HPを通じて新しい表現伝
達様式を生み出したこと、またその価値観の多様性であった。
 まず僕が驚いたのは、HPさえ持てば、昨日から写真を始めた人でも自分の写真を、フォ
ト・ギャラリ−を設けて堂々と掲載し、似た者同士が外交辞令のようなほめ合いをしている
ことであった。つい先年までは考えられぬことである。僕は小学校の父兄会で、こどもの絵
が教室にずらり張り出されていた風景を思い出し、大人が子供に若返って遊んでいるように
も感じた。文化は老化してくると、時に子供がえりすることがある。
    
 僕たち写真の世界では、出来の悪い作品は恥ずかしくて出品をしないし、弟子たちが下ら
ぬ写真を出していると、恥を知れと叱ったものである。我々は、すでに発表したある作品に
対して自分の評価が変わりレベル以下と思い始めれば、以後自分の名前を第3者に表示させ
ない権利も著作権で主張できる。
    
 世の中変わったものである。初心者同士の出会いでは、「あなたは○○番目の大切な御客
様です」といったご丁寧な挨拶になったり、訪問しあっての褒め合いも開店休業の防止策と
してわからぬではないが、HPでの年期では少々先輩らしい人が、評論とは程遠い実に無責
任な的はずれの褒め言葉を述べて歩き、それをまともに受けた初心者は褒め殺しに気づかぬ
状態もみかけられ、気の毒に思うことが多い。                    
 宝石に例えれば、ジルコンやダイヤモニアをまことしやかにダイヤモンドだという人がい
れば、それは詐欺のようなもので犯罪になることもあるが、写真だと気にしない人が多いの
は何とも不思議である。                         
    
 一方そんなヴィ−ルスをまき散らす人のHPの端々には、生業としての職場での鬱憤を、
HPでの井戸端会議で晴らしているだけの生活が見え隠れする。これまた気の毒な人々だと
思う。こうしたつき合いをする人は、相手側の時間の一部を浪費することへの配慮は考えな
いのだろうか。
    
 造形では、ことさら初心者時代が大切だが、上記のような刷り込みを受けると、真っ白な
白紙に真っ黒な墨汁を落とされたようなもので、その過った痕跡はなかなか消すことができ
ず、改めることしかできないが、それには数倍の大変な時間がかかる。
 ぼくは、人間に育てられた鶴が、飼う人の非常な努力でやっと飛べるようになったルポを
見たが、初心者で刷り込みを受けた人は、気づかないだけに救われないと暗澹とした。
    
 僕は、こんな様子を見ていると、こうしたHPというものは、土足で他人の家へ断りもな
く踏み込んでくる世界でもあり、良きにつけ悪しきにつけ、非常にスピ−ドのある効用とま
た同時に非情な催眠作用をもっていることを痛感する。僕の言う催眠は意味のない逃避的な
催眠術にかかったような状態のことである。 
    
 「清濁あわせ呑む、寛容」など日本人の美点かもしれないが、無節操に誰でも何でも受け
入れる側もどうかと思う。これでは成り行き任せの人生になりかねない。またお互いに毎日
HPでこれといった内容もない話しを続けなければ、義理を欠くことになるといったつき合
いなど考えられない。こうしたことに腐心するのは、訪問者の数、視聴率の維持・確保競争
だけのいたずらな労力で、ギネスブックにも役立たず、理解に苦しむ。  
    
 僕はTVのCFも相当作ったが、それが流される番組の視聴率までは考えなかった。クリ
エイタ−がそんなことまで考えての制作では、肝心な本質をはずれたCFになるからだ。 
 僕たちはお互いに、心静かに考えたり、本を読んだり、音楽を聴いたりする時間を大切に
すべきだと思う。HPへの対応がこれらの時間を削るようなら、本末転倒である。    
 批評とか評論というものは、TVでやっているお宝拝見とはおよそ異なる。あれもかなり
商業ベ−スに乗った判断があり、頭をかしげるようなことがあるが、生きた人間への誠実な
批評は、もっと難しく厳しい。この問題を話し始めると、簡略に言っても数ペ−ジを費やす
ことになるので、次の機会に述べることにする。
    
 僕も友人の写真家や画家、デザイナ−などのクリエイタ−とEメ−ルを交わすことがある
が、まずお互いに相手の大切な時間を考えて、むやみな送信はしない。月に1、2度だが、
中身は非常に濃い。前提なしでつき合える友人ならそれだけで十分である。       
 弟子や塾生との通信は、指導の方が多いので、週に1度くらい曜日をきめ、割り切ったス
ケジュ−ルでの対応なので、他の仕事への支障はない。
    
 いろいろなグル−プのHPを見ながら、ある程度できる人のプロフィルも見ることがある
が、キャリア−のわりに上達が遅く、マンネリも気になった。             
 その原因は、ある程度に達すれば、集積した知識を手堅い方法で分析し、また独自の仮説
をうちたて、たえず謙虚に反省して新しい自分なりの理論を構築し、実践しなければならな
いが、それがおろそかになりクリエイティヴな姿勢が崩れているからである。
    
 多くのアマチュア写真家は独学だが独学は万能ではない。独りよがりの危険に陥ることを
常に感じておかねば危ない。論語にも似たような言葉がある。ぼくは独学をすすめつつ、一
方でその道の良い(ホンモノを知る)師について学ぶに越したことはないと思う。ただしそ
ういう幸運に恵まれればのことである。
    
 僕が所属する2つのプロ写真家の団体は、相次いで、公益社団法人になった。任意団体の
ころは、職能団体として自分たちの向上と利益のみを考えればよかったが、公益団体になる
と対社会的な責任も生じる。インターネット時代を迎え、ホームページにおける写真のあり
方の諸問題も真剣に考えるようになってきた。刷り込み、催眠問題もそのひとつである。
   
 僕たち写真家は、常に視覚という世界に浸りきる危惧があり、そのために絶えず考えるこ
とは、「人間としてのバランス」について、仲間たちと討論しあうことが多かった。  
 その答は、読書と書くことであった。
「読書は完全な人間をつくり、談話は機転のきく人間をつくり、書くことは正確な人間をつ
くり、思想家をつくる」というジョージ・ギャラップの言葉は、まともな写真家なら常識と
して知っている言葉である。(これが利き過ぎて、写真家と作家との兼業が2名現れた)
    
 このことは、歯科医の話とよく似ている。成長期に固い食べ物をよくかめば歯が発達する
が、ソフトな食物が多い今日は、歯の弱い下あごの発達不十分な子供が問題だという。この
あごの問題は健全な頭脳の発達にも大いに関係するという。             
 つまり、考えながら読む本は行間をも読み、文章を書くには、時間がかかるが、それが自
分をつくる。○×式では身につかない。     
 僕はこのことを写真学生や若い弟子たちにも熱心に勧めた。            
 マンガと映像と音楽に明け暮れ、考え、分析し、それをまとめて思想にするまでには行き
着けず、第六感だけが頼りの無計画、衝動的な若者が増加しているからである。   
    
 物を考えるときは、基本的なことをおさえる必要がある。
 「若い賢者たちは、すべての既成の価値観を批判する能力を持ち、足もとに潮がさしはじ
 めている新しい社会についての想像と認識をもたねばならない。」と司馬遼太郎は話して
 いた。僕もそれに近い考えをもってきたが、写真での見方考え方にもまったく共通する。
    
  精神生活を高め充実する余技は、人間が単に「在るもの」だけでなく、「良く在る(技術
 的存在)」とともに、「善く在る(道徳的存在)」ことを育てる。
 生業がまず第一義だが、写真という余技も中途半端なら、そんな余技はやめた方がよい。
    
 精神衛生にも良くないし、切れ味の良いストレス解消にもならないからだ。
 余技も、やる以上は覚悟を決めてやることだ。生業と両立しない余技は意味がない。  
 単にリラックスを求めるだけなら、大脳生理学でいう「眠ること」と「のむ・うつ・おど
 る」で脳は解放される。のむは酒・うつは勝負事・おどるは歌と踊り(リズム)のこと。
 これらは、本能や情動を司る脳細胞にたいする安全弁になる。
    
  今の日本人は、あまりにも狭い世界を見ている。履き違えた自由は、野放図とは違う。本
当の自由には強い意志力がいる。意志力を鍛えることは精神活動や行動に自らが抑制をかけ
ることである。刹那的な快楽主義のその日暮らし。心の憂さは酒と遊びで晴らす。ここにH
Pでの催眠効果の自慰まで加わってはたまらない。                 
 いずれにしてもそれらは、強い意志に欠け、「気は優しくて力なし」が実体だ。前頭連合
野の意志力が鍛えられていないからである。   
    
 ぼくはその昔、親しんだ実在主義者サルトルの言葉を思い出し、改めて考えてみた。
 サルトルはこういった。今に通用するコトバである。                
「実存主義は、ヒューマニズムである。各人の自由な行動は、他者の面前での行動である。
 だからこそ、他者に責任を持つて生きねばならない。こうした社会参加の真摯な態度の上
 にのみ、ヒューマニズムで結ばれた社会連帯が実現されるであろう。」と。

      

                   

あとがき

            
 「かって写真ビジネスは、撮影、現像、プリントの三つで利益を上げてきた。デジタル時
代には、画像の保存や加工、電送、画像の表示などでビジネスチャンスが生まれる。メ−ル
やインタ−ネットのサイトに画像が載るようになると、ネットの利用者は世界で千六百万人
から四億七百万人まで増加した。電話線がもたらした新しい世界はまだ幼少期にある。  
 ネットのアプリケ−ションの99%はまだ利用されていない。」という業界の話は、理屈
としてはわかるが、ぼくには未だにピンとこないところもある。
    
 そんなぼくは、このパソコンという新しい利器が生み出したスタイル、時代を、理解しよ
うとし、または若いベテラン諸君の教えを素直に受けたいと思いながら話している。
    
 ぼくはこれからの日本を憂うなどと、いった大きなことをいうつもりもない。この歳にな
るともう日々がギリギリの開き直った現実を生きている。問題は人間の有効な寿命と効率、
集中度と継続のことである。新しい生活スタイルをどんなポジションでやってゆけばよいか
を考えたいだけである。                              
    
 先に考えながら、読み、そして書くこと、の重要性を述べたが、これは思考による論理、
自分なりの体系(スタンス)を確立し、自己主張の意欲を保つ基本の話である。
 もし、これがなくなると、筆力を失い原稿も枯れてしまうだろう。ぼくは病院へもよくゆ
くが、この歳になってもまだ未使用の脳細胞が3分の1はあるといわれ、これをフル活動さ
せようと、今のところは本業も講座も一切手抜きせず、何とかやっている。
    
 ぼくは自分の生き方を振り返ると、公私ともかなりまじめにやった方だと思うが、それで
いてもう取り返しのつかない相当なロスをし、時の流れの早さには驚く。もっと決断を早く
すべきだったとか、もっと集中すべきであったとか反省ばかりで、それも柔軟なそして大胆
な行動ができる若い時期の対応の大切さを痛感する。 
    
 ぼくは先に多くのHPは、フォトギャラリ−の日替わり定食のような写真の更新や書き込
み、外交辞令の交換、訪問者のカウント数アップの工夫などに、実に安易で気楽な催眠作用
を見たと述べたが、こんなことだけでのんびり過ごしていると、ぼくのように肝心な対応時
のタイミングがズレるのではないか、人生の決定的なシャッタ−チャンスを逃すのではとい
った心配をする。
    
 ぼくは非力ということ以上に厳しいタイミングにおける苦い経験と老婆心からこのよう
 な蛇足を書いた。