part.23
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「 夕 日 」 玉井瑞夫 1971
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「他流試合」というとものものしいが、これからはある程度写真ができるようになると、 コンテストにも応募して腕試しをすることも、考えておく必要があろうということである。 ここで、一応写真50年間の歴史を実感できた僕の体験を少しばかり述べておく。 50年前は、写真雑誌の月例、既成画壇の写真部展、各国の国際サロン展、朝日新聞社が 後援する全日本写真連盟展、毎日新聞社が主催する日本写真美術展などが主な応募先であっ たが、入選・入賞作品は秀作として表彰するという賞状・メダルだけで副賞はなかった。 その後カメラやフィルム・印画紙メ−カ−の公募展が加わり始めてから、副賞にカメラな どが贈られるようになり、やがて賞金へと変わっていった。 敗戦後の写真復活の初期は、写真誌の月例の上位を行く常連からプロ写真家になるものが 多く、写真誌の月例はプロへの登竜門といった風潮もあった。(ぼくが盛んに応募した時代 は、まだ賞金などはなく沢山の賞状と国際サロンのメダル数枚が残っただけであった) 当今は、APAのトップ賞100万円をはじめ、ニコン、フジフィルムその他もろもろの コンテストの賞金額はアップするばかりで、これに入賞する楽しみもあるが、ぼくが望みた いより大切なことは、他流試合による必然的な視野の広大からのより自由な物の見方、自分 の姿勢を確立するという問題である。 先頃もこの講座で、当塾の塾生に限らずあちこちのHPを見る度に、ほとんどの人がいつ も等距離でしかものを見ていないと、ぼくが言ったのはこの問題である。 少々写真ができるというだけでは、グル−プ内での井戸端会議には間に合うが、そんなと ころでいつまでも足踏みしていると年期が入るばかりで、やがて独善的な写真に安住し、人 も作品も痩せてゆく。 アマチユア出身のぼくは、やる以上は例えアマチュア写真家でも、写真を通じてルネッサ ンス時代の識者のような豊かな精神生活がもてる力を身につけてもらいたいと思ってきた。 たしかに自前のHPでのフォトギャラリ−は、新しい形式の個展のようなもので、ミニコ ミュニケ−ションの効果は認識したが、多くのHPがあまりにもイ−ジ−で、自己批判もな い温室育ちといえる現況では、モヤシしか育たないのではといった危惧を感じる。 もっとも近代的な表現手段といわれ、下手な絵画をはるかに上回る写真の特性が限られて はもったいない。視野の狭い井の中の蛙、小さなお山の天狗にはなってもらいたくない。 コンテストへの応募は自分の能力を試し、限界を知り、傲慢にならぬということもあるが 広くなった視野から岩登りのように自分に可能なル−トを見いだす助けになることも多い。 ところで、コンテストへの応募では、先々は日本という狭い範囲だけでなく、世界へも出 品するという視野を持ってもらいたい。これは決して大げさな考えではない。早い話が自分 の作品に世界旅行をさせると考えれば分かりやすい。写真は視覚言語、通訳がなくても世界 に通用するものであり、またそんなスケ−ルと意欲がなければ、熱意が相手に伝わらない。 しかし、よほどの僥倖がないかぎり、初めから入選、入賞するのは難しい。それでもいい のだ。何度もトライするうちに、より広い世界が見えてくると、スケ−ルの大きい密度のあ る、その人らしい個性を発揮した作品が出来てくる。それが大切なところである。 そして、究極は、その写真にグロ−バルな社会性があるか、その人なりのユニ−クな見方 (哲学)、創造性があるかどうかが問題になる。それはその作品が訴えるその作者のスケ− ルでもある。 そんな意味合いも含めて、身をもって体験する他流試合、コンテストに参加してみること も薦めたいと考えてきたが、僕は強引に勧めたことはない。人それぞれの生き方があるから だ。信条として、他流試合は遠慮するという人も僕のいうことの真意はくんでもらいたい。 ぼくはそうした作品を選ぶ側、つまり長い審査員の体験から、応募する側は何をポイント に、どんな作品を出品すべきか、まず基本的なことを少し述べておきたい。 |
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「森の道を歩く子供」 ウィン・バロック
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「ピアノとネコと」 作者不詳
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「かって写真ビジネスは、撮影、現像、プリントの三つで利益を上げてきた。デジタル時 代には、画像の保存や加工、電送、画像の表示などでビジネスチャンスが生まれる。メ−ル やインタ−ネットのサイトに画像が載るようになると、ネットの利用者は世界で千六百万人 から四億七百万人まで増加した。電話線がもたらした新しい世界はまだ幼少期にある。 ネットのアプリケ−ションの99%はまだ利用されていない。」という業界の話は、理屈 としてはわかるが、ぼくには未だにピンとこないところもある。 そんなぼくは、このパソコンという新しい利器が生み出したスタイル、時代を、理解しよ うとし、または若いベテラン諸君の教えを素直に受けたいと思いながら話している。 ぼくはこれからの日本を憂うなどと、いった大きなことをいうつもりもない。この歳にな るともう日々がギリギリの開き直った現実を生きている。問題は人間の有効な寿命と効率、 集中度と継続のことである。新しい生活スタイルをどんなポジションでやってゆけばよいか を考えたいだけである。 先に考えながら、読み、そして書くこと、の重要性を述べたが、これは思考による論理、 自分なりの体系(スタンス)を確立し、自己主張の意欲を保つ基本の話である。 もし、これがなくなると、筆力を失い原稿も枯れてしまうだろう。ぼくは病院へもよくゆ くが、この歳になってもまだ未使用の脳細胞が3分の1はあるといわれ、これをフル活動さ せようと、今のところは本業も講座も一切手抜きせず、何とかやっている。 ぼくは自分の生き方を振り返ると、公私ともかなりまじめにやった方だと思うが、それで いてもう取り返しのつかない相当なロスをし、時の流れの早さには驚く。もっと決断を早く すべきだったとか、もっと集中すべきであったとか反省ばかりで、それも柔軟なそして大胆 な行動ができる若い時期の対応の大切さを痛感する。 ぼくは先に多くのHPは、フォトギャラリ−の日替わり定食のような写真の更新や書き込 み、外交辞令の交換、訪問者のカウント数アップの工夫などに、実に安易で気楽な催眠作用 を見たと述べたが、こんなことだけでのんびり過ごしていると、ぼくのように肝心な対応時 のタイミングがズレるのではないか、人生の決定的なシャッタ−チャンスを逃すのではとい った心配をする。 ぼくは非力ということ以上に厳しいタイミングにおける苦い経験と老婆心からこのよう な蛇足を書いた。 |