<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

      

☆ ワンポイントレッスン (5) ☆

      月例会先生評(2001年10月)       

    10月の例会は、先月の講評で予感した気配が卒直に現れている。    
      
 テ−ブル・トップフォトでのライティングに興味を持ち始めたり、多重露光(モン
タ−ジュ)にも新しい試みが見られたり、テ−マへの興味に戸惑ったり、塾生諸君が
生真面目に新しい何かをやろうとしはじめたことが読み取れる。
     
 これは、とてもすばらしいことだ。
 しかし、僕としては、とても講評の書きにくい時期になってきた。これが添削教室
や新聞社の主催する写真教室なら、営業上の立場からも、すぐさま手とり足とり解説
つきのホメ言葉をならべるところだろうが、僕にはそんな安易なことはとてもできな
い。そんなことではこの塾を開いた意味がないからだ。
     
 非常に率直にいって塾生諸君はキャリア−に関係なく、こうした分野にやっと片足
を踏み出したばかりで、まだ足は地に着かず、先はよく見えないだろう。だが未知数
が多いということは、隠れた情報量が多いということ、そこは宝の山かもしれない。
                                       
 それらが作品として成立する順序には、探究と選択という複雑な過程がある。混じ
り合う要素の調律を図り、全体が調和したところで作品になる。シンフォニ−を作る
ようなものである。                             
 シンフォニ−を作るなどというと、いかにもオ−ソドックスな調子で作品ができ上
って行くような錯覚を起こしそうだが、これはプロセスのことである。
    
 いうまでもなく、作品が成立するにはもうひとつの見方、考え方が不可欠である。
 20世紀の芸術は、お手本を捨ててしまった。そのお陰で多様な表現が許された。
 類似が文明をつくり、異端が文化(芸術)を創る。創作は、感性とか直感とか数多
くの失敗や誤解から生まれてくる。かえって落ちこぼれのなかに文化を動かす才能が
秘められていることもある。これは講座でも何度も話してきたことである。
   
 とにかく、諸君はスタ−トした。しかし、それはまだ海のものとも山のものともわ
からない。そんな大切な時期に、僕が方向をアドバイスするなど僭越なことである。
  
 そんなわけで、今月の講評は、「今はスタ−トしたばかりだ。言いたいことは我慢
して、すこし形をなすまでは、黙って見ていよう」、「しかし、二次元の造形的な表
現や写真表現の基本的な疑問点には、すぐ率直に発言しよう」ということである。
    
 僕の小さな親切が諸君を僕の枠に閉じ込めることなく、僕を越えぼくの知らない世
界へ伸びて行く邪魔にならぬような、そんなアドバイスをしたい。
 僕は、HPでの初期のほめ殺しの刷り込みから催眠状態になり、大きく飛躍する芽
をつみとっている様子が見られる特異な現象を心配している。  
      
 以下は、余談のようだが大切なことでもあるので、参考として話しておきたい。

         < 子供の写真 >    

 前回から、子供の写真が出品され始めたが、第三者にも興味を持って見られる作品
とはどんなものか、そうした写真の基本的な問題に少しだけ触れておこう。
 もうかなり前になるが、写真学生たちに「見たくない写真は?」というアンケ−ト
をとったら次のような答が帰ってきた。カッコ内はその理由である。
                                 
     
 1.家庭のアルバム                            
   (家庭のアルバムは本人か親類でもなければ、退屈至極だ。小さな写真がギ
    ッシリで、何冊も出されたら早く帰りたくなる。)           
 2.他人の旅行写真
   (夫妻が入れ替わって、交互に風景をバックに変なポ−ズをつけて撮ったも
    のが多い。良い風景写真など殆どない。絵ハガキを見る方がまだましだ) 
 3.他人の結婚式の写真
   (本人だけが御機嫌で、親戚や招待客などまで説明されると閉口する)
      
 つまり、人様に見ていただくための写真の選択や写真の大小のレイアウトもなく、
ドラマもない。つまり、あまりにも個人的で第三者が共感できる要素がないというこ
とである。子供を育てたことのない学生たちの言うことは、実に厳しい。     
                            
 たまたま、今回の話は、講座の[Part 14]『カラスの群れ飛ぶ麦畑』の前
書き<インタ−ネットとオリジナル>と、裏話のラストの<我が家のアルバム考>に
共通した内容になっていることに気づいた。これも参考に読み返してもらいたい。
     
 <我が家のアルバム考>の親子の手のアップは、ぼくのスタジオに出入りする日立
家電のディレクタ−が目をつけ、翌年、同じ図柄で大豆を一粒だけ子供の手ひらに載
せて撮ってもらいたいといい、これは日立のコマ−シャルに使われた。つまり第三者
にも興味をもてる普遍性・社会性のある見方という例のひとつであろう。 
     
   
 僕が強い感銘を受けた子供の写真には、「人間零歳」という本がある。     
 作者は僕の親しい先輩の写真家、吉岡専造氏の労作である。当時の彼は朝日新聞東
京本社の出版写真部に籍を置き、同社のアサヒグラフをはじめ多くの出版物ばかりで
なく、各写真雑誌にも多くの秀作を発表していた。               
   
 彼は、「非情な目を持つカメラを扱う人間は、それ以前に立派な社会人、写真家と
しての見識を持たねばならぬ」という、そんな人柄から写真家で唯一、時の宰相吉田
茂に気に入られ、大磯の自邸にも自由に出入りを許されて、普段着の人間像・吉田茂
の傑作も残した。さらに後には、選ばれて昭和天皇のプライベ−トな日常を撮影した
写真集も出版された。
  
 吉岡氏の話では、「写真嫌いといわれ、カメラマンに無礼だとコップの水をぶっか
けたり、議会でバカ野郎発言をして解散した吉田茂という人は、決して傲慢な人では
なく、礼節を重んじるスマ−トなイギリス風の紳士、非常にシャイな人だった。」 
「その辺の国会議員やいわゆる報道カメラマンといった人間が余りに無礼で、スマ−
トにはまったく欠ける者が多すぎたのだ。」といっていた。彼のいうスマ−トには俗
に言うカッコ良いというほかに、根底には卑怯であるなという意味も含まれている。
    
 もちろん、吉岡氏は非常にスマ−トで当時のジャンパ−姿の報道カメラマン中では
時と場所を心得た紳士で、珍しくネクタイが似合う背広姿で撮影している姿もよく見
かけた。作品も話も知的で、風貌も音楽家かア−チストといった感じがした。
   
 そんな彼が中年になって結婚し、子供が生まれることになり、父親がわが子に贈る
最大のプレゼントは写真しかないといい、365日必ず毎日1枚は子供の写真を撮る
ことを決意し、それを完全に実行した。             
    
 緻密でア−ト志向の強い彼の「人間零歳」は、息子の成長の記録であり、一歩置い
て子供を見つめられる姿勢からの作品には、夫人智子さんのウイットのある率直な日
記の言葉と、愛育病院の内藤先生がカルテを基礎に書かれた育児方針が記入され、地
味ではあるが第三者にも興味をもって見られる作品集、育児指導書になっている。
  
 これは古い作品で、1960年に発行されたが、非常に好評で、当時の週刊朝日
  に紹介された。チャンスがあれば、図書館で見られるとよい。
 ここでは、そのごく一部を参考として掲載することにした。

      
 
     

  
   

< 人間零歳 >

撮影 吉岡専造
   
    
   
   

曾祖母に抱かれて 53日 (7月29日)
昨夜、駒込から89歳になる曾祖母をは
じめて連れてくる。
ベッドのそばを離れず、ひっきりなしに
アヤし通し。
   
真司が寝ると並んで横になっている。
   
 
  

 

   

246日 表情が変わってきた。

195日 新聞紙で遊ぶ

209日 正月

この写真集で、吉岡氏が顔を出
しているのは、この一枚だけで
ある。
 
夫人の智子さんは、「この1年
間私の願いは、真司が丈夫に育
ってくれることと、一晩でいい
からゆっくり眠りたいというこ
とだけでした。」といった。
  
   
  
   


               

< 子供の撮影では、電柱になれ >
 タイトルの言葉は、古い友人、プロ写真家田沼武能氏の言葉である。彼は世界各国
の子供たちを撮り、黒柳徹子さんと一緒に行動し、僻地や恵まれない地方の子供を撮
る仕事もしているので、国際的にその名が知られている。
    
 近年は、日本のプロ写真家だけでなく、アマ写真家もイギリスやアメリカなど先進
国だけでなく、発展途上国の各地、アフリカの片田舎まで出かけて、世界の子供を撮
ってくる人もいる。彼はこういう人々に警告を発していた。           
 それは撮影時に、過剰サ−ビスから子供に「金品を与えるな」ということである。
     
 彼の話では、殆どの国でカメラを持って子供のいる場所へ行くと、アッという間に
子供たちに取り囲まれ、コインを呉れと手を差し出してくるという。眼鏡をかけてカ
メラを持った東洋人がやって来ると金をくれると知っているのだ。
      
 しかし、彼はこれを無視してコインの1枚、ガム1枚もやらないとう。やがて子供
たちはこの人は何も呉れないとわかると、彼ら同志で遊び始め遊びに夢中になると、
彼の存在は電柱のように無視され、そこから彼の撮影は始まるという。
    
「確かに、コインを与えると子供たちはさらに仲間を呼び、非常に多くの子供たちの
笑顔は撮れるかもしれないが、コインと引き替えのリップ・サ−ビス、そんな笑顔な
どいくら撮っても意味がない。現地の人々もそんな子供の笑顔だけを伝えてもらいた
いというわけではない。 
    
 恵まれない環境、疫病との戦い、政治・経済のアンバランス、破壊から生死をさま
よう子供たちまで、それぞれの国における真実の世界を伝えることだ。子供は道化役
者ではない。」、「子供たちは、遊びの名人でもあるだけに、貧困の底にあっても、
彼らのわずかの心温まる瞬間、どんな子供にもある天使のような笑顔をとらえたもの
でなければ意味がない。」と彼はいった。
    
 そして、更に続けて「戦争や災害で一番被害を受けるのは、子供たちだ。家族は散
りじりばらばらになり生活力がない子供は、大人が撒いた被害をもろに受ける。ぼく
はそれをこの目で見てきた。                         
 国家の基本は家庭から始まる。家庭という単位が集って国がある。国がなくなれば
子供も守れない。理由はどうであれ、ここしか自分たち家族が住むところがないとい
う祖国(日本)の国旗や国歌を粗末にする国民など見たことがない。そんな親たちで
日本は守れるのか、大丈夫なのか。」とも彼は言った。 
    
 ぼくも最近やっと初孫に恵まれた。タヌちゃん(田沼君の愛称)のいう言葉は身に
沁みる。今のところ、僕の写真は初孫バカ、初孫自慢の域を出ていない。そのうち第
三者にも通用する作品らしきものができたら、皆さんにも見てもらいたい。

       < 「花の会」写真展 >

  ここからは、唐突だがまったく話題が変わる。                
 先日、「花の会」第22回写真展というのを銀座の富士フォトサロンで見て来た。
    
「花の会」は秋山庄太郎氏が会長で、会員数は1500名、40%は女性。22回も
写真展を開いたということは、平均年齢も高く、毎年100名ほどがなくなられ、新
たに同数程が入会するので、会員数は変わらないというのが、消息筋の話である。
    
 東京展は912点の出品で、サイズは六ツ切のカラ−印画を四つ切り程度の枠張り
で、3つの会場にビッシリ間隔をつめて展示されていた。
     
 地区別に展示され、花の種類によるレイアウトがされていないので、さまざまの花
が入り交じったごつた煮を見るようであった。こうした展示では、それぞれに意味が
あるとしても、意味が入り乱れて、互いに消し合うことになる。また、さまざまな要
素を無差別に積み上げては、支離滅裂な結果になる。
    
 ぼくはこの展覧会を酷評しているわけではない。この会の成立要因と会長の考えか
ら、年会費を納め出品料を出せば機会均等、同一サイズ1点づつが必ず展示され、賞
もつけないということから、温習会のようなものになることを知っているからだ。 
 この展覧会は、本人とその知人だけが納得すればよいわけである。
    
 しかし、第三者が鑑賞するとなれば閉口する。
 作品のレベルは、玉石混交だが、20年というキャリア−もあり、かなり甘めに見
れば30点ぐらいが中程度、作品として全紙に引き伸ばしてもつというのも3点ほど
はあった。まともに鑑賞しようとする第三者にとつては良い作品をある程度のサイズ
でゆっくり味わいたいもので、その他はいらないわけである。          
    
 創作は、それぞれの個性と努力によつて優劣がつくのは、自然の理である。   
 せっかくの出品作、なんとかもっと良い展示法はないものかと思った。写真のごつ
た煮ばかりを見せられると、目のある人は来年はもう見に来ないだろう。  
     
 僕は、日頃HPだけでしか写真を見ていない人々に、なんとかチャンスを作って、
こうしたタイプの展覧会も一度は見ておくように勧めたい。将来の他流試合に備えて
の参考、反省の一助にもなるからである。                   
    
 ぼくは講座の中で、マクロレンズによる花のアップ専門で、後は色ボケで逃げる写
真だけではつまらないといってきた。この展覧会でもこうした類似品が大半を占め、
まったく新鮮味がない。HPのディスプレ−ではそれらは一見きれいに見えるが、こ
うした会場では密度不足で、力がないことがよくわかるはずである。   
     
 花には茎も葉っぱもある。これらが花を支え、しっかり構成された写真は非常に少
なく、僕が3点だけこれを満たしたものがあるといい、それらなら全紙に伸ばしても
もつだろうということも現場を見れば分かるだろう。              
 それらの環境まで推量できる作品となるとさらに少ない。等距離でしか物を見ない
からである。「百聞は一見にしかず」である。
    
 地方展は、会場のスペ−スの関係から1/3ほどが、その地方中心に選択され展示
されるというが、それでも300点はあるので参考になるだろう。
    
 この展覧会は、写真サイズが六ツ切という展覧会としては最小サイズである。
 写真美術館では、六ツ切は8×10インチカメラの密着プリントの展示があるが、
一般に大四つ切り(11×14インチ)が小サイズの基本サイズで、多くは半切、全
紙である。
 普通の写真展も多くは半切、全紙が基本サイズだが、風景写真では全倍、B1など
の大サイズも多い。
     
 写真も絵画もできるかぎり、積極的に展覧会へ行くチャンスをつくり、迫力のある
本物の大サイズで鑑賞してもらいたい。パソコンだけの画面では、箱庭をみているよ
うで、これに慣れてしまうと、誰しも作品が小じんまりとしたスケ−ルになってしま
う危惧があるからだ。時折、いろいろな展覧会を見ることは、井の中の蛙から抜け出
し、広い視野をもつキッカケにもなろう。
    
    
     
  福岡展  平成13年10月23日(火)〜11月2日(金)
       福岡市博多区住吉3−1−1 富士フィルムビル1F
       AM 9:00 〜PM 5:30 ( 土 、日曜日休館) 
    
  名古屋展 平成13年11月13日(火)〜11月25日(日)
       名古屋市中区三の丸1−9−1 NTT三の丸ビル
       AM 10:00〜PM 5:00 ( 月曜日休館) 
     
  大阪展  平成14年1月4日(金)〜1月10日(木)
       大阪市北区梅田1−9−20 大阪マルビル3F
       AM 10:00〜 PM 6:00 (最終日 PM 3:00)
 
      
  (註)
     
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
   週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
   その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
   居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
   僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
   (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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