「 静物写真 」     めくらヘビにおじず...


  「コンポジション」の現場
      
 この建物は、通りから少し入った
ところにあった。
 壁ははげ落ち、尻切れとんぼのよ
うなパイプは不思議な存在感があり
ここを通る度に、どんな天候、時刻
構成で撮ろうかと考えていた。
 斜陽に魅せられたある日、現場に
立ち入り、真下まで行ったとき、そ
れは一挙に解決した。これしかない
と思ったものである。



                 

よもやま

 
 ぼくは、この講座で裏話を書くようになって間もなく、写真界での生き残り、生証人のよ
うなもので、若い頃の記憶や記録がある程度役立っていることがわかった。
      
 昨年秋、美術館が「瑛九とデモクラ−トの関連」の調査をした時、僕が丹平写真倶楽部に
いたころ、瑛九と僕たちが一緒に写っている記念写真から当時の事情を解析することになっ
たがほとんどの方が亡くなっておられ、何とかぼくの記憶で判明したことがあった。   
 そんなことから、玉井がタッチした写真界の出来事や著名な写真家の話、感想なども資料
になるので、自分史もかねて書き残しておいてもらいたいと勧められた。        
 そんなわけで、大阪から上京して編集屋になったところからの続きを、今回からまた自分
勝手な雑談として話し記録することにした。
               
         

めくらヘビにおじず

      
 ぼくは、編集はまったくの初心者にもかかわらず、写真一途の情熱から理想に燃え、頑固
であった。                                    
 自分が知りたいことは、写真愛好者もすべて知りたいことだ、いや当然知るべきだと思い
込み、「写真サロン」の特集記事には毎号下記のようなテ−マをつぎつぎに挙げ、それを押
し通した。後に、雑誌業界の裏側も多少わかるようになったころ、他の雑誌社の編集長から
「盲へびに怖じずとは、君のことだよ。でもそれで成功した。」と言われたが、ぼくは素直
に納得した。
     
            「写真サロン」 特集記事のタイトル 
     
      
 ○ 「新しき写真への道」        長坂芳男(編集長鈴木八郎氏のペンネ−ム)
     
 ○ 「写真的表現の特質について」         伊奈信男
     
 ○  関東写真の祖 「下岡蓮杖」         永田一脩
     
 ○ 「構図と構成」写真の表現形式について     伊奈信男
                         
 ○ 「瞬間性芸術の特長」(写真と短歌をめぐって) 渡辺 勉
     
 ○ 「風景には演出があるか」           渡辺好章
     
 ○ 「写真と絵画の造形性」            瑛 九
      
 ○ 「調子と表現の問題」             伊奈信男
     
 ○ 「よい写真とは」               伊奈信男
     
 ○ 「世界を風靡したダゲレオタイプ」       永田一脩
      
 ○ 「写真におけるユ−モア」           瑛 九
     
 ○ 「写真におけるダイナミズム」         伊奈信男
     
 ○ 「本当の写真家が出て欲しい」         瑛 九
        
 ○ 以下、略          *著者は、瑛九をのぞき、いずれも写真評論家。
       
               

三割返本を主張する

     
 僕は、写真雑誌「写真サロン」が1952年に復刊される時に折よく入社した。    
 敗戦後、まだ7年目でフィルムはプレミアがつくこともあり、まだ入手にかなり不自由し
た頃で、僕が大阪にいたときは、闇市で100フィ−ト巻き、期限切れのアンスコ・フィル
ムを買って、暗室で手探りで切り、パトロ−ネに巻き取って使ったものである。     
 一般の人々は何とか写れば満足といったところで、芸術写真に興味を持つ人はごく一部に
限られていた。
     
 そんな時代に、上に列記したようなタイトルは、一般向きには見るからにむつかしそうな
内容である。「これではよほどの写真気違いか、好事家しか読んでくれないのではないか」
と社長はいい、「もっと易しい『女性の美しい撮り方・撮られ方』などを特集記事にして、
売り切れ、増刷で悲鳴をあげるような本にしてくれないか」といわれる。
     
 もちろん、編集長はベテランだから社長の意向は十分わかっているが、編集部では僕が女
性の美しい撮り方など、どの写真雑誌でもやっていることでつまらないと強硬に主張するの
で板ばさみの状態になった。                            
 僕はついに社長に呼ばれて、自説を展開することになった。「つまり、出版というものは
文化に寄与するための高い目標を掲げて、世の中をリ−ドするのが当然で、3割返品でも成
り立つ訳だから、単なる儲け主義は納得できない」と全く素人の僕がやったものである。 
 考えてみれば、経営者の利益を無視した話だが、僕は自分の世界に集中してそちらへはま
ったく頭が向いていなかった。
      
 編集長の鈴木八郎氏は、もともと著名な写真関係の単行本の著作者で、もう老年に近かっ
たが僕と似たような理想主義者であり、啓蒙家でもあったので、僕の気持ちを良く理解して
くれた。僕の入社日には、僕を浅草に連れて行き、ロック座というところで、ストリップを
見せてくれた。ぼくは、びっくりすると同時に東京の編集長は粋なことをするものだと感心
し、また親近感を持った。
       
 ところで、「新しき写真への道」長坂芳男(編集長鈴木八郎氏のペンネ−ム)、「写真的
表現の特質について」伊奈信男(写真評論家)は、「写真サロン」の復刊号の柱になる特集
で、ぼくが入社する以前から討議され、おおよそ決まっていたようなものだったが、写真の
本質を名作を並べながら解説したグラビアと本文による中級以上向きの内容であった。
 他のテ−マについては、ぼくの強引さからかなり紆余曲折しながらも、すべて成立し掲載
された。これらの内容は、今日でも通用するもので、本質はそう変わるものではない。  
            
 さて、難しそうなテ−マを正面に掲げ、初心者好みの女の撮り方などはその陰に隠れた雑
誌で、どれくらい売れるものか僕たち自身も心配したが、売れ行きはまずまずで、計画道理
の3割返品では儲けは少なくボ−ナスが出るかどうかは別にしてまずは安心した。    
 ユニ−クな個性的な写真雑誌としての評価は、やはり関西の方が理解者が多く、東京での
プロ写真家の評判は、他の写真誌とくらべてダントツであった。
     
 僕は足掛け2年で編集屋をやめたが、それから10年後に意外な話を聞いた。
「玉井さんが頑張っていたあの当時の写真サロンは、バイブルになり大切にされている」と
いう。つまり、毎号が写真の本質に触れるような特集であったために、各写真雑誌に入社す
る編集1年生に読ませる教則本として珍重され、古本屋を捜してもどこにもない、というこ
とであった。
                      
                     

 写真評論家について 

       
 日本では、写真評論家は少ない。上にあげた方々について、失礼をかえりみず僕の個人的
な印象を、ごく簡略に紹介しておきたい。
  断っておくが、この方たちは当時の第一線の評論家である。
     
 伊奈信男氏は、非常にオ−ソドックスな評論家だった。慎重に仕事をされるので、原稿書
きに時間がかかり、よほど締め切り厳守をお願いしない限り間に合わなかった。
 木村伊兵衛氏とは表裏一体の感じで、伊兵衛氏を支えて世に出したとも言われていた。 
僕の木村伊兵衛観は、彼は良い意味での大アマチュア写真家ともいえる人で、女性の作品に
は艶やかな下町風の色気があり、落語家のようなY談の名手でもあった。
        
 永田一脩氏は、学究肌で丹念に調べ、丁寧に原稿を書かれた。ぼくと話す時は、写真のこ
とより、釣りの話が多かった。仙人のような風貌で優しい人であった。
     
 渡辺 勉氏は、一番アマチュアに分かりやすい文章で、親しまれていた。アマチュア写真
団体の月例会にもよく招かれて、講評をしていた。
     
 渡辺好章氏は、文化史に詳しく、中近東、中国の骨董品などをたくさん持っていて、実物
を見せながら造形の原理、造形論の解説をしてくれ、僕は造形に関しては瑛九とこの人に鍛
えられた。その評論は、上記の方々の中では一番厳しく、辛口といえる。一時、日本批評家
協会の事務局長をしていたこともあった。渡辺氏は、地唄や能楽に詳しく、やや変わった趣
味として能の笛を一噌正之助氏に学んでいた。
     
 その他では、美術評論家の滝口修造、針生一郎、阿部展也氏などにお目にかかり、アドバ
イスや原稿をいただいたことがあった。