part.15         

       
           今回は、「静物写真」について考えてみたい。
     
  静物といえば、室内の卓上におかれたパンや果物などが描かれた古めかしい絵が頭  
  に浮かぶ人が多いのではなかろうか。さらに題材は人形や花、生活必需品、趣味や  
  骨董品、オブジェに至るまで範囲は非常に広い。
     
 静物写真もほぼ同様であったが、カメラの機動性から戸外へも題材は広がって行った。 
 花でいえば花瓶に生けられた室内の花から戸外での自然そのままのクロ−ズ・アップまで
ある。だだ花も少し離れた距離からのものは花を主題とした風景写真ということになるが、
その境界は定かではない。ぼくが鳥取砂丘で撮ったマンドリン(Pert7「私の風景」第
三回)などは、広大な自然バックの静物写真だろうが、ぼくはそうともいいきれず「マンド
リンのある風景」という題名にした。
     
 1950年代初期は写真の分類もかなり大雑把で、営業写真(肖像写真)、人物写真、風
景写真、静物写真、報道写真くらいだったが、写真界の急速な発展につれて女性専門のプロ
写真家は女性専科、子供ばかりを撮っている人は小児科などと病院なみの呼ばれ方をされた
り、報道写真家、山岳写真家、広告写真家、建築写真家、動物写真家、城郭写真家、海中写
真家などと細分化されて行った。
     
 混沌としたこの年代、プロ写真家になった当時のぼくは、モダニズムの表現とはいえ、わ
ずか1枚の「瑛九氏」のポ−ト・レ−トで肖像写真家といわれるジャンルに置かれ、次いで
発表した作品で静物写真家と呼ばれ、スタジオを持つようになってからは広告写真家、最後
は特殊表現写真家と業界の呼び名は変えられて行った。                
    
 ぼくは、1952年、大阪から上京し、「写真サロン」という写真雑誌の編集者になり、
編集の仕事をやりながら、わずかな時間を見つけて、写真を撮り写真展その他に発表してい
た。今回は、そんな頃、特異な静物写真家と呼ばれるきっかけになった作品の話である。
     
  それはまた「静物写真」という少し古めかしい表現だが、そこは新しい未知数を含  
  む分野であることに気づき、トライしてもらいたいということでもある。





「 コンポジション 」 1952                       

          

コンポジション

        
          
 これは、何を撮ったものか? まず、すぐわかる人はあるまい。
 また、これは風景なのか、静物なのか。見方によれば大きなジェット機も静物かもしれな
い。静物に細かな規定はない。
     
 ぼくは写真雑誌の編集者になったが、編集長のいう「この道に入ると乞食商売のように抜
けられなくなる」といわれる編集屋を生涯やる気は毛頭なかった。でも毎日、写真展や写真
家を取材する多忙で新鮮な刺激は、洗脳されるような面白さがあった。一方、心のどこかに
いずれは写真家へという希望があったためか、丹平写真倶楽部からの延長された目は健在で
いつも何かを探しているもう一人の自分があった。    
     
 この被写体は、九段下のぼくが勤務する雑誌社のすぐ近くにあった。敗戦後まだ7年しか
経っていなかった都心の一角には火災で焼けただれたビルがあちこちに残っていた。この黒
い丸は壁面に沿った廃水パイプのちぎれた断面であり、手前の大きい丸い輪っぱはその止め
金具である。これを真下から見上げ、二眼レフにRフィルターをつけて撮ったものである。
    
 ところで、何の変哲もない被写体を、こうした作品にする写真家は東京には居なかった。
ぼくとしては、自分の好奇心を集中して、「アングルの自由と遠近感の解放」を試み、デフ
ォルムもせず、いわばオブジェとして写し止めたもので関西ではあたり前のことであった。
     
 こうした表現が結果的に象徴化・抽象化になり、計算外の効果がアブストラクト或はシュ
−ル風な表現になることも多いものである。これは当然、必然性がある。こうした作品は、
絵画的なアブストラクト或はシュ−ル風な情景を探して撮った写真とは一見して異なる。 
      
            (丹平8人写真展 出品 フォトア−ト 1952年 8月号 掲載)

      
 

      

        

       

       
      

   木型 2 」 1952


   

           

 

木型 2

        
        
 編集の片手間のような写真撮影は、なかなか精神集中ができず、ぼくは欲求不満からスラ
ンプになってしまい、何を見ても感動しなくなっていた。そんなある日、瑛九に相談すると
もう一度足元から見直せといわれた。
     
 例えば、瑛九の家から浦和の駅までの15分くらいの往復の間にも被写体はあるはずだと
彼はいう。ぼくはあの何の変哲のない平凡きわまる道筋に被写体らしきものがあるとは考え
られなかったが、何時も終電車に向かって走っていたところを、少し早めに瑛九宅を出た。
 ぼくはゆっくり雑貨屋や豆腐屋など商店を見ながら歩いて行くうちに、日頃は古めかしく
くたびれた靴屋の全く気にもしていなかった店先で、60ワットの裸電球に照らされたこの
光景を発見した。この時、遠くから見たぼくの目には、この木型が燦然と輝くヌ−ドの集団
のように見えたものである。
     
 近づくと木型の集団は、擬人化されて感じ、仔細に見るほどそれぞれに個性がある。
 釘の跡が古傷のようにあり、補足的に皮を貼られたりはがされたり、この道具自体が人間
と共に生活してきた永年の姿が暗い電灯に浮かび、静かに深い影を落としている有様は、人
生の一面を見るようであった。
     
 僕はこの作品を見る度に、当夜の感銘からか蕪村の名句、「月天心貧しき町を通りけり」
 (名月が中天にかかるころ、寝静まった貧しい町を通った、の意)を想い出す。
      
                 (丹平8人写真展 1952年 5月  銀座・松島ギャラリ-)
                 (瑛九とデモクラ−ト展  1971年 梅田近代美術館)
     

                    

「 木型 1 」 1952




    

木型 1

    
          
  この頃、ぼくは瑛九との討論から、絵画のアブストラクトの造形主義は、カメラの現実表
現と対立して発展しているものである。だから、写真のレアリズムは当然アブストラクトの
造形主義に対決するところにある筈だと考えるようになっていた。           
     
 ぼくはこの木型の持つプリミティヴな形態には、すでにモダンア−トに通じる美しさと迫
力を感じていたので、ライティングも構成も余分な要素をそぎ落とし、モノクロ−ムの厳格
な抽象性を重視した表現を試みた。その結果が見る人の視線を拡散させることなく、瞑想的
な思考に引きずり込んで行くなら、それもさらに結構だなどと思った。
     
 1952年に発表されたこの作品は予想外の好評であった。今は第一線に立つ写真家にな
っているN君から、彼がまだ20台の若い時、銀座の展覧会場でこの作品を見て感動したの
がきっかけで写真家を志したと聞いたことがある。それはこの写真が従来のいわゆる静物写
真の概念を越えたもので、自分をもっと厳しく見つめ、自分の生活を通じて静物をみれば、
自分もまたより新しいものが引き出せるのではないかと思ったという。
      
 この彼の考え方は、僕の静物写真開眼を代弁するようなもので、ジャ−ナリズムも僕を新
しい特異な静物写真家と呼ぶことになったようである。
    
                 (丹平8人写真展 1952年 5月  銀座・松島ギャラリ- )
           





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