|
|||||||
|
写真上達への道
僕は写真の第一線を退いてから、「どうすれば写真が上手になれますか」とか、「上達の 早道は−−」とか聞かれることが多くなった。しかし、僕はいつも困惑する。 この命題に答はない。あるならこちらが伺いたい位で、うまく答えられたためしがない。 とにかくプロになって50年。編集屋時代は著名な写真クラブの例会めぐりの取材をしたり プロスタジオの実態も見てきたが、結局は、「百人百色、お好きなように。まったくご自由 にどうぞ」と言うことになるが、これでは答にならない。 僕はコマ−シャルの道でも誰にも師事せず、助手君と一緒に手探りの独学であった。 ここでは、そんな僕のスタジオの日常とその周辺のありのままをざっくばらんにお話しす るので、順序不同、退屈な雑談になるところはご容赦願い、その中から何かを感じ取ってい ただければ幸いと思う。
玉井スタジオの場合
事の成り行きから僕は、1958年、これからは必ず広告写真の時代がやってくるというフラ ンス帰りの友人と2人でコマ−シャル・スタジオを始めたが、資金が無くてわずか10万円 の予算で、古いキャビネの組み立て暗箱に4×5のバックをつけたものとコ−ティングなし の中古のレンズ3本、簡単な照明器具を買い求め、一応の格好をつけて京橋の狭い借家の二 階で開業した。中型はソルントン・レフ、ロ−ライレフ、小型はミノルタ35、ライカなど 各自の手持ちカメラであった。 しかし当初は仕事が無くてマ−ジャン屋で遊んでいると、ごくたまに留守番の助手君が仕 事が入ったと注進に駆けつけるという無い無いづくしのスタ−トであった。 それが学生時代の友人の紹介で、西武デパ−トの仕事を一手に引き受け、各自が独立する ようになって生き延び、追々にクライアントにもめぐまれて、南麻布の自宅に付属して自分 なりの設計で、天井の高い20坪のスタジオを建築し、カメラ機材も、リンホフ、マキナ、 4×5、8×10のジナ−、ディアドルフ一式、特殊レンズもふくめて内外大型レンズ長短 30本位、ロ−ライ、ハッセルSWC、ハッセル一式、ライカ、アサヒペンタックス数台そ の他スタジオ用大型ストロボ数台など何とか世間並になつたのは14年後であった。 (大型レンズ数が多いのは、富士フィルム、日本光学のプロ用レンズ開発に、旭光学はペン タプリズム以前から、それぞれアドバイス、テストを行っていたからである)
師匠と弟子
以下は、何とか安定しはじめたころからの日常である。 コマ−シャル・スタジオの場合、4×5、8×10といった大判カメラとスピ−ディなセ ッティングに手がかかるために助手なしでは仕事にならない。 TVコマ−シャルでは、僕は写真家から演出(監督)になる。撮影は自分のスタジオで行 うことが一般であった。シネカメラは一般は手軽な16ミリを使う人も多かったが、僕の場 合は多重露光その他特殊表現が多く、劇映画用の35ミリのミッチェルを使用した。現在は ほとんどビデオに変わった。僕はまたナレ−ション、音楽どりのため、録音スタジオへも出 向き、わずか15秒、30秒のCFだがスチ−ルよりはるかに手数がかかった。 CFではプロダクションやクライアントの人々も参加するので、陣容は20人位になりス タジオは混雑し、助手君は連絡その他雑用も増える。 僕のスタジオには、有給の社員としての弟子は常時2、3名位で、その他7〜8名くらい の写真大学新卒か在学中の者がいた。在学中の者は大学で授業を受ける時間以外は、スタジ オで仕事を手伝いながら写真を学ぶ。入社年度に応じて露光測定、シャッタ−開閉・絞り設 定、ライテイング、フィルム入れ替えなどを順次に担当させた。暗室も手伝い1年もすると マスキング・ワ−クもできるようになる。仕事は普通朝9時から夜8時頃までだが、終電車 になることが多かった。女子学生は徹夜させることもできず、弟子にしたのは3名だけであ つたが、いづれも新聞社の編集長や知人の娘など義理縁故からであった。 彼らの給与はいずれも全くなし。無給である。手数のかかる弟子は、こちらが給与をもら いたい位だといったものである。 何とか出入りを許した学生も、テスト期間の1ケ月の態度を見て、熱意と信義に欠ける者 (信とは言をたがえぬこと、義とは正しいことを打算や本音を越えてやること)、また写真 家には不向きと判断される者は入社1ケ月以内にはやめさせた。 スタジオはすべてが実戦の場であり、彼らには責任のあるそれぞれの担当が与えられ、も し1人でも凡ミスをすれば仕事は失敗する。人間は信頼し、責任を持たせると急速に成長す る。そのため彼らは単なるアシスタントではなく仲間であり直弟子になった。そんな意識が 強いため師匠と弟子は生涯タテ並びの師弟で、男女を問わず名前は呼び捨てが普通である。 こうした個人タイプのスタジオは少なく、秋山スタジオその他10社ぐらいであったろう。 一般のスタジオは、自分が育てた者を次々と陣容に加え、何でも大量の仕事をこなす組織 になって営業部があり、撮影スタッフが100名位の大型スタジオには、佐々木スタジオ、 鏑木スタジオなどがあったが、こうしたタイプでの中小スタジオが一番多かった。 僕のスタジオは、玉井個人の特色を生かそうとするクライアントのみの仕事を受け、ア− ト志向が強かったといえよう。自分の気にいらない仕事は断るので営業はいない。広告代理 店、大手の博報堂を何かの都合で訪れた時、宣伝部長が「玉井さんが当社へ来てくれたのは 今日が初めてで、仕事をお願いしはじめてから7年目になります」というので、二人で大笑 いした。部長は年中僕のスタジオへやって来るし、ゴルフは一緒にやっていたからである。 殊に写真の特殊表現が多かった時代には、1点の作品に1週間、10日とかかることも多 く、こもりっきりでクライアントや広告代理店に挨拶に行くなど思いつかなかった。 当時としては、多少変わった写真家であったかも知れない。
玉井の指導方針
とにかく、僕が弟子に期待したのは、個性と感性、情報と技術の肉体化で、さらに「遊び 間」を持つということであった。「三尺下がって師の影を踏まず」のもとは童子教にある。 「七尺去って師の影を踏まず」が本来の教えで、師を師としながら、密着せず、己を自覚し 才能を伸ばすことである。師匠から弟子へと文化・技術をそのまま伝承するだけなら意味が ない。それは昔流の免許皆伝に過ぎず、この世に「玉井瑞夫」は2人はいらない。何かを自 分でプラスして玉井を乗り越え、早く自立して行け、ということである。 こうしたスタジオは、一見昔の徒弟制度のように見えるが、内容はまったく異なる。 師匠は弟子の力の程度を見て、おおむね3年か4年で自立させるか、大手代理店の写真部 などに斡旋する。しかし、僕はなるべくは、外国へ行かせて視野を広げ、自立心を養わせ、 根性を鍛えさせることを優先した。その方法としては遺産の先取りである。つまり、父親が 亡くなる頃、ずっと先々で彼らが年をとってから受け取る遺産では大した意味がない。 その10分の1でもよいから、先に遺産相当分を与えて、若い今現在に外国へ旅立たせ、 働きながら世界を見せるということを、玉井は親たちに熱心に勧めた。「鉄は熱いうちに打 て」ということで、これは夫々におおむね成功した。アメリカ、イタリアの現地でスタジオ をもち、ボ−グやハ−パ−ス・バザ−で活躍している者やチベットの奥地をさまよい、また ダカ−ルなど砂漠のレ−スを追っかけて死にそこなった者もいる。 写真大学1、2年生で来始めた者のほとんどは、卒業時には優等生になっていた。これは 大学より数倍の濃度のある日々の体感教育をうけているわけだから当然である。 どうしてもスタジオに残りたいという者は、正規の給与、健康保険等を用意した。彼らも 数年後には代理店写真部のチ−フとして迎えられたり、独立してその後、自分流の道を開い て教職についたり、審査員になる程度の進境をみせる者もいる。 僕の一番初めの弟子は外国へはやらなかったが、写真からTVに移って名古屋のテレビ会 社の専務になった。もう一人は僕の絵画好きが移って、ビュッフェの絵ばかり集めていたが 車気違いでもあったので、後にホンダ自動車の仕事を手がけ、世界各地でホンダ車を撮影し たB全ポスタ−50点を残し通産大臣賞を受けたが、一昨年僕より先に逝ってしまった。 僕の基本的な教育方針は、百人百色の個性を見極め、ダイヤはダイヤに、石は石に磨くと いうことにつきる。ダイヤの素質があるものが石にしかならぬのは勿体無い。また石にして もしっかり磨けば立派な玉になる。僕は弟子たちの資質を発見し、正しく評価し、必ず相手 に伝え、自信を育てることとその働きを妨げている邪魔ものを取り除く的確なアドバイスが 師匠の努めだと思ってきた。しかし、これは至難の技である。不思議に親子が写真家で、子 供が親を越えたものは、いまだに1人もいない。肉親間はもっとむつかしいのであろう。 僕のやり方で救われるのは、「師匠は厳しかったが、本当のことしか言わなかった」と彼 らは言い、師弟関係はその当時のままに続き、写真家として成立した者も、写真界を離れて 他の職業で一家をなした者も、彼らどうしでのつきあいもまったく変わらないことである。 時折、誰かのスタジオでやるサンマ・パ−ティなどと称するミ−ティングでは、隣りのネ コの話から彼らが見てきたばかりの最新世界情勢、不思議な造形論まで延々と8時間以上も やっているが、とんでもないウイットのある討論も飛び出し実に活気があって面白い。彼ら のそれぞれの生き方の本質では、当時と共通するものが根底にあるからであろう。 僕のようなタッチトレ−ニング的な考えを持っていた者は日本には少ないが、アメリカで は世界的に著名な写真家ア−ビング・ペンやリチャ−ド・アベドンなどを育成したハ−パ− ス・バザ−のア−トディレクタ−のアレキセイ・フロトウイッチなどがいる。
ディスカッションの日々
弟子たちは、毎日の実戦的な撮影や暗室作業で技術を身につけてゆくが、僕が留意したの は日頃の雑談に交えて文化史を語り、内外の第一級の写真や絵画などを見せ、ディスカッシ ョンをした。毎月、洋書屋が持つて来る外国の写真集、画集、デザイン年鑑なども相当数を 購入し、日本の同種の書籍とを並べての解説や討論が多かったが、僕自身も彼らと一緒に考 える勉強会になった。もちろん瑛九やト−タル・メディア研究所などで感銘を受けた話は直 通で伝えた。僕の話のレベルは常にグロ−バルな世界であり、世界に通用する文化、造形で あった。彼らの興味が目先の日本だけでは、「井の中の蛙」になり、これから先、僕のスタ ジオから彼らを世界へ放り出すことはできないからである。 彼らにとつて月4回くらいの休日やスタジオの空き時間は、スタジオのすべての設備や大 判カメラを使用して自分の作品制作も可能で、暗室もオメガ引伸器、点ポイント・ソ−スラ イト、プリントやネガを細かく測定できる濃度計などがあり、三色分解、マスキング、ダイ トランスファ−などやる気があれば相当のことがいつでもできた。 新入生には、レンズ構成の違いによるイメ−ジ・サ−クルの違いなど、各人に8×10の フィルム数枚づつを与えて強制的に実験させたが、自分で写し自分で現像させればいやでも 身につく。学校の図解だけの解説とは大きく違う。長時間露光による相反則不規などの実験 も同様で、こうした材料はいくら使おうと決して無駄にはならない。 月1回の例会は、弟子たちだけの互選と玉井選の2つがあり、僕とだけでなく仲間どうし でも厳しい討論を延々とやっていた。玉井選というのは、互選だけではややもすると八方美 人のようなものが上位になり、将来性のある問題作品を見逃す恐れがあるからだ。 直接師弟で行う研究会で一番効率が良く分かりやすいのは、作品の添削で、言葉だけの討 論、解説よりも身に沁みる。その場ですぐプリントをやり直させることも度々であった。彼 らが納得しても僕が納得しないからである。僕は彼らが迷い始めたら、まず実行させる。何 もしないでは答がでない。走りながら考えることも大切なのだ。 若者の特権は失敗が許されることだ。人間は努力するかぎり迷うものである。 ある程度力がついてきたと見れば、何度でも撮り直し、焼き直しをさせて各種のコンテス トにも応募させた。他流試合を経験すると視野も広がり、自信もつく。 もっとも、僕が審査に関係するコンテストに出品する写真は、僕は一切指導せず見ないこ とを申し渡し徹底していたので、審査後写真の裏面を見て弟子の作品が入賞していたことを 知ることがあった。 審査にたづさわってよく思ったことは、いい題材にめぐまれながら後一歩の詰めが甘い作 品で、究極は自分への厳しさが足りないことに気づかない者が多いことであった。作品とし ての成立、入落は紙一重である。
玉井流とは
僕は、まったく独学で写真家への道を歩んだために、実証主義、能率主義といったところ がある。人が10年かかることなら2年でやろう。5年なら1年でやろうと考える。 例えば対数表や因数分解を自分で考えだそうとすれば、僕などの頭では一生かかってもで きないだろうが、先人の教えの基本的な公式なら義務教育の数時間で知ることができる。僕 は、因数分解に相当する写真のキ−ポイントばかりを選び出し、それに集中した学び方をや ろうとし時間の短縮をした。(それらは「私の風景」の裏話にある通りである) 殊に写真表現技法の特色といえる物理と化学の部分などは、ちょっとした実験をしてみれ ば、一目瞭然、身につくものだが、そんな実験をやっている人はほとんどなく、概念だけで 知っているつもりで、肝心のところで間違いを起こしている人が如何に多いことか。 さらに、唯一の父の教えであった「いいお茶を日頃から飲んでいると、まずいお茶はひと 口飲めばでわかる」という「ホンモノを知ること」主義に徹底した。それはまた一流品に接 触しようと努め、体で知ることでもある。僕はこれを自分の弟子たちにも勧めた。 僕は海外旅行では、文化史上これはホンモノと目星をつけた好みの文化遺産は、それらの ある美術館、博物館などへできるだけ行くようにと心がけ、ニュ−ヨ−クの近代美術館など 特に写真・絵画とも得るものは大きかった。 この考え方は、僕の文化史好みにある。歴史の中にいるすばらしい先輩たちは、僕を励ま し慰めてくれる。先人の教え業績は率直にありがたくいただき、僕は未来への予兆を知ると いうことである。 しかし、世界は広い。僕はプロとしてせめて写真だけでも世界や国内の著名な写真家の歴 史的な作品のおおよそは見たいと思ってきたが、いまだに写真集・各種年鑑などで見て知っ たものの方が多い。それらの報道写真・芸術写真はモノクロ−ム・カラ−共にプロの作品が 圧倒的に優れていた。命をかけているかどうかの違いであろう。僕は世界を知れば知るほど 自分の不勉強を恥じた。 当今は、国内での展覧会の招待状・案内状は、アマチュア・プロを含めて月に平均60枚 くらい来るが、案内状のカット写真を見て行く気になるのは月2回くらいである。アマチュ ア写真家の良いものも年間で2回くらいある。全体として歴史に残りそうな作品は年に3点 もあればいい方である。広告・カレンダ−・TVコマ−シャル等は、送られてくる入賞作品 が掲載された雑誌特集号で見る。 写真大学・芸大・写真学校なども案内が多数来るが最近は低調である。学ぶということも 人を教えるということも大変なことだ。現在も学校だけでは力不足で、プロに師事してから 独立し、伸びて行くものの方が多いといわれる。 20世紀に芸術は、お手本を捨てた。そのお陰で多様な表現が許容された。類似が文明を つくり、異端が文化(芸術)をつくる。芸術的才能は○Х式試験法では採点できない。芸術 には正解がないからだ。エントロピ−の法則では、「でたらめ」の効用が文化を動かす。 これからの社会では、師匠としても大変であろう。一見落ちこぼれの中に文化を動かす才 能が秘められているかも知れないのだ。
よく学び、よく遊ぶ
ここまで書いて、読み返してみて、大きな書き忘れをしていた。 それは、「もしこんなに勉強ばかりしていたら、全員が大写真家になっているか、ストレ スで参ってしまっただろう」、つまり我々は「全員でよく遊びもした」ということである。 夏は、社員旅行で八丈島など海へ行ったこともあるが、なるべく騒音の少ない野反湖や西 湖などの高原での自炊、冬は蔵王、赤倉、志賀その他へスキ−に出かけることが多かった。 また翌日が休みの土曜日は、スタジオで3卓くらいを囲んで徹夜マ−ジャンをやった。 遊びの時は、対等である。僕が彼らより弱かったのは、1級クラス以上のスキ−とジャン 師に近いのがいたことだが、ゴルフは年季からやはり僕が師匠であった。 ただし、彼らは日頃仕事で僕に頭をコツンとやられたり、討論でへこまされている分を遊 びにかこつけて、下手な意趣反しを企むので、油断がならなかった。彼らが撮った僕のスキ −写真は顔面制動の瞬間とか、スタジオのは居眠りやクシャミをしているとかロクでもない ところばかりを狙っていた。 そんな訳で、僕も弟子の結婚式の祝辞のしめくくりで、つい「この前のマ−ジャンの貸し を早く返せ」とやってしまったことがある。これは本当の蛇足になってしまった。
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
HPでの助言 近頃、このHPで僕は戸惑うことが多くなった。 僕は月に2回ぐらいは、管理人ゆきのグル−プのHPを覗いてみる。そして、ある写真は こうすれば、こんなことに気づけば本格的に良くなるだろうにと思うことがある。一方それ ほどでもない写真がまるで誉め殺しにあっているような気の毒な例もみかける。 あれだけ毎週のように写真を載せ、いつも秀作と認められる作品を出し続けるのは、天才 的な写真家でも無理であろう。僕は写真学生や弟子をずいぶん長く見てきたが、相当素質の ある者でも、厳しい指導と修練を経て、2、3年後にやっと芽を吹くような1、2点の作品 が出始めるものである。 いくら外交辞令でも、あまり初期の段階で、お互いがどれもこれも誉め合って、それが刷 り込み状態になると、自分の作品の良し悪しを判断する目を失い、謙虚な自嘲の精神を忘れ てしまうだろう。これを修正するには10年は足ぶみすることになる。 瑛九が新卒の芸大生に、「君たちは芸大で受けたアカデミックな垢を落とすには10年か かるだろう」といい、池田満寿夫には、「君は芸大入試を3回落ちたからよかった」といっ たが、その通りになった現実を僕は見てきた。 そんな心配から、カキコミをしようかと思ったこともあったが、僕の率直な言葉は充満す る誉め言葉のなかでは、まったく浮き上がり異端に思えるだろうし、ある人々にはいらぬお 節介とうつりかねず、そのことはやめにした。 しかし、質問してきた2、3の人には回答をした。僕はゆきと相談したが、中には自分の 写真の率直な意見を聞いてみたいが、遠慮している人もあるかもしれないという。僕は機会 均等の建前から、以下の条件でよければ、ある期間それを実行してみるということにした。 「画像掲示板」を設置し、そこへ登録された希望者は、必要を感じる時は、月1回程度、写 真を張りつければ、僕が質疑に応じ或は添削するという方法である。 僕は他に本来の仕事があり、回答が遅れることもままあろうと思うが、無料でこうした写 真の添削、回答をするといった粋狂なプロは一人もいないから、その辺の変則は了承しても らい、僕は生真面目なボランティアの一端として実行してみようかと考えた。 僕のやり方は、僕が長年助手たちに対応した玉井スタジオ流の例会と同様に、まつたくス トレ−トな応答である。外交辞礼的ほめ言葉などの無駄、或はかえつて弊害となる言動は、 一切省き、お互いが本音を伝えあうものになる。 * これに対応して参加したい人は、『画像掲示板』を管理するゆきに申し入れること。 あまり多数の場合は、僕の時間、体力などから対応ができないこともあり、申込み 内容を検討して玉井が参加の可否を選択させていただき、登録を連絡する。 メ−ルの宛先 ゆき(bellrose@dokidoki.ne.jp)
「玉井瑞夫インタ−ネット写真展」 <写真講座>参加要領 1。写真に対して、好奇心・情熱・集中力をもって取り組みたいという人。 (玉井は、率直にかなり厳しいことを言うことあり、それを覚悟で参加すること) 2。信義をわきまえている人。 3。申込者は、インタ−ネット上での「玉井の弟子」相当として歯に絹を着せず対応する 男女、経歴、年齢を問わず同等とし、便宜上、呼び名は、すべて「君」とする。 4。氏名。ハンドルネ−ム。性別。職業。年齢。住所。電話。Eメ−ルアドレス。 HPアドレス。写真歴。趣味。特技その他などを明記すること。 また、自分の写真への抱負、知りたいことなど自由な短文を添付すること。 (HPアドレスのない方も参加可能) (ハンドル・ネ−ムのみの参加では、覆面で人にものを尋ねるに等しく回答しない) 5。必要に応じ、月1回程度で質問事項、或は作品を提出し、作品の意図、質問内容を添 付すること。作品は自分のHP上のものを指定しても可。写真以外の関連質問も可。 玉井はこれに応じ、回答、添削などをするが、時には電話で回答することあり。 (登録者には、必要に応じ玉井の住所、電話、ファックス、Eメ−ルアドレスなどを 知らせる) 6。上記作品への応答をHP上に掲示したり、他の人も参加して討論することもあるが、 信義に反するもの、秩序を乱す文言は削除する。 7。「玉井瑞夫インタ−ネット写真展」は、必ず見ておくこと。 (回答時、これまでの講座の該当部分を引用し、指摘することも多い) 8。玉井の時間、体力などから、対応がかなり不定期になることもあり、また、この試み の期間は、まだ決めていないが様子を見ながらということで、勝手ながらこの点もあ らかじめ、ご了承願いたい。