part.13         

< 脳と創造の仕組み >
            
  このところ、僕は<写真表現>の造形理論への入門、つまり理屈っぽい話ばかりをやっ
 てきたので、「閑話休題」。この辺で皆さんの頭のしこりがとれるような話をと思って
 「脳の仕組み」をとりあげた。
             
                自分とは何か
                
 唐突に、「自分とは何か」と問われて、戸惑わない人はいないのではなかろうか。やがて
あれこれの答が帰って来るであろうが、その殆どは外界の中に存在する自己をイメ−ジしな
がら考えること、つまり、世界の中の自分を考えての答であろう。           
 自らに疑問を投げかけ、自問自答が進むと、自分と外界を分ける自意識という抽象的な問
題に突き当たる。そこで改めてまた、自分というものを意識する。するとその自分というも
のを意識するもう一人の自分というものを意識することになる。そしてこれが無限に続く。
           
 僕は、そんな時ふと手にした脳の本がきっかけで、僕の堂々めぐりはストップした。僕は
さまよいの思考から現実に立ち返り、「自分とは何か」の問いを傍らにおいたまま「人生は
 矛盾そのもの」、そして自分自身もその渦中にあるという答に辿りついた。
                
 僕は脳の仕組みがある程度分かるようになったとき、つまり人間だけがすぐれた前頭葉を
持ち、それが文化文明を生むと同時にエスカレ−トすると人間を抹殺し、また動物の本能と
しての集団欲を満たそうすることからおきる「厳しい摂理」から「悲しい宿命」を負い、相
克の世界に生きる動物だということを痛感し、ある種の諦観を持つようになって随分リラッ
クスできるようになった。                             
          
 僕の諦観とは、「人間とはわけの分からぬもの」「それでも何とかなるようになるもの」
「そんなわけの分からぬものだということが分かった」ということである。       
 つまり、『写真も芸術も正解がないからおもしろい』。僕は、そこから再び出発した。 
            
 ところで、脳の話は脳を解剖して見せるわけではないので、話はどうしても多少理屈っぽ
いことになるが、三段論法式に順序を追ってみて行けばそれほど難解でもない。 
 しばらく辛抱してこれを読み終わるころには、かなり頭のしこりはとれて、スッキリ・サ
ッパリすることになるのではと思う。






ストロンチユーム90   1966 玉井瑞夫

  これはAPA展で「公共社会」
  をテーマとした集団制作への出
  品作。

 この作品を、クリックすると
  「裏話」へ行けます。

                                 

人生は矛盾そのもの
 「人間は、非合理な動物。割り切れないのが人生。だから割り切れないことをするのが良
い」これは、あのクルマの本田宗一郎氏の言葉である。本田氏の言葉は、だから原理的なこ
とではあまり悩まない方がいいということであろう。
         
 「人間が非合理な動物である」というのは、本田氏ならずとも古今東西の哲人、聖人、君
子もいい、誰もが知っていることだが、あっさりと「割り切れないことをするのがいい」と
いう本田氏の言葉は明快である。人間は割り切れないから迷い、そして迷いの連続、間違い
を反復するのが人間の本質である。    
         
 迷いの否定は思考の停止、つまりは人間性の否定につながることになる。瞬間だけに生き
る動物や赤ん坊には、自由という精神状態はない。成熟した人間の自由には間違いが起こる
が、それが人間の自然の姿で、創造進化を生むもとになる。           
               
 電子計算機の間違いは故障であり、もし電子計算機に自由があると使いものになるまい。
≪割り切れないことをすること、それこそが創作活動である≫こうなると禅問答のようだが
科学の立場では、「自分とは何か」に始まるこれらの問題の手がかりは「脳の中」にある。
つまり、脳を知ることは、人間を知ること、自分を知ることに通じる。

脳への興味
 私が脳のメカニズムに興味を持ったのは、世界的な大脳生理学の権威、故時実利彦博士の
「脳と人間」という本を読んでからで、平明なこの本のお陰で私は大脳ファンになった。 
以後、おりにふれ内外翻訳を問わず拾い読み乱読するうちに、時折弟子や学生にそのうけ売
りをやってみた。                                 
             
 初めのうち、彼らは何をいまさら変な生理学がはじまったくらいの顔付きであったが、や
がて私の講釈も勘所を心得てきたのか、彼らも次第に興味を持ち始め、「つまり、脳の生理
学は哲学だ」などとうがったことをいう学生も現れてきた。これは写真表現といった創作に
立ち向かう者にとって、大脳生理学の概念くらいは、常識とすべきだと思うようになってい
た私には、わが意を得たり。ついに玉井ゼミの第1次限目の講義は「脳の話」になった。 
          
 この項は、時実利彦氏の著作を中心に、生殖生理学、人間の性についての第一人者大島清
氏、脳の意識哲学、考えるメカニズムの先駆者品川嘉也氏、そのほかセルゲーエフ、コリン
・ウィルソンその他の著作から「脳と創作」に関連すると思われるごく一部の紹介である。
          
 もちろん門外漢の私流の紹介の仕方は、一般的な概念が理解願えれば幸いといったもので
ある。(この講座のテ−マの中には、後に大脳の生理学を前提とする話も出てくるので、こ
 の辺で「脳の仕組み」を紹介しておきたいという意味も含まれている)

脳のメカニズム
 その昔、私は脳をイメ−ジする時には、クルミの中身のようなシワシワの塊を思い浮かべ
「シワが多いほど、また脳は重いほど優秀だ」といった概念をもっていた。しかし、これは
あまり関係ないようだ。                      
      
 脳の本によると、ネズミやウサギの脳には、ほとんどシワがなくてツルツルだが、イルカ
は人間よりずつとシワが多く、クジラやゾウは体重には比例しないが、人間よりもはるかに
重い脳をもつているという。人間の脳は身長に比例し、男性は女性より平均1割くらい重い
脳をもつている。でも、「女性のアタマは男性より1割方は悪いだろう」などと言ったらセ
クハラとかで大変なことになる。頭のよいわるいは、脳細胞の配線が良くできているかどう
か、その程度が決め手だといわれる。                        
       
 脳は構造上からみると、大脳と脳幹それに小脳に分けられる。大脳は左右2つの大脳半球
がくっつき、その間に棒の形をした脳幹という部分がはさまれ、その下は脊髄につながって
いる。私たちのもろもろの精神は、大脳皮質にある神経細胞の精巧な働きによって創り出さ
れるが、脳の働きとはこの大脳皮質の神経細胞の働きであり、「大脳皮質こそが人体最高の
中枢」である。                                  
       
 小脳の働きは、大脳皮質から運動の命令を受け、運動をチェックし、全体として体の均衡
を保ち、人体における運動の自動調節器の働きをする。脳幹には、生命を維持するための神
経系である自律神経の中枢がある。脳幹には精神はないが、命を保証する働きがあり、健康
な身体を維持している。  

生涯変わらぬ脳細胞
 さて、人間の高等な精神を創り出す大脳皮質の脳の神経細胞は、140億個あるといわれ
る。大脳皮質は平均の厚さが3ミリメ−トルの灰色をした薄い膜の層で、シワを伸ばせば新
聞紙1枚くらいの広さがある。脳神経細胞はこの薄い膜の中にぎっしりつめこまれ、このま
までは頭蓋骨の中に納まらず、複雑な深い溝とシワになって収っているというわけである。
    
 ところで、普通の身体細胞は、3年すると約8割が入れ替わるが、脳の神経細胞だけは一
生涯、全然いれかわることがない。怪我で壊れても再生せず、減りこそすれ、1個も増えな
いのが脳細胞の特質だといわれる。赤ん坊から大人へと脳が重くなるのは、140億個の脳
細胞がそれぞれ10本以上の手をだし、どんどん絡みあってゆくからだという。
       
 とにかく私たちはこの一生涯変わらぬ脳細胞だけに自分を認めることができ、私たちは脳
細胞とともにあるということになる。私のような者は、1個1個の生きた脳細胞を考えると
現在の地球人口約55億の2倍半もの生きものが、この頭に詰っていると思うだけでもう変
な気分になる。それはまた、この不思議な頭の中の小宇宙の神秘さを想うからである。  
         
 それは、「人間はだれでも、容易に無限という概念を持つことができる。無限大のものも
無限小のものも決して見ることができないにもかかわらずにである。これは偉大で不思議な
脳の能力である」といったことである。      
             

                       

すばらしい前頭葉の働き       

      
  ところで人間の大脳皮質は2重構造になって
いて、内側のものを「古い皮質」、外側のもの
を「新しい皮質」とよび、その働きを要約する
と、次のようなことになる。
     
 内側の「古い皮質」は、人間の3大本能とい
われる食欲、性欲、集団欲とこれらの本能の欲
求から派生する快、不快、怒り、恐れといった
情動(行動を伴う感情)をつかさどる働きをす
る。この働きは素朴なもので、生物がたくまし
く生きるみなもとであり「欲求と情動」の座で
ある。                                   
       
 外側の「新しい皮質」は、合理的で高等な分
業作業をする体制になっている。頭の後ろの部
分(頭頂葉、側頭葉、後頭葉)では、外からの
知識を取り入れて知能を高め前の方の部分(前
頭葉)では、取り入れた情報をもとに考え、意
志を決定し、人間的な行動の指令を出す働きを
する。                                  
         
 これらの働きは、計画したことがうまく実現
すると喜び、失敗すると悲しみを覚えるという
情操を現わにする。つまりこの「新しい皮質」
はよりよく生きるための知、情、意の働きをつ
かさどる「知性と理性」の座ということになる。
     
 人間は、もう4、5才になると自分の存在を
無視されるのを悲しむようになるが、これが自
意識、個性の芽生えである。自意識は負けん気
をおこし、自分の能力ではどうすることも出来ないとき、ねたみやそねみの心がおこり、劣
等感を覚える。これを認めるのは何も恥ずかしいことではない。それは前頭葉を持つ人間が
人間であるためには、どうすることもできない心であり、深い情操の心の源でもあるのだ。
                                        
 素晴らしく発達した前頭葉の存在は、人間ひとりひとりに個性を与えて、「個性」の座、
「思考」の座として働いている。個性から芽生える自意識は自負心、優越感を生み、その競
争意識は、他者よりもより優位に立とうとして創造し、文化を生んできた。 
 人間が退屈を口にするのは、何かしようとする創造、何かしたいという意欲の裏返しで、
とりもなおさず、前頭葉の存在を示すものである。 

創造のヒラメキ
 創造とは、これまでのものを否定し、一線を劃する差別化であり、発見であり、そして割
り切れない産物である。         
     
 創造には、深い思考と思いきった行動が必要である。人間は、「左脳の論理思考」と「右
脳のイメ−ジ思考」とを使い分けて思考という行為をする。言葉だけ論理だけが浮かんでも
いきいきとしたイメ−ジが浮かばない時には思考は停止する。 
       
 イメ−ジが浮かんでこそ思考に入れる。思考の道具としては、論理よりも右脳のイメ−ジ
思考の方がずっと大きな割合をしめる。    
       
 左脳は言語機能を代表し、論理思考は物事の筋道をはっきりさせ、問題の構造を見やすく
するために、大切な思考法である。しかし、より新しい論理思考に入るときにも問題のイメ
−ジがつかめなければ、考えることさえ不可能である。         
       
 右脳は非言語機能と関係が深く、普通は直感とか感性とか感覚そのものをさすが、今日で
は創造的なひらめきが問題にされることが多い。右脳の思考活動は具象的で、言葉でいい表
せないような複雑な形の物体や図形を理解する。空間感覚、時間感覚も右脳の分担で、視覚
パタ−ンと視覚的総合能力によって事柄の成り行きを予測し判断している。
            
 右脳は言葉をしゃべれないが、右脳の沈黙はなんとも意味深長である。右脳は左脳のしゃ
べる言葉に生気を、きらめきを、そして確信を与えてくれる。右脳の世界は音楽的で、詩的
で、色彩豊であるといわれる。                    
              
 ところで右脳と左脳のどちらが大切かといった質問はまったく無意味だ。それは車の両輪
のように、2つが1組になってはじめて役にたつからである。右脳は、ほとんど無意識の世
界、「体で覚える」という動物に共通する「無口の巨人」といわれる部分で、その上に、意
識の世界、おしゃべりで理屈に強い「考える人」「数学の教授」といわれる左脳が加わるこ
とによって、人間らしい脳が作られているのだ。  
           
 ところで、イメ−ジ思考からどのようにして創作のヒラメキにいたるのか。      
            
 創作への道は、「偶然と必然のあざない」であるといわれる。集中力が身につき、短時間
でも頭から火がでるくらい集中して考えることができれば、その後リラックスした時に、素
晴らしいアイデアがひらめく。                    
      
 リラックスした時に解答が得られるというのは、必要なイメ−ジが浮かび、イメ−ジとイ
メ−ジの思いがけない結びつき、あるいはイメ−ジの変形がえられるということである。
 集中思考の左脳が一休みしたある一瞬に、右脳に全体像が見え、問題が解決するのだ。こ
うした体験を積み上げて行けば、思考力が身につく。さらにヒラメキを引き出す援用には、
偶然を必然に変えようと試みる脳のアルファ波の活用などがある。         
   
(ちなみに、僕の場合は、夜ギリギリまで考えてそれ以上は追求しないでさっと寝ると、朝
 方うつらうつらしている時アイディアが浮かんでくることが多く、すぐ起き上がらないで
 それを整理する。急に立ち上がると順序不同でまとまらずに消えてしまう。)
                                         
 現在の教育の欠点は、考える方法を教えないことである。これから先の話は、この講座の
写真表現における脳のメカニズムと造型の関係や教育の方法論などの項で実践論として述べ
るつもりである。

人間にたぎる「殺し屋」の血と「創造」の関係
 さて、歴史的にみてホモ・サピエンス(知恵ある人)、万物の霊長といわれる人間がなぜ
人殺しをするのであろうか。                           
 誰が何と否定しようと、この瞬間にも地球のどこかで人間どうしの殺しや戦争が行われて
いる。勿論、すべての人間が人殺しを行うというわけではない。人間は理性のバランスを失
った時には自らの命を絶ち、また殺人を起こす素地をもつ動物であるということである。 
    
 この「自殺」と「人殺しの血」は、特に人間だけに発達した前頭葉の存在が原因であり、
皮肉なことにそれがまた高級な頭脳を育て、人間の文化を生む源泉でもある。     
 人間が他の動物と大きく異なるところは、新しい大脳皮質のうち前頭葉と側頭葉が非常に
発達しているということである。
     
 私たち人間は、この「新しい皮質」によって将来に向って計画をたて、未来に希望を抱い
て、その成就と達成に努力しながら生きてゆく。将来に思い、未来に夢を描けるのは私たち
人間だけである。
    
 ネコやウサギの脳は古い皮質だけで、新しい皮質は殆どないといってよいくらい貧弱で、
とくに創造と情操の座はまずない。自らが創造してゆくという精神を生み出す前頭葉のない
ネコは、明日のことを考えてくよくよ心配することも自殺することも、また「ネコ文化」を
つくることもなかった。同様にイルカやチンパンジ−は条件反射を利用して、上手な芸を仕
込めるが、「海の中にイルカ文化」「ジャングルの中にチンパンジ−文化」はない。
     
 だがしかし、こうした人間だけに見られる高等な意識から生じるねたみ、そねみ、嫉妬、
失望、名誉、独占、征服欲といった複雑な情操の心は、また原始的な集団欲という本能の中
で前頭葉が自分を徹底的に主張しあい、あるいは限りない征服欲がエスカレ−トするとき、
相手を消してしまうということにもなるのだ。
     
 動物は前頭葉が未発達で、情操という心がないため、同種類の動物の争いは原始的な本能
からだけのもので、ト−ナメントのようなものになり順位づけだけで満足する。尻尾を巻き
腹を見せたものを、さらに攻撃することはない。もし、最後まで雌雄を決するなら、ライオ
ンなどの猛獣はこの地球上から姿を消してしまったにちがいない。

    
集団欲の中で
 それほどに、「人間の集団」が人殺しに及ぶ矛盾をはらむとすれば、われわれは集団を組
まなければよいのではないかということになるが、それを許さぬのもまた動物としての側面
をもつ人間の本能なのだ。人間の集団欲は、非常にきびしい本能である。
 太平洋をヨットで単独横断した堀江青年の手記には、何よりも苦しかったのは孤独にたえ
ることであったと書かれている。  
     
 長い間、独房に入れ、人間をまったく孤立させる実験では、錯覚、幻覚、妄想を体験し、
思考力が弱まり、判断力が狂って来て、たやすく洗脳されるようになる。つまり精神的パニ
ック状態になるという。サルを1匹だけで孤独な状態におくと、精神的身体的に異常状態に
陥り、自分で毛を抜いてすっかり丸裸になるという。つまり、「古い皮質」での本能は、人
間も動物もほぼ同じだということだ。  
     
 言葉や文字などは、集団欲を叶える非常に洗練された手段であるが、集団欲を叶える一番
素朴で効果的な手段はスキン・シップである。 赤ん坊への集団欲の充足は、皮膚への圧迫
(スキン・シップ)で可能である。これは、心の連帯、一体化、同体化をはかるための「声
なき言葉」である。イルカなど動物に芸を仕込むときも同様で、体を軽くたたいてやること
でコミュニケ−ション、一体化をはかるという。
      
「人間は集団で、文化文明を創造しながら、人殺しという辛いことをする動物。これは理屈
ではない。」            
「人間は理屈に合わない非合理な存在として、お互いの人間関係がつくられるという「厳し
い摂理」から、悲しい宿命を負い、相克の世界に生きる動物である。」
    

集団のル−ルと救い
 人間の歴史の一面は、力を合わせて集団防衛をしながらも、集団の中でお互いが個を主張
し、その集団内あるいは集団どうしにおける困惑と闘争の歴史ともいえる。      
     
 そこで、集団の秩序を保持しようとして生まれたのが、古い未開社会ではオキテであり、
文明社会では風習、道徳、法律、憲法といったル−ルである。そして更に精神的な救いとし
ては、カリスマ的な聖者によって宗教が創始された。
     
 宗教の原理的な部分を大脳生理学的な見地からいえば、それはまず、何をおいても生きと
し生けるものは、お互いの命の座である脳幹の存在をお互いに認め合い、共存すべきだとい
うことに尽きる。          
     
 脳幹の存在は人種の違い、民族の違い、言葉の違い、皮膚の色の違い、風俗習慣の違いな
ど、すべての違いを超越してそれぞれの生命を守ろうとしている。アフリカの聖者、アルベ
ルト・シュバイツァ−博士の説く「生への畏敬」には、「われわれは、生きんとする生命に
かこまれた、生きんとする生命である」とのべている。 
    
 ところが、ル−ルと宗教に頼るコントロ−ルにもやはり大きな矛盾と非力がのこる。つま
り世界各国、各民族はまちまちの倫理観と法律を持ち、生死を裁く場合のル−ルにおいてさ
え確たる共通項はなく、また宗教の教義の根底においては、命の座を守り争いを否定するは
ずのところが、その痛ましい歴史が実証するものは、絶え間なき宗教間の争いや、時には統
治技術としての宗教戦争を繰り返してきたことである。 
     
「私たちは人間になろうとすればするほど、非合理な存在になる。」非合理な矛盾に満ちた
存在から逃避することは、前頭葉を喪失した人間を意味し、その瞬間人間でなくなり動物、
昆虫と化してしまう。このような大変矛盾に満ちた非合理な存在をどう調和し、克服して行
くかが人間に課せられた大きな試練である。
  

[ 補 講 ]
来たるべき世界への対応
 人間が個人間、民族間、国家間の争いに、うつつを抜かしている間に、現代の世界観が内
蔵してきた致命的欠陥が、世紀末の破壊的諸現象を現にしているにもかかわらず、なおも愚
行を繰りかし続ける人間は、ホモ・サピエンス(知恵ある人)の名前を返上し、ホモ・スツ
ルツス(愚かな人)と改名すべきではないか。ル−ルと宗教にも見放され、あやまった世界
観に汚された地球は、さらにきびしい現実を迎えようとしている。          
     
 この問題について、21世紀文明の見通しを語るジャ−ナリスト、ジェレミ−・リフキン
とエコロジー経済学のホワン・マルチネス=アリエ、いづれも優れた文明批評家であるこれ
ら2人の見解を参考としながらのべておきたい。  
      
 現代の世界観は、一言でいえば17世紀にニュ−トンによって築き上げられた機械的世界
観から、産業革命に始まる物質的繁栄を最優先とする機械化、工業化万能の近代文明への道
を決定した。そして、この道を永遠の真理のごとく信じ、ここ400年の間、猛烈なスピ−
ドで突進を続けた。その結果は、地球の資源の枯渇や環境汚染を生むことになり、ここに至
ってようやくひとつの冷厳な「真理」によってその行く手をはばまれることになった。  
     
 この「真理」が、「エントロピ−の法則」といわれるものであり、この法則は現代の物理
学が絶体的真理と認めるものである。人類の利用可能なエネルギ−の総量は有限で、これま
では資源の有効利用をめぐって、「適者生存の原理」が働くとされてきた。しかし、遺伝子
工学、電子工学、生態学、サイバネティックスといった新分野の科学が発達する今後におい
ては、新しい概念による時間と資源を、いかに有効に利用するかが、新たなる「生存原理」
になるといわれている。                              
    
 「エントロピ−の法則」と生態系の法則を無視すれば、必ず破滅的な結果が訪れるであろ
う。今日の状況は、使用可能な資源基盤の崩壊、膨大な生物公害の堆積、種の遺伝子プ−ル
の汚染、地球の繊細な生態系の破壊、そして遺伝子の多様性の激減など、すべてが破局の訪
れを示唆している。
 大きな技術革新には、必ず大きな思想革命が伴うものである。今や私たちは、これまでの
世界観を放棄し、地球上に存在するすべての生き物を含めて、その生きる権利と生存を保証
する国際的感覚としてのヒュ−マニズムとともに、価値観の多様化「エントロピ−の法則」
を把握した新しい世界観を創りあげねばならぬ極限を迎えつつある。          
    
 しかし、私たちはしいて絶望的に考える必要はない。人間の歴史には幾多の至難を克服し
新しい発見創造のあかしもあるのだ。未来の盛衰はひとえにわれわれのバランス感覚にかか
ってる。