瑛九との出会い (第2回)     「瑛九のあれこれ」


メガネと瑛九と」
         
 おしゃれには、まったく関心がなく、
身なりに無頓着な瑛九はメガネのゴミも
まったく気にならぬようであった。  
「衣服を着替えると、別人になったよう
な気がして、アイディアがとぎれる」、
自分はアルチザンだという瑛九は、絵具
のこびりついた仕事着のままでどこへで
も出かけた。






瑛九のあれこれ

 
 瑛九の思い出はつきない。
 僕が「彼は天才だったのではなかろうか」と思うようになったのは、彼が亡くなってから
である。モ−ツアルトの妻が彼と離婚した後に、あの人は実は天才だったのではと、気がつ
いたという話に似ている。それが身内のものであったり、あまりに親しい友人であったりす
ると、ついその天才を天才と感じないものだという話である。
    
 彼が、ただならぬ人であったというのは、生きた彼と接しているときは、そのことが彼の
あまりにも柔和な人柄に隠されて、頭のどこかで大変な人だと思いつつ、月日が流れてしま
った。 彼の人間像を思い浮かべるほど、彼の善意に満ちた人柄と、彼の自由への戦いの厳
しさを思いだし言葉もない。
     
 彼は我々にとって、終生唯一の師、無上の師となったが、回顧録で述べているアイ・オ−
の言葉には、大きな意味がある。
 アイ・オ−は「僕が加入したデモクラ−トはユ−トピアそのものだった。だが、それはそ
れまで40年の歳月の中で、瑛九が日々血のにじむような純粋な善意だけの行為によって見
いだし獲得した世界だった。僕は22才でそれをただみたいにもらったことになる」と。
      
 アイ・オ−のいう「デモクラ−ト」とは、瑛九がつくり、また解散した「デモクラ−ト美
術家協会」のことであるが、それを理解するには、日本の閉鎖的な画壇の公募展にすこし触
れておく必要がある。




公募展 とは

 公募展とは、「少数の人々が会員となって、自分たちの作品を発表すると同時に、自分た
ちの審査を受けて出品せよと呼びかけている」もので、画壇ではこれが新人の登竜門のよう
になっている。しかし、弊害も多いところである。                  
      
「世に出たい画家たちは、どこかで認められたくて常に人の審査を頼って、入選という証明
書を目指しているのが現状である。したがって、公募展の出品者は大衆に呼びかけるのでな
くて、画壇のボス的な人々だけが目標となる。大衆と画家とが誠実な対決をする場は、公募
展においてはまったくない。                            
       
 大衆と画家が平等の線上で、話しあうには公募展の組織は余りにも階級的である」と瑛九
は言い、「こうした公募展への批判は、口先だけでなく、身をもって事実の行動によって批
判しなければ、批判したことにならない。」また「こうした特別に画家だけが必要でもない
常識的な問題から出発しなければならないところに、果て知れぬ日本画壇の後進性がある」
と瑛九は雑誌その他の評論で言い続けていた。




デモクラート美術家協会 誕生解散

     
 瑛九は「我々の作品が自己主張をもたず、意識があいまいで、表現意欲も意志も弱いのは
我々が日常生活の上で、画壇の組織の中で、あいまいもことした態度で、形式的にしかもの
が言えず、意志をもうろうとさせて調和せねばならぬような訓練を甘んじて受けてきたから
に外ならない。」と言い、「デモクラ−ト美術家協会」という会をつくった。
      
 しかし、この会は既成の画壇の会とは異なり、一つの芸術を主張した集まりでなく日本に
おいて現代的であるために、もつともそれをさまたげていると思われる「前近代的な依頼心
を拒否する」という芸術以前の問題であっまつたグル−プであった。
 具体的には既成団体に所属することや公募展を否定するものであった。また、必然的に画
家ばかりでなく写真家、デザイナ−、評論家、雑誌記者、政治運動家、そして何もしないが
意見に共鳴した人々の集まりでもあった。
       
 この会は、6年後に解散した。この解散理由も瑛九らしい破天荒のものであった。   
 公募展を拒否したこの画家たちは、東京国際版画ビエンナ−レが彼らの格好の舞台になっ
たが、この展覧会で泉茂、池田満寿夫、吉原英雄、アイ・オ−などが文部大臣賞その他を毎
年受けるものが続出した。その結果この会の権威に依頼心を持つ者が現れる気配があり、そ
れでは既成画壇と同様になり、会の目的に反するから解散したのだという。
     
 これが普通の会なら、これをチャンスに更に権威の拡大を図り、白足袋と呼ばれるリ−ダ
−格が会の上部にあぐらをかくところだが、瑛九たちは正反対の行動をとった。
     
 瑛九はこうした意識から、既成画壇を徹底的に批判し、否定した。
 しかし、それは容易なことではない。大変な勇気と信念のいることである。自分の帰属す
る場を持たないことは、既成の基準の埒外にいることであり、世間的な評価も断念しなくて
はならない。若い人ならまだ自分を夢見ることができるし、その権利がある。しかし、年齢
的にも成熟した瑛九が自分を信じ、なお自立の道を模索した代償は大きなものがあった。 
      
 彼はようやく死の寸前に自分の道を発見したが、あまりに高度な独創性のために、彼のよ
うな作品がヨ−ロッパにも、アメリカにも似たものがないという簡単な理由から、日本では
認められなかった。




 善意に満ちた人と作品 

      
 瑛九は48年の生涯をとおして、変転する世代のなかで、たえず危殆にひんしている自由
を求めて、それを造形としてとらえるべく、悪戦苦闘した。              
     
 瑛九は、「現実に対する自由な批判の精神なしに芸術が成立するだろうか? すくなくと
も現代芸術が成立するために現実の我々の住む社会に対して何らの批判なしに、何らの自己
主張なしに、世界観なしには不可能である。この誠実な現実に対する態度は、常にあやまっ
て或は故意に見過ごされてきた。」と言っていた。
      
 彼は、この誠実が芸術と同居できること、いや芸術の唯一の価値とすることができること
を発見した。誠実に生きること、それはまた満ちあふれた愛をもった善意である。    
 ヨ−ロッパの作家が物体の実在より出発したごとく、瑛九は<善意>を主題として彼の世
界を創ったと思われる。それは神秘的な世界、愛に満ちあふれた神秘主義的な世界である。
 瑛九は、彼の絵を十分理解できない人々にも愛された。




自己嘲笑の精神を持て

     
 彼は誰からも、なにも直接おそわらなかった。つねに手探りで自分の技術を探しもとめ、
独特な抽象芸術の観念を発見した。
 油彩画は、晩年の3、4年に制作意欲が爆発したようにその作品数も増え、質の高まりを
増してくる。瑛九は同じところに止まることをせず、絶えず作品は変化し展開してゆく。
     
 1958年。瑛九は宣言した。
「僕は啓蒙家で絵画のおもいつき屋で、空想に浮き身をやつしていたに過ぎません。絵画の
周囲をぐるぐる廻つていて画家だと思っていたのです。絵画の趣味家それも趣味のきわめて
低い、粗雑な、こういう自己から脱出して絵画のなかに突入できるかどうか、最後の冒険を
試みようとしています。」と。 謙虚な彼は、最後まで自己嘲笑の精神を失わなかった。
       
 「最後の冒険」は、成功した。 ただし、瑛九自身の生命と引き換えであった。



啓蒙家としての瑛九

          
 瑛九は啓蒙家としても優れていた。彼は本性の善意と天性のマルチ人間から自分が研究し
て身につけた技術を惜し気もなく、懇切丁寧に教え励ました。これらを身につけ版画の壁を
打破したデモクラ−ト系作家の戦後版画における先駆的な業績は注目に値する。 靉嘔、河
原温、利根山光人、吉原英雄、磯辺行久、池田満寿夫、泉茂−−−など世界的といえる才能
が羽ばたいていった。
      
 彼は、またその人の才能の発見にも慧眼で、芸大を出たばかりの者には「君たちが芸大で
受けたアカデミックな垢を落とすには、10年はかかる」と言い、「(池田)満寿夫は、3
回芸大を落ちたからよかった」と話していたが、まったくその通りになった。      
        
 瑛九の批評は、ユ−モアにあふれ、ユニ−クで辛辣であったが、人間への愛情があった。
ところで、これらの人々の瑛九作品の評価は、どうであろうか。その一人が「満寿夫を1と
すれば、瑛九は10であろう」といったが、誰も異論はなかった。
        
 瑛九は、いままではわが国の前衛の広場に孤立して立つ巨像であったが、これからは陽が
照ればながいながい影を地面に投げかけるであろう。