☆  ワンポイントレッスン (25) (裏)                        < 事の後先 >         

 物事には、原因と結果がある。どうして近藤さんがこんな写真集をつくられたのか、また
その結果はどうなったか。
 くわしく述べるとキリがないので、ぼくの<序文>と近藤さんの<ご挨拶><あとがき>
の抜粋から、おおよその経過を理解していただければと思う。

       

             

(序 文)     

近藤さんと写真

       
 近藤さんとは、写真出版関係の仕事を通じてお近づきを得てから、つかず離れず、もう40
年近くになる。 
  その近藤さんが、突如、写真集をつくりたいからとの相談であった。かねて、写真を多少
はたしなむとかいっておられたが、作品を拝見するのは、初めてであった。
   
 南国、高知県生まれの近藤さんが、雪が撮りたいという、至極単純なキッカケで撮った豪
雪地帯の雪景色が、たまたまアサヒカメラ誌に入選し、以来その村に多くの知己も出来て、
のめり込んでいったという。
 いわばアマチュア月例作家の典型的なケースである。私自身もこれに似たケースで取り憑
かれた写真の道が、病膏盲、遂にプロになってしまっただけに、そのプロセスは手に取るよ
うである。
   
 近藤さん曰く、「齢68才、何時の頃からか新聞の死亡記事に目を通すのも習慣になった。
何となく先が見えて来る。<人は、世に人さまざまの痕跡を遺す>。自分の生きざまを振り
返り、何ものかを生きた証として遺しておきたい」と。近藤さんの心情は、似たような年頃
の私には痛いほどよく解る。
  
 そして近藤さんは遺すものとして写真集を意図されたわけである。私は大賛成である。
 もちろん、近藤さんは事業の分野でも立派な仕事をされて来られたが、特に写真集で遺そ
うとされた心奥には、只只一途、無心にのめり込むことが出来たのが写真というものであっ
たのだろう。
 前近代的な依頼心や妥協を拒否しきれない現実の日々から離れ、自分だけの自由な世界が
写真だったのであろう。
 足かけ5年間、東京から越後までの遠い道のりを車で通い続けた近藤さんの姿は、目のあ
たりに見えるようである。
    
 近藤さんの作品は、素直で、誠実で、何の衒いもなく、清々しい。そしてまた、南国育ち
の大らかさ、情熱と執念が見られる。
 もっと突っ込んで撮りたかったが、後半高血圧と狭心症でそれもならず、残念という御本
人は、作品の出来を極度に謙遜されているが、仲々どうして立派な作品である。
 率直に云って、体調や時間的な制約から多少の玉石混交といったところもあるのは止むを
得ないが、数点の冴えた作品はプロに比べても遜色のないものといえよう。これは才能であ
る。
 過去において、アサヒカメラ誌その他に数回の入選を果たした事実は、当然のことである。
 近藤さんは、「写真集というのは、おこがましく写真帳としたい」というこの作品集は、
村の記録として写された人々や村役場、学校などに差し上げたいという。
 この立派な写真集を受け取られる村人たちにとっても、この上ない生きた証の贈り物とし
て喜ばれるであろうし、また貴重な時代考証として遺るであろう。
 ひそやかに、これだけの素晴らしい写真集を遺すことの出来る近藤さんは幸せな人だと思
う。
 近藤さん、おめでとう。              1990年11月   
                                
                      日本写真家協会(JPS)会員
                     (社)日本広告写真家協会(APA)名誉会員
 
                            玉 井 瑞 夫 (写真家) 

             

        

              

ごあいさつ

    
   
 退院余後の暇つぶしにネガ整理をしていると、無性に引伸しをしてみたくなりました。改
築のために暗室を無くしたので、老齢年金で家の側壁に改めて作ることにしたのです。ひた
すら「やまこし」の写真を焼いてみたいというただ一つの願望を叶えるために。
   
 他人の写真には身勝手な批評などする癖に、いざ自分のものとなると、もろもろの思い入
れが禍をして冷静さを欠き、良し悪しの判断がしにくくなるようです。散々に思い迷った揚
句の果てに、写真界のオーソリティー・玉井瑞夫先生の御好意で、相談に応じてくださる幸
運を得ました。
   
 持参した写真の大半を没とし、残った物を画題別に再編成してみました。
「何とかなるだろう」「まあ65点位かな」「最近は自分史を作るのが流行っているから、作
るのもいいだろう」更に「然るべき人にデザイン・レイアウトをして貰えば、更に10点位の
加点も可能だ」等々のご助言をいただきました。帰途、冷や汗ながら辛うじて及第点を得た
安堵感と、「何とかなる」嬉しさをそっとかみしめたくて、駅ビルの喫茶店へ入りました。
    
 有り難い事に、石井一夫氏の驚く程に見事な構成力とデザインで光を得、10年間眠ってい
た写真は漸く日の目を見ることになりました。
    
 この写真帖は、山古志村の全容を語るものではなく、一集落の大久保を軸にした「話し絵
本」のつもりで作ったものです。当初は集落を順次訪れながら写してゆく予定でした。
 大久保の次には、集落と集落を結ぶために苦労して手掘りされた、七曲りのトンネルを舞
台にして、人間模様が絵描けたらなどと夢見ていましたが、果たせませんでした。まことに
稚拙な写真ですが、ご笑覧願えれば幸でございます。
    
 趣味として始めた写真ですが、万一本書が村のお役に立つことができるようであれば、望
外の喜びであります。また、写真を撮る機会を与えて下さいました孫兵衛様御一家、並びに
お世話になった村の方々にも、心から厚く御礼を申し上げます。
                                平成2年11月  
                                 近藤真次郎  

          

       

写真帖「やまこしの記」に寄せられた

感想文集より

    
   
  この写真集は、製本部数 500冊。寄贈予定先は、山古志村役場 70冊、山古志
 大久保集落30冊、友人知己350冊、その他 50冊となっていた。
    
  友人知己に送られた350人中、約150人の方から感想文や電話をいただいたとい
 う。以下は、そのごく一部からの抜粋。
    
 まず、「長い間の夢が結実されましたことに心からお喜び申し上げます。お申し越しの
貴殿の御好意は、有り難くお受けさせていただきます。物も心も都市化しつつあるなかで
山古志村の生活や風俗を後世に伝える貴重な記録として有効に役立たせていただきます」
という山古志村の酒井村長の礼状に始まり数々のバラエテイある感想が寄せられていた。
    
    
 モノクロの画面からは、ペ−ジをめくるごとにいろんな音があふれ出て困りました。
静まりかえった村からは、時折落ちる雪の音、カラカラと糸巻きの音にしゃがれた笑い声
闘牛場のにぎやかな罵声と、一変して静かに山村を吹き渡る風の音−−−。写真の技術も
さることながら、近藤様のお人柄を偲ばす、その目に捕らえられたモチ−フに感動いたし
ました。                                                 (郷土料理 土佐藩社長)
    
 まず、構図の美しさがポイントになっているようにおもわれました。秋冬の景では、光
りと陰の美しさ、同じ被写体の季節の違いによる表情の変化などもおもしろく、全作を通
じて心に残ったことは、村人や風景に対する暖かい思い入れでした。       (女流書家)
    
 小生は動物や植物にレンズを向けてきましたが、大兄は人の心情を映そうとしてきたの
ですね。そしてそれは見事に達成されているように思われました。     (小鳥の研究家)
    
  近藤真次郎中尉殿。佐世保航空隊でお別れしてから45年、戦後の近藤さんの生きざま
人間の生き方の尊さとその軌跡を赫然と示された心意気と実践に心から敬意を表します。
                                                              (海軍時代の友人)
    
 感無量の思いで何度も拝見しました。人間の生活の原点、それは何か。私はほのぼのと
した人間愛を感じ、教えられ、心洗われる思いがしました。心から御礼申し上げます。
                            (旧制安芸中学校同級生)
                                      
 自分の原風景ともいえる作品と後書きにあふれる心情には胸打たれました。このままズ
ルズルと社会に何の貢献、いや貢献はできなくとも、生の証をえることもなく、徒食の輩
に堕してしまうのは、やはり無念です。そろそろ転機にさしかかろうという折りに、すば
らしい作品を頂戴し、ありがとうございました。        (宣伝企画会社役員)
    
    
  とても、紹介し切れないので、写真家 田沼武能氏の一文を一応の締めくくりに。
    
「やまこしの記」ご送恵有り難うございました。山古志村に思い入れた貴殿の心が伝わっ
て来る写真集です。                               
 写真家が一つのものを狙うと、どうしても画面をまとめようと作画するため、きばりを
感じるのですがこの写真集はタンタンと綴っているところが好きです。       
 やはり何回も通って村人と友となり村人の中に入り込んで撮影した成果だと思います。
それにしてもよき先輩、よき友をもっているということは、人生最大の幸せと思います。
 これからもよき人生を送ってください。 
    
    
  近藤さんのこれらの作品は、この年代の雪深い裏日本における山村生活の或る典型
 ともいえるものである。
  1951年、歴史的なフォト・エッセイ、「スペインの村」をライフに発表したユージ
 ン・スミスは、フランコ独裁政権下における主題にふさわしい古いデレイトサの村を
 探し出すために1万キロを走破したが、南国生まれの近藤さんがこんな素晴らしい催
 事に恵まれた村をテーマにできたことは、僥倖運もあったにちがいない。
    
  近藤さんのこの誠実で素朴な写真集は、それが故にこの村人たちばかりでなく友人
 知己をはじめ、より多くの人々やプロ写真家、評論家にも暖かく受け入れられ、高く
 評価された。
   
    
    ● 物件的記録を越えて 
     
 日本の免許証やパスポ−ト用など証明書用の顔写真は、バカ正直に真正面から撮ったも
のでないと通用しない。それは手配写真に近く、人物を識別するのが目的だからホクロや
額の隅の傷あとまで構造的特徴を細大漏らさず明示しなければならない。     
   
 ところで、サイコロを正面からみると平板で厚みを感じないが、斜めから見ると立体的
で奥行きが出る。更にこれに陰影がつき、視覚上で奥行きがでれば心理的にも深みがでる
と心理学者はいう。                              
    
 記念写真ではこの程度のものが多いが、これでは某年某月某日の当時、どういう顔かた
ちをし、どういう服装をしていたかを客観的に記録したにすぎず、本当の記念写真にはな
っていない。「記念」というためには、単なる物的記録を越えて、人物の心理状態をも写
し取らねばならないのではないか。そうでなければ思い出のよすがにもなるまい。
   
   
 さて、人物の心理状態をも写しとるというのは、気の知れた家族写真でも難しく、他人
ならもっと困難である。それをなし遂げる道は一つしかない。
    
人間や動物には、それぞれの生活があり、表情で、体全体で、行動で、それらを語る。 
 スタイケンは「ザ・ファミリ−・オブ・マン」(人間家族)を構成するために、世界中
から集めた400 万枚の写真の中から、500 枚のそれぞれに生活感あふれた写真を選び出し
た。それには大変なエネルギ−を要したという。 
    
 家族写真でもその人の生活・心情を表した写真でなければ、それを見る人は共感・感動
を覚えない。単なる記念写真の羅列では、身内か知人でなければ興味を覚えず、見せられ
る他人は苦痛すら覚えるという経験はよく聞かれる。
    
 話は遠回りになったが、近藤さんの写真集が成功した要因は、もっともノ−マルなセオ
リ−どうり、この村の人々の生活、風物を近藤さんらしい謙虚さでケレン味なく写し撮り、
キ−ポイントとなる数点の優れた作品は、構成もしっかりしているからである。  
 生活も様々なら表現もまた様々である。これを図式にすると、生活⇔表現⇔文化という
ことになる。
      
    
 勢いということ     
 ぼくは60歳を越したころから、クラス・メ−トや同年配の知人がら、「写真でもやり
たいが」といった相談を受けることが多くなった。
 つまり、定年後、自分史を書くのは大変だし、写真ならボタンを押せば簡単に写るので、
老後の趣味をかねて何かを遺したいということである。
 ぼくの答は、いつも同じである。「暇つぶしの趣味ならよいが、遺すつもりなら、止め
た方がよい。」「写真はそんなに甘くはない。」と言う。
                                     
 その意味は、ここに近藤さんの実例が展開されているので、その写真の経歴をたどると
一目瞭然になる。
 近藤さんは、兄のカメラを中学2年の時いじり始め、46歳から54歳の8年間に写真
誌などのコンテストに入賞し、現役として日常の仕事をこなしながら、54歳から58歳
までの山古志村の撮影行が10年後の68歳で、この写真集「やまこしの記」が生まれた。
    
    
 もし、近藤さんが40代から50代の初期までに、写真誌に掲載されるくらいの腕前に
なっていなかったら、とてもその生活の機微や人の心情までは捉えられず、構成も脆弱で
成立しなかったかもしれない。
    
 近頃は、アマチュア写真家に近い人から写真集にしたいといった相談を受けることがよ
くあるが、隠居仕事のようなものが多く、それが成立するのはごくまれである。まして、
定年後から写真でもといった人のほとんどは、時すでに遅し、集中力も切れ味も悪く、企
画は良くてもそれを撮れるだけの腕が追いつかないと告げるのは辛いことである。  
    
 ぼくはこの世界の表裏、紙一重ともいえる事の成否の厳しい実情も見てきた。そんなこ
とから写真を生かすには少なくとも40代前後からの修練が必要であり、時には他流試合
で切れ味を試すこともよかろうと思う。   
 人生にも旬があり、勢いのある時でなければ充実したものはできないことを痛感する。
   
    
    
 (追記)
    
  近藤さんは、さらに現役を引退した70歳からも立派な作品を遺している。
 ある日、東大教授の平朝彦著「日本列島の誕生」という本を読んで、フィリピン海
 プレ−トが日本列島に押し寄せ、断層を介して上にせり上がり、現在の海岸に露出
 している風景、地球の歴史をきざんだ岩が高知の海岸にも見られることがあると分
 かった。
    
  その現実を自分の生まれ故郷、安芸市近くの海岸で撮影をはじめた近藤さんは、
 地元の高知大学の名誉教授、地質学の甲藤次郎氏にお目にかかる機会を得て、その
 指導を受けながら3年間にわたり東京から高知まで通って岩の写真を撮った。  
    
  この87点の岩の作品は、<岩の貌・石の顔>と題して、地元で個展を開いたが
 これらの作品は地質学上貴重な写真として、室戸市に建設予定の「エコミュ−ジア
 ム」に収蔵、展示されることになり、写真作品をネガ共に寄贈した。
    
   「相手が岩だから、痛い腰をさすりながらでも何とか仕上げられた」と近藤さん
     は笑っておられたが、なるほどこれは、定年後の上手な生き方であろう。     

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