東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子小足谷醸造場跡/小足谷接待館跡

【No 3】 小足谷醸造場跡/小足谷接待館跡

    小足谷醸造場跡
 
 小足谷醸造場の跡として、煉瓦造りの煙突のみが残っている。
 
 ここの醸造場では、明治3年から酒、味噌、醤油を作っていたという。
 酒の銘柄は「井桁正宗」であったが、通称鬼殺しで親しまれていた。


 

小足谷集落跡と醸造所跡

 
 この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。
 小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。そして、この先の接待館地並みから上は傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落とは区別されていた。
 右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。
 上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。
 別子銅山で酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期には年間100キロリットルも製造していた。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。
 
 

旧別子案内 No 3
小足谷接待館跡

 
 明治の後半、この煉瓦塀の中に接待館があり、山中を訪れる要人が宿泊したり、ここで各種の宴会がひらかれたしていた。
  
 これより少し沢寄りのところに煉瓦造りの煙突が立っているが、ここが小足谷醸造場跡で、明治初年より年間100kl位の酒と 後には醤油を造っていた。
 ここの酒は、鉱夫達に喜ばれ鬼をもひしぐ山男共もこの酒に酔えばたわいもなく横になってしまう所から、人呼んで「鬼殺し」と名付けたという。
 小足谷部落は大正5年別子採鉱本部の東平からの撤退に伴い廃墟となった。
 


  採鉱課長宅跡

  採鉱課長宅跡に残る食料庫。天然の冷蔵庫として利用されていたらしい。

小足谷接待館と傭人社宅

 
 明治期に入って急速に鉱業の近代化が進なかで、それに伴う各界の要人が頻繁に来山するようになった。
 そこで明治34年(1901)一般人が経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。
 因みにこの年10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。
 この煉瓦塀も恐らくその時点で築かれたものであろう。
 
 この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡あh、歴代の採鉱家長が住んでいたと言われている。
 その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
 
 また、醸造所に向けて下がるところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常小学校のあった所で、明治22年黒橋に新築開校した別子尋常小学校に統合されてからは、改装されて教職員の住宅になっていた。
 
 
 
→【No 4】 小足谷部落と収銅所跡

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