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投稿時間:2007/08/11(Sat) 01:10
投稿者名:salam
Eメール:spiderwort77@hotmail.com
URL :
タイトル:アッラーの性質
礼拝の基礎を載せようとしましが、容量が大きすぎるとのことでしたので、よろしければ過去ログにも乗っていますのでそこでご確認ください。
代わりにアッラーの性質という、モスリムにとって一番大切なところですので、これをのせることにします。

アッラー(創造者)の性質

全能のアッラーに称讃あれ。アッラーが預言者モハメッドとその仲間の位をあげてくれますように、そして彼の民を彼の恐れるものからお守りになりますように。

モスリムとして、アッラーを信じ、アッラーの性質を知ることと、アッラーの性質であることの判別(かれの性質として当てはまるのが可能なことと、不可能なこと)ができるようになることは必須である。そして、預言者を信じることと、彼に当てはまることを知ることと、その判別ができるようになること。そして、これらの信仰の証として、2つの信仰告白(シャハーダ)をすることは必須である。これら2つの信仰告白をアラビア語、もしくはそれと同じ意味のほかの言語で確信をもって告白すること。

アッラーとかれの預言者を信じない者は不敬者として、永久に地獄へはいるだろう。その定義に進む前に、大きく分けた3種類の思考の分類をする。
1. 理知的な必要性:非存在の認知(非存在はアッラーの性質ではない。)アッラーの存在なしには何も存在しない。
2. 理知的な不可能性: アッラーに配偶者があることや、アッラーに体があることや、場所が存在することは不可能である。
3.理知的な可能性:一時にアッラーがあるときは存在して、あるときには存在しないことは不可能である。アッラーが人間の存在を可能にし、絶滅も可能にする。人間であることはアッラーが可能にしたことである。

アッラーの性質を知ることは、思春期を迎えたもの、知的正常なモスリムにとって義務であります。‘アッラーの性質はかれそのものではなく、かれ以外の誰でもない。’
1- Existence (al-Wujud): アッラーは存在する。

アッラーの存在を信じること。アッラーは永遠で終わりが無い性質、アッラーは始まりも終わりもなく、場所なしに存在する。
2- Oneness (al-Wahdaniyyah): 単独の存在

アッラーに類似、同類するものはなく、配偶者をもたない。‘アッラーは創造者であり、アッラーの他に創造者はいない’
3- Eternity (al-Qidam):永遠の存在アッラーは永遠である。始まりもなく、終わりもない。かれの以外は始まりがあり、終わりがある。
4- Everlastingness (al-Baqa'): 終わりが無い存在。

終わりが無い。かれの存在は終わりがない。全滅はかれにはあてはまらない。楽園と地獄にも終わりが無い。なぜならアッラーがそう望み、そう創造したからである。
5- Non-neediness of others (al-Qiyamu bin-Nafs):創造物を必要としない。:

アッラーは創造物を必要としない。アッラーは創造物である人間やその他の創造物がアッラーを崇拝しなくても存在する。創造物がアッラーを必要とするのであり、アッラーは創造物を必要としない。アッラーは始まりもなく、終わりもないからである。
6- Non-Resemblance to the Creation (al-Mukhalafatu lil-hawadith): 創造物に類似しない。アッラー自身も、アッラーの性質も創造物に類似することはない。アッラーのほかに同等のものはない。

7- Power (al-Qudrah): アッラーの力は永遠なるもの。アッラーは全てを可能に不可能にするちからがある。人間を存在させる力も絶滅させる力もある。

8- Will (al-Iradah): 意図。理知的可能性。善と悪、不敬と信仰、勝利と敗北、など理知的可能性。
9- Knowledge (al-^Ilm): 知識。アッラーは心に隠すことも、頭の中で想像することも知っている。
10- Life (al-Hayah): 生命。アッラーの生命は我々の生命とは異なる。人間の生命は魂や身体を必要とするが、アッラーは必要としないで存在する。

11- Hearing (as-Sam^): 聴く。アッラーは全聴である。聴こえるものは全て聴くことができる。人間のように一定の範囲でしか聴こえないということはない。人間は耳を必要とするが、アッラーは器官なしに全て聴くことができる。

12- Sight (al-Basar): 見る。アッラーは全視である。人間のように目を必要とせず、見ることができる。アッラーは一定の場所に存在しない。場所なしに存在する。
13- Speech (al-Kalam) : 話す。アッラーは器官無しに話す。言葉や音を使用することなく、アッラーは伝えることができる。


預言者モハメッドの性質
2つ目のシャハーダとして、モハメッド(彼の上に平安あれ)をアッラーの預言者として信じることを告白します。
どの人物を指しているのかも知る必要があります。
-、部族Qurayshの Abdu-Manafの息子のHashim の息子の、Abudul Muttalib の息子の、Abdullahの息子。
- アッラーの僕で、全てのアッラーの創造物の使途で預言者
- メッカに生まれ、メディーナに移住し、そこで墓に埋められた。
- 全てにおいて信用のできる、アッラーの教えを伝えた。
- その中には、墓の中で罰と喜びを経験すること、その時2人の天使(Munkar/Nakir)によって質問されること、復活、最後の日、集結、善行と悪行の提示、報酬、刑罰、バランス、地獄、橋、水桶、楽園、アッラーと出会う、楽園・地獄で永遠に住むこと、天子を信じること、使徒預言者を信じること、運命を信じること(良いことも悪いことも)、そして預言者モハメッドが最後の預言者で、アダムの子孫で最高の人物だと信じること、などを伝えました。
- 信頼、真実、聡明

6.どうすればイスラム教徒になれるのか

イスラム教徒になるのは極めて簡単です。要求されるのは心を込めてアラビア語、もしくは同じ意味に当たるその他の言語で確信を持って、「ラーイラーハ・イッララー、ムハンマドル・ラスールッラー」と言うこと。意味は「神(アッラー)の外に真の神はなく、ムハンマドは神の使徒(預言者)である。」最初の部分である「神の外に真の神はない」は、神の外に崇められる権利を持つものはなく、配偶者も息子も持たないという意味で、信仰告白はシャハーダと呼ばれ、イスラムに入信するために確信をもって証言する単純な儀式であり、信仰告白はイスラムの柱で最も重要なものであります。証人を立てることも、特別なお祝いをすることも必要なく、ただあなた自身と神との間でこの誓いを立てます。グスルといわれる全身シャワー(洗礼)をとり、そして告白します。アラビア語を事前に知っておく必要もありませんし、コーランを暗記しておく必要もありません。巡礼をするときなど特別な時はイスラム協会の発行するイスラム教徒証明書が必要になることも時としてありますが、それ以外では特に証明する必要もありません。
*上記アッラーの性質を理解することもシャハーダの前に必要。

投稿時間:2007/08/19(Sun) 09:00
投稿者名:アイーシャー
Eメール:aisya96-lj@infoseek,jp
URL :
タイトル:Re: アッラーの性質
アッラーの性質について拝見させていただきました。ありがとうございます。ところでアッラーというのは儒教の「天」の概念と違いのかなという印象をうけましたがどうなのでしょうか。体も場所もない絶対の存在という意味においてです。
儒教は宗教ではないといわれていますが、天を祀った天壇があるなど宗教としての面もありますし、論語にも「天われを滅ぼせり」といった天を人格神のようにとらえた表現があります。成句にも天網かいかい粗にしてもらさず」も正義や善の象徴として天をとらえています。

投稿時間:2007/08/23(Thu) 16:40
投稿者名:salam
Eメール:spiderwort77@hotmail.com
URL :
タイトル:Re^2: アッラーの性質
> アッラーの性質について拝見させていただきました。ありがとうございます。ところでアッラーというのは儒教の「天」の概念と違いのかなという印象をうけましたがどうなのでしょうか。体も場所もない絶対の存在という意味においてです。
> 儒教は宗教ではないといわれていますが、天を祀った天壇があるなど宗教としての面もありますし、論語にも「天われを滅ぼせり」といった天を人格神のようにとらえた表現があります。成句にも天網かいかい粗にしてもらさず」も正義や善の象徴として天をとらえています。
--->アッラーは場所も形もなく存在します。天に限ってアッラーが存在するのであれば、全能ではなくなります。かといって、アッラーはどこにでも存在すると言う人もいますが、これも違います。アッラーに対して’’場所’’を限定する表現方法は間違っています。これはアッラーの性質に反します。従って、アッラーが天に存在すると信じるのはモスリムの行為ではありません。
アッラーを認知、または表現するには’’存在’’する、と捉えるのが一番かと思います。

Salam

投稿時間:2007/08/24(Fri) 03:54
投稿者名:常州のスライマーン
Eメール:sulayman1397○yahoo.co.jp
URL :
タイトル:Re^3: アッラーの性質
> > アッラーの性質について拝見させていただきました。ありがとうございます。ところでアッラーというのは儒教の「天」の概念と違いのかなという印象をうけましたがどうなのでしょうか。体も場所もない絶対の存在という意味においてです。
> > 儒教は宗教ではないといわれていますが、天を祀った天壇があるなど宗教としての面もありますし、論語にも「天われを滅ぼせり」といった天を人格神のようにとらえた表現があります。成句にも天網かいかい粗にしてもらさず」も正義や善の象徴として天をとらえています。
> --->アッラーは場所も形もなく存在します。天に限ってアッラーが存在するのであれば、全能ではなくなります。かといって、アッラーはどこにでも存在すると言う人もいますが、これも違います。アッラーに対して’’場所’’を限定する表現方法は間違っています。これはアッラーの性質に反します。従って、アッラーが天に存在すると信じるのはモスリムの行為ではありません。
> アッラーを認知、または表現するには’’存在’’する、と捉えるのが一番かと思います。
>
> Salam

ここでアーイシャ女史が「天」と仰っているのは場所を意味しているのではありません。salamさんは外国人とお見受けしますので説明致しますが、儒教で言う天は森羅万象の主宰者のことです。中国では回民の学者がイスラームにおけるアッラーは儒教における天に同じと言っています。

投稿時間:2007/08/20(Mon) 14:45
投稿者名:うんむらふま
Eメール:ummu_rahmah@infoseek.jp
URL :
タイトル:Re^2: アッラーの性質
アッサラームアライクム

突然横から失礼致します。
興味深く拝読させていただきました。

私が”天”と聞いて思い浮かべるのは”天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず”と言った福沢諭吉の言葉です。(『学問のすすめ』より)
この言葉を知った時、この”天”は神の存在を意味するのだとばかり思っていました。(ムスリマになるずっと以前の話です)
福沢諭吉に”神”という観念は全くなかったと知った時は、些かがっかりしました。

〜”天”は、東洋思想の世界観が生み出した概念である。古くから身近に存在しながら知り得ない宇宙を含めた世界の構造を仮想する場合に用いられている。…天という言葉には非常に多くの意味が付加されている。この世界全て、あるいは世界を統べる法則そのものであったり、あるいは自然の代名詞に使われたりと様々である。〜

『老子・道徳経』73章罰について(2)
あえて人を殺すべしと決断する(断罪の判決をする)人と、人を殺すべきではないとあえて決断する人と、これらは二通りの場合に両者にはどちらにもそれぞれいくぶんかの理にかなったところがあろう。仮の話として、天の神がある人々を嫌ったとしても、どの者が殺されるべきで、またその理由は何なのか、誰が知り得ようか。このようだから、聖人においてすら、このことは難しい問題なのだ。天の道(道・タオ)のやり方は争わずに勝利を手にする。無言の内に悪徳と美徳とに報い、予告しないでその結果を明らかにし、招かなくても(手の内を見せないで)ちゃんと結果をもたらす。
天の網は広大である。この網の目は粗くても、何ものをも取り逃さない。

この最後の部分が、中国の現行のことわざ「徳は必ず報いられ、悪徳は必ず罰される」となった、とあります。

〜老子の思想は、神秘主義から処世訓まで多岐にわたる。その原理は万物の根本である道によって表される。道とは全ての存在を規定する原理であると同時にそれら全てを生み出した母なる存在でもある。道はあまりにも広大で漠然としているので定義や解釈を超えているが、人為を廃し、自然であることが道に通ずるとされる(「無為自然」)。〜

道家の大家である老子と荘子を合わせてその思想を”老荘思想”と呼びますが―
この老荘思想が最上の物とするのが”道”で、”道”は”天”と同義で使われる場合もあり、また”天”よりも上位にある物として使われる場合もあり…あえて一言で言えば万物が本来自然より授かった生きるべき正しい方向であり、リズムである。

老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた…とあります。
日本の研究者の間では、哲学の老荘思想と道教はあまり関係がないという説が一般的である…(念のため)

更に、老子は恣意的な行動や欲望さらに知識をもしりぞけ、自然(「道」)にしたがって国を治めるという無為の政治学を説いた。これは道徳儀礼、あるいは制度や罰則といったものによって国を治めようとした儒家や法家へのアンチテーゼであった。
加えて、道家以外の思想家たちも道という概念を使用していた。道家は道を自然ととらえたが、たとえば儒家は道をもっと人間的・社会的なものとみた。道家は、立身出世のために儒教の説く道を身につけようと躍起になっていた人々に、「本当の道はそんなものではない」と説いた。

また、道家のいう自然とは、生き方・考え方のたとえであって、田園生活を勧めたり自然保護を唱えていたというものではない。道家思想は、もともとその中に、厳しい現状を宿命として諦めさせたり、あるいは自己の快楽の追求に走らせたりする可能性をもっていた。道家思想は道教だけでなく、禅宗などにも大きな影響を与えている。禅の何にもとらわれない自由な発想は、仏教版道家思想とも呼べるものである。

いろいろ調べていて、本当に興味深い内容のものでした。勉強になりました!
ありがとうございました。

あくまでも”天”は思想上の概念で、神を説明するものではない。
したがって”天”を神とする宗教は、宗教たり得ない。
・・・のではないかという感想をもちました。

長くなって申し訳ありません。

アッサラームアライクム ワラフマトッラーヒ ワバラカートフ

投稿時間:2007/08/20(Mon) 23:17
投稿者名:アイーシャー
Eメール:
URL :
タイトル:Re^3: アッラーの性質
うんむらふま様
丁寧な回答ありがとうございます。
怪力乱神も死後の世界も語らない儒教はいかなる意味でも宗教ではないのですが、天の概念には一神教の神の概念に近いものを感じています。この儒教の天に由来するのかどうかはわからないのですが、日本にも天の概念はあった。天誅とか天罰、天佑といった言葉にその一端がみられます。アラー≒天だとしたらアラーも決して日本人になじみのないものではないのかもしれない。
イスラムに興味があって本などを読んでいますが、信じている側からの情報発信というのは驚くほど少ないですね。図書館の文献もだいたいは非信者の方の著書です。布教とまではいかなくても、もっとモスリムやモスリマの方の発言が望まれます。

投稿時間:2007/08/29(Wed) 01:47
投稿者名:うんむらふま
Eメール:ummu_rahmah@infoseek.jp
URL :
タイトル:Re^4: アッラーの性質
アッサラームアライクム

こんにちは、アイーシャーさん
また少しお話させてください。

What is Islam? イスラームとは何か (イスラミックセンタージャパン発行小冊子より)
〜イスラームにおけるアッラーの概念は、多神教での神々の概念と異なり、通俗的に使われる山の神とか海運の神などのようにがぎられた性質のものではありません。
アッラーはアラビア語で唯一絶対の神を意味します。彼は創造者、万物の存在の精髄であり、英明・公正にして慈悲心あふれ、宇宙に偏在し全知全能で森羅万象を決定し、生・死・復活等を司る絶対的・超越的な存在なのです。
私たち人間の生命はもちろん、極微の世界から極大の世界の一切はアッラーの定められた法則に従っています。アッラを身近に意識することによって、人類は宇宙とその中の人間に意義を理解することができます。そしてあらゆる迷信と怖れから開放され、アッラーへの義務を認識し、全人類がアッラーの庇護を受ける一家族であることを確認します。〜

ディーヌ・ル・ハック 真理の教え (アラブイスラーム学院 アシュラフ安井訳より)
〜「アッラー」とは固有名詞で、宇宙や人間それにありとあらゆる被造物の主(ラッブ)で、被造物の唯一無二の崇拝の対象(イラー)のことを指します。アッラーご自身アッラーと命名され、それは「真の崇拝の対象(アル・イラーフ・ル・ハック)という意味です。
人間の崇拝の対象は存在する唯一無二のアッラーだけですが、崇拝の対象であればそれが事物であろうと人間であろうとすべて「イラー」といいます。日本語では一般に「神」という言葉をあてています。崇拝の対象が複数であれば「アーリハ」といいます。この点明確に「アッラー」という言葉とはっきり区別されなければなりません。従って、「アッラーの神」という言い方は正しくないことが分かります。〜

イスラーム 世界宗教の教えとその文明 (イスラーム文化センター小冊子より)
〜アッラーは世界を創造し、人間を創造した造物主ですが、姿も形もありません。人間はアッラーを見ることはできないとされています。
しかし、イスラームの教えによれば、聖クルアーンを読むことで、アッラーがいかなる存在であるか知ることができます。
たとえば「純正章」、この章の題名は唯一神についてもっとも純正な教えが書かれている、という意味です。
また、アッラーがどのような存在であるかについて次のように言われています。ー集合章22・23・24節必読ー
このように、唯一神の慈悲、強大な力、無限の叡智、世界の創造などについて、聖クルアーンは教えています。たとえ姿や形はわからなくとも、神について知ることができるというのが、イスラームのメッセージです。〜

特集・信教の自由(アッサラームNo.20イスラミックセンタージャパン冊子より)
〜ムスリムは理不尽な手段を使って人々の思考の過程に介入することを禁じられているが、同じようにイスラームではあくまでもイスラームの教えを拒もうとする非信者の説得をあきらめてはならないと教えている。その途中で立ち止まることは絶望を意味する。
ある人間が光明を見、真理を理解することはないと決め付けて、その人に絶望するという態度は、その人の持って生まれた能力への侮辱になるだけでなく、人類全体に対する侮辱にも通じる。
それはつまり、人間はその誕生の時に神から神を信ずる心を授けられているという「ディーヌ=ル=フィトラ」の概念を否定することなのである。
非信者を真理に導くために示す証拠は無尽蔵にある。ムスリムならば、当然、自らの信奉する真理を十分に理解しているはずである。万一、非ムスリムの考え方を正しく論駁できないような場合は、もう一度勉強をし直さなければならない。〜

『東と西の宇宙観ー東洋篇』より
〜明代には、東西の本格的な交流が開始された。16世紀末に中国でキリスト教の布教をはじめたイエズス会のマテオ・リッチは科学教育に力をいれた。そこで中国人は丸い大地という西の宇宙観を学ぶ。リッチは、神の創造物としての宇宙の見事さを教育することで、神の偉大さを説こうとしていた。同時に、キリスト教の神を儒教の「天」と同一視して「上帝」や「天主」とよんでいた。ここに東西の宇宙観の共通点を見、中国人に身近な宗教であることを示そうとしたのだが、リッチのキリスト教の布教は成功とはいえなかった。〜

神道の信仰ー神の理解 (世界「宗教」総覧より)
〜神は純粋の大和言葉(日本語)である。明治4年、プロテスタント・キリスト者が日本布教にあたり新訳福音書の翻訳に初めてこの語を用いた。神といえば全知全能、絶対であり、この世界の創造者だと思っているのはキリスト教信者だけではない。ところが神道の神はこうした信仰とは全く性格を異にするものである。日本人は物と霊とを区別しなかった。物質(material)という語は西洋から来たものであり、自然という言葉さえ日本人は道教から学んだ。本来の日本語による「もの」は物の怪であったり、物の気・物の化でもあるのである。しかし総てが霊的存在であるといっても、総てが神であるわけではない。本居宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏きものをば神とは言ふなり」と述べている。神道が多神教と呼ばれるものであり、汎神教でないのはこの定義によっても明らかであろう。〜

いろいろ調べて長くなってしまいました!申し訳ありません。
この辺で、失礼致します。

 

投稿時間:2007/09/06(Thu) 00:44
投稿者名:アイーシャー
Eメール:
URL :
タイトル:Re^5: アッラーの性質
お返事ありがうございます。
日本人はむかしから神、仏だけではなく一神教的な神=天とも共存してきたのかもしれません。生にはおおらかだけれども死を穢れとして嫌う神道には現世の幸福をお願いし、死後の平安はお寺さんにお願いし、そして倫理的な規範は儒教によった。
もし一神教の神は天のようなものならば、天のままでよいではないか。多くの人がきっとそう考えたのが、宣教の失敗の原因なんでしょうね。
もし、倫理をつかさどる天=一神教の神が存在するのなら、その倫理に恥じない生き方をすればよいだけで、特別な儀式とか戒律とか習慣は必要ないのかなと思います。
なんか信仰を持っている人は気を悪くするかもしれませんけど。

投稿時間:2007/09/10(Mon) 02:06
投稿者名:うんむらふま
Eメール:ummu_rahmah@infoseek.jp
URL :
タイトル:Re^6: アッラーの性質
アッサラームアライクム

また少しお話させていただいてもよろしいでしょうか。

私自身は学者やその道の研究者でもないので、中国の宗教・思想倫理について詳しく述べるなど大変おこがましいことではありますが…更に先に紹介した本から抜粋させてください。

〜たしかに、キリスト教の神と儒教の天には共通性がみとめられる。もちろん、人格的なキリスト教の神と中国の天との差異はあるので、リッチも「天」ではなく人格性の残る「上帝」や「天主」をつかったのである。リッチは、仏教の「空」を道教の「無」でとらえることで仏教が中国人に受容されやすくなったかのように、神を「上帝」や「天主」と同一視することでキリスト教にたいする理解がえられることを期待したのである。しかし、神による天地の創造とキリストによる救済というキリスト教の教えは儒教の教義とは異質なものだった。神の子のキリストを孔子にあてることはできなかった。それに、死後の救済の宗教としてはすでに仏教と道教がふかく中国人のあいだに根をおろしていた。リッチの戦略はある程度までは成功しても、それ以上の拡大には新しい戦略が必要であったろう。〜

以下は、イスラーム文化センターの小冊子「イスラームという生き方」からの抜粋です。

〜イスラームが説く教えの第一は帰依であり、イスラームが推奨する最大の喜びは「帰依する喜び」です。イスラームでは、人間はもともと善なるものだとしています。
帰依して、教えに従うこと、聖典の教えや戒律に従うこと、と聞くと何か自分を捨てるように感じる人がいるかもしれません。しかし、イスラームは自分を捨てることとは全く逆に、自己肯定を推進しています。
イスラームは、人間が理性を持っていることを重視します。イスラームでは、理性をきちんと働かせれば、人間を創造なさったアッラーの実在がわかるはずだ、という考え方をします。
イスラームでは、宇宙を創造した神が存在すると信じますので、そのことに立脚した倫理を教えます。生命を害してはならない、盗んではならない、不倫をしてはならない、他人の名誉をおとしめてはならない、といったことは、すべて人間存在の根源から出てくる倫理の原則であり、それに従って生きることが人間の道である、と説くのです。
ムスリム一人一人に自由な判断と裁量権があると聞くと、不安を覚える人もいるかもしれません。判断と裁量には、知識や決断力が必要です。また、決断には責任が伴います。しかしイスラームは、人間にその人ができる以上の責任は負わせません。
イスラームは宗教ですから、何よりも祈りの方法を教えます。もし、イスラーム教徒ではなく、他に宗教もなく、しかし何か生きる道を求めている、精神の導きを求めている人がいたとしたら、そのような人にも、神に祈りを捧げることができます。それは「どうか、私に私の進むべき道を示してください」という祈りではないでしょうか。
イスラームという生き方は、いつまでも人生をあきらめない、という生き方です。イスラームの信条として、世界がいつか終わることを説いています。そして、終わりが来るまでは、アッラーが必ずや、私たちを見守ってくださる、ということです。だから、イスラームはいつまでも希望であり、ムスリムはいつまでもあきらめないで、生き続けることができるのです。〜

また長くなってしまい、申し訳ありません。
今日はこの辺で失礼致します。



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