何でも質問箱FAQ

FAQについて
何でも質問箱でよくある質問とそれに関する回答をまとめました。
質問及び回答の文は、基本的に質問箱に書かれていたそのままを引用してます。
2005/3/19(土) 2:20

大久保利通について
2005/3/13(日) 2:19
・日本の近代化は、大久保利通の主導あってこそのものだったと思う。明治初年以来の不平士族の反乱に対する容赦ない弾圧によって、大久保は悪者あつかいされているが(とくに薩摩士族との関係において)、これらの内乱には厳しく対応する必要があった。旧態依然とした武士階級(士族)の存続を認めることは、欧米列強に比する国家建設・近代化をめざした大久保にとって大きな障害だった。大久保は絶えず「日本をどうするか」だけを考えており、ましてや私利私欲をはかるタイプの政治家でもなかったと断言できる。国家建設推進のためには、あえて郷友との絶縁をもおしまなかった彼の手腕はあらためて見直す必要があり、純粋に「一政治家」としての評価が下されるべきではないか。彼のように真に日本を憂える政治家が、果たして現在どれだけいるであろう。

・大久保が近代化の必要性をまともに認識したのは岩倉使節団として欧米をみてしまったからで、13年も前にアメリカや世界各地を見て近代化の必要性を真に認識していた幕府開明派の努力をつとに妨害してきた勢力が明治政府となったことを考えれば、何を今さらという感も拭えません。

・大久保が亡くなった後、世間や周りの者たちが、「大久保はどれだけ私服を肥やしていたんだ」と調べたところ、財産どころか借金だらけで、私財を殆どつぎ込んで政治を行っていたようです。


吉田松陰について
2005/3/14(月) 1:11
・松下村塾を設立した尊王志士

・松陰は幕末人物の中では格別に伝記文献が多いほうですが、定評のあるのは先頃物故した奈良本辰也の『吉田松陰』だと思います。皇国史観から解放された歴史学による初めての吉田松陰研究です。(ただし、今日の維新史学研究の水準からは、また新たな再検証が必要だと思われます)

・近年では、松下村塾を通して松陰に迫った梅原徹の研究が目立っていますね。(『吉田松陰と松下村塾』、『松下村塾の人々』、『松下村塾の明治維新』の三部作)のべ10年に渡って刊行された力作です。

・松陰を知るには、松陰の思想面から入っていくのが最適ではないかと思います。それにはまず原史料に当たることが必至で、ここではやはり、ご指摘の『吉田松陰全集』ですね。ただ若干、入手しにくいのが難点ですが。手に入りやすいものとしては岩波書店『日本思想大系 吉田松陰』があり、嘉永3年から安政6年までの約250通の松陰書簡が網羅されています。原史料ですから解読も難しいですが、松陰の時勢論や国体論、親類や松下村塾門下生との関係が、書簡のやりとりから十分にうかがえるかと思います。

・本来、吉田松陰の安政大獄による刑死には歴史的意義などはない。明らかに松陰刑死は井伊の武断政治の不当行為。幕府側も含め関係者一同、死罪すら予想だにしておらず、井伊の強権発動によってもたらされたもの。橋本左内もまったく同じ。もしこの刑死に意義を見出すとすれば、幕府は死罪にしてはならぬ最大の人物に手をつけてしまったこと。
くわえて政権掌握の是非をもって、人物を語るべきかどうかは妥当じゃない。幕末には、倒した側にも、倒された側にも、そして中立の立場からも無数の人材が輩出し、だからこそ現在にまで伝えられている。刑死を控えても明鏡止水の心情を貫いた松陰の姿には心打つものがあるが、本来の問われるべき姿は、安政大獄にいたるまで過程に隠されていると思う。どう見ても刑死が松陰の絶対的価値ではない、すでにその直前に彼は己の仕事を全うしている。それは彼の書簡によって証明されている。だからこそ倒幕前の長州藩の活動の思想的バックボーンにはたえず松陰が定置されていたわけであり、処刑に当たってもあのような心境を維持できたのである。松門下の政権掌握というのはその後の付随的結果にすぎない。
すなわち、勝ったから松陰が取り上げられるのではなく、実質的には、なぜ幕末長州藩があのような政治行動に出たかと考えた場合においても、おのずから松陰はクローズアップされるべき存在だったということです。したがって、長州が倒幕を達成しようが、しまいが、幕末に長州の存在ある限りは松陰はいつでも浮上するのです。


吉田松陰の最期
2005/3/14(月) 1:15
・松陰の首をはねた山田浅右衛門の証言に(松陰とは知らなかったらしいが)あの時首をはねた罪人はとても立派な最後だった、といったものがあったと記憶しております。

・処刑に抵抗したのでしょうか。彼は遺言として「留魂録」を二通も残しています。死刑と決まって取り乱している人がそんな落ち着いた事が出来るでしょうか。また、松陰は刑場に引き出される際、牢屋中に響くような声で詩をうたったらしいのですが、それが牢屋の奥の人たちにはエコーがかかって単なる喚きにしか聞こえなかったそうで、その証言が史料として残ってしまったのではないでしょうか。

・松陰の最後が取り乱していた、という史料というのは多分世古格太郎の『昌義見聞録』のことだと思います。世古は伊勢松阪の人で評定所で安政六年に江戸で尋問を受けた時にたまたま松陰の裁決を見聞したといい、「吉田も死刑に処せらるべしとは思はざりしにや、彼を縛るときまことに息荒く切歯し口角泡を出す如く、実に無念の顔なりき。・・・」と記録して公刊したといいます。しかし下の方が書いてらっしゃるように、留魂録や山田右衛門の証言も実際残っているので、この史料だけで史実を判断することは出来ないと思います。この史料の「吉田」が本当に松陰だとは限りませんし・・・

・☆勝手ながら、松陰は死罪を自ら受容したことの証明をしたいと思います。少し長文になるので、ご容赦いただきたい。松陰の死罪確定は安政六年十月二十七日、即日に刑が執行された。ここでは刑の確定前に在獄中の松陰が関係各位に送った書簡類を紹介したい。
@まずは同月十七日、尾寺新之丞宛て書簡。ここでは、評定で幕府側取調官の様子に変化がみられたことにつき、「(松陰の予想とは)存外の義どもこれあり、いまさら当惑は仕らず候えども、きっと覚悟仕候」「とても生路はなきこと覚悟致し候」「首を取る積りに相違無く」「やはり首を取るに相違なし」と、死罪到来を予想し、その覚悟を述べている。そして「鵜飼(吉左衛門)や頼(三樹三郎)・橋本(左内)なんどの名士と同じく死罪なれば小生においては本望なり」と、死罪を自ら受け入れている。
B同月二十日、入江杉蔵宛て書簡。かねてから懸案中だった人材育成の学校「尊攘堂」建設など、今後の処置を入江に依頼。尊攘堂建設について松陰は「僕はいよいよ念を絶し候」と、きたるべき自身の将来を覚悟した上での依頼であった。
C同月二十五日筆起の「留魂録」。第八条では、人生を四時(四季)の収穫になぞらえ、「今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり」「義卿(松陰)三十、四時已(すで)に備はる」、すなわち我が人生の使命はすでに全うしたと認識している。この留魂録の中では、松門下生に対して将来への指針をうたっており、全体としては、いわば彼らへの遺書として書かれたものである。
次に刑執行当日の記録を。下の方の説のとおり、死罪が宣告されたとき、松陰が「顔面蒼白、口角より泡を吹き、猛然と反抗した」との記録が、当時在獄していた世古格太郎の手記にあるようだ。しかし、ふたつ下の方の説にあるように、評定所のくぐり戸を出るとき、松陰は明々朗々と辞世の詩を口にしており、あるいはそれを聞き違えたのでないかとの疑いがある。松陰が己の生を諦観し、刑死をすすんで受け入れようとしたことは、さきほど紹介した書簡・遺書などに何度も明確に示され、各方面にも報告されており、その松陰が死罪を宣告されたとて、今更ながら抵抗の姿勢に出たとは考えにくい。前日に遺書まで書いた人物ならば、当然に、一定の心の落ち着きがあって然るべきである。
さらにひるがえってみると、同じ刑場に居合わせた関係者の記録として、指摘にあった山田浅右衛門の証言のほか、同囚の鮎沢伊太夫の「従容として潔く、人々実に感じける」証言、同心吉本平三郎伝の記録などが実在する。なお、松陰の詩吟の様子として、長州藩代表として判決に立ち会った小幡高政の記録には次のようにある。「時に幕吏等なお座にあり、粛然襟を正してこれを聞く。肺肝をえぐらるの思いあり。護卒また傍より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りてわれにかえり、狼狽して駕籠に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」。すなわち松陰の声は相当に大きかったようで、世古が「松陰が抵抗した」と勘違いした可能性は十分に考えられる。
さらにもう一点、「松陰が刑死に抵抗した」と思われる節の事例がある。実は先に挙げた@の書簡の中の記録にある。松陰が告白した老中襲撃事件計画の要旨について、松陰と幕吏との間に解釈の違いがあり、松陰は本意を知ってもらおうと「僕また大に弁争致し候」態度に出たのである。「弁争については随分不服の語も多けれども」と、ここでも相当の威勢をはなったようで、あるいは世古証言はこのことを示しているのかもしれない。いや、状況的にはこの評定での弁駁の様子を伝えたとみるのが、限りなく信憑性が高いように思える。ちなみに@の「やはり首を取るに相違なし」との記録は、この(松陰にとって不利な)幕吏の解釈が適用されたために出た言葉である。
したがって、「松陰が刑死に抵抗した」と思われる記録も存在するが、あらゆる状況・角度から分析すれば、素直に死罪を受け入れたとする従来の説がより合理的ではないかと思う。「死罪確定の前」に松陰自身がその覚悟を「活字化」して、「多方面」に配布し、その史料が「現存」すること。これが何よりの証明である。


西郷隆盛について
2005/3/16(水) 1:30
・文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下下加冶屋町山之口馬場(したかじやまちやまのぐちばば)で生まれました。幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。南洲(なんしゅう)はその雅号です。西郷家の家格は、御小姓与(おこしょうぐみ)で、士分では下から2番目の身分である下級藩士でした。少 年時代の西郷については資料が少なく、はっきりとした事は分からないのですが、少年(薩摩では稚児(ちご)といいます)の時、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。このように、幼少の頃、武芸ではなく、学問に励んだことが、西郷にとって後年大いに役立っていくのです。16才の時、西郷は藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命されます。薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように、小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習です。
例えば、書の巧みな者は役所の書役、武術の長けた者は藩校・演武館の助教、といったように個人の能力や資質に応じて、色々な役目に就かせたのです。西郷は右ひじのケガのため学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官補助、といった役目に任命されたのです。郡方は年貢(税)の徴収等も行なっていたので、あらゆる所に出張しなければならない非常に体力のいる役目です。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方に任命された一つの理由だったかもしれません。西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)でした。迫田は城下でも有名な硬骨の武士で、西郷は迫田に非常に大きな影響を受けています。
ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」と書いて、郡奉行を辞職しました。虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民を指しています。つまり、役人が農民に過剰な税を課すことは、自らも破滅に導くことになるぞ、という事を言っているのです。この句には、国の根本をなすものは農民である、という迫田の信念が表れています。西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。この迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が島津斉彬に見出される要因となるのです。
西郷が郡方に勤務して5年後の嘉永2(1849)年、薩摩藩にお家騒動が起こります。俗に言う「お由羅騒動」(おゆらそうどう)と言われているものです。薩摩藩第27代藩主・島津斉興(なりおき)は、正室・周子(かねこ)の子の世子(せいし・藩主の跡継ぎになる子供)である斉彬(なりあきら)ではなく、側室・由羅(ゆら)の子の久光(ひさみつ)を藩主にしたいと考えていました。斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取 り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物でした。しかし、藩主の斉興は、そんな斉彬を嫌い、自らの家督を譲ろうとしなかったのです。当時、斉興は58歳になっており、斉彬は40歳になっていました。これは当時の社会状況から見ても異常です。普通、世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例だったのです。
ところが、自らが50歳代を過ぎ、子が40歳になろうとも、斉興は隠居しようとはしませんでした。なぜ、斉興がこれほど斉彬のことを嫌ったかには大きな原因があるですが、ここで詳しく書くことは控えます。ともあれ、そんな斉興の異常な行動に反発した藩内の斉彬を慕う高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心としたグループが、斉興隠居・斉彬擁立に動き、活動を始めました。そんな反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、以下この運動に関わった者達に、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件」(かえいほうとうじけん)、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と言われるものです。西郷の父・吉兵衛が御用人を勤めており、西郷家と縁の深かった赤山靱負(あかやまゆきえ)も、この「お由羅騒動」に連座し切腹しました。西郷は赤山の見事な切腹の様子を父から聞き、赤山の志を継ぐことを決意したのです。この「お由羅騒動」は、若き日の西郷に大きな影響を与えました。
「お由羅騒動」により、斉彬派と呼ばれる一派は、なりを潜めたように思われましたが、斉彬自身は藩主になることを諦めませんでした。自らが得た知識を藩政に生かし、大幅な改革を推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を生かしたい。このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じます。まず、斉興の腹心であり、薩摩藩の財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を失脚させようと考えました。斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球を通じて薩摩は外国と貿易をしていた)を幕閣の問題にあげて、斉興及び調所を追い詰めようとしたのです。自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であったのですが、斉彬としては何とかして藩主になるためには、こうするより手立てがなかったのです。この斉彬の秘策は的中しました。まず、調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で服毒自殺して果てました。
その頃、西郷は、同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門(よしいじんざえもん・後の幸輔、友実)や上之園郷中の伊地知竜右衛門(いぢちりゅうえもん・後の正治)、高麗町郷中の有村俊斎(ありむらしゅんさい・後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた、後年西郷の無二の盟友となる大久保正助(おおくぼしょうすけ・後の一蔵、利通)らと共に、誠忠組(せいちゅうぐみ)というグループを作っていました。(注・郷中とは、ごじゅうと読み、町内の区画のこと)これは、若き二才(にせ・薩摩では青年という意味)達が集まった若手勤皇集団といったものですが、西郷は加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら・町内の若手リーダーのこと)を勤めていた関係から、非常に人望があり、その誠忠組のリーダー的存在になっていたのです。そして、その斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出しました。西郷が提出した建白書は現在には残っておらず、その内容は定かでないのですが、農政に関する内容であったと伝えられています。いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったことでしょう。




岡田以蔵と、岡田井蔵は別な人物なのですか?
2005/3/17(木) 0:20
・幕府役人の岡田は「いぞう」ではなく「せいぞう」と読みます


幕末当時では木戸孝允は「こういん」と「たかよし」のどちらが広く通っていたのですか?
2005/3/17(木) 1:17
・当時は漢字を音読みにするのが流行っていて、人名も同様でした。もしかしたら読み間違いを避ける意味もあったかもしれないですね。そのため、明治期の資料を参考にしている文献は「こういん」という人が多いですし、お年寄りも「こういん」と呼ぶ方が普通だと思います。そういう流れで学んだ人は今でも「こういん」と呼ぶようです。幕末当時は桂小五郎ですし、当時はそちらの名前の方が通りがよかったでしょう。


岡田以蔵について
2005/3/19(土) 2:07
・以蔵の写真・絵はありません。

・生没年は、1838〜1865(天保9年〜慶応元年)です。

・墓は、高知市薊野というところにあります。澤田マンションというかなり古いマンションから左に歩いていくと土佐勤皇党員岡田以蔵の墓、という看板があります。ただそこから山に登っていくんですがはっきり行ってかなり分かりづらい。誰かが手作りで作った看板があるんですがかなり注意して見ないと見失ってしまいます。ちなみに墓標にある名は以蔵ではなく宣振になっています。県交バス高知営業所方面行き、比島橋下車徒歩20分。あざみの保育園て所の向かいの山だけど。詳しくは「龍馬 ゆかりの人と土地」高知県立坂本龍馬記念館/この本を参照してみよう。

・1838〜1865。身分の低い侍(下士)のため道場通いはできなかったが、木を削って木刀を作り、見に血の素振りを欠かさなかった事で3年目で初伝の域に達したという。やがて、武市半平太にその腕を認められ、彼の道場に入門。続いて一緒に江戸へ行き、桃井道場の鏡新明智流を学ぶが、生来の粗暴さのためか認めてもらえなかったらしい。

・岡田が入牢した獄卒同士の会話として、「歯の反ったやっちゃ」という言葉が、武市瑞山の日記に記録されています。


ペリーについて
2005/3/21(月) 0:17
・1794年アメリカ北東部のニューポート生まれ。15歳で海軍に入りメキシコとの戦争で手柄をたて東インド艦隊の司令長官となる。1853年アメリカ政府の命令で日本開国を要求するフィルモア大統領の手紙を持ち1853年6月3日軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に来航。幕府は仕方なく手紙を受け取ったが返事は翌年に。幕府は不再び浦賀(神奈川の横浜)に来航し日米和親条約を結ぶ。

・アメリカの海軍の軍人です。一八五三年、軍艦を率いて浦賀に来た。翌年また来て、幕府に港を開くことを約束させた。



河上彦斎について
2005/3/21(月) 0:24
・肥後藩出身。騎乗中の佐久間象山を襲い暗殺。このため「人斬り彦斎」と呼ばれるようになる。その後明治政府から攘夷思想を危険視され処刑された。享年38歳。辞生の句は「君がため死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん」

・同志の加屋霽堅(神風連副将)の彦斎伝によれば小柄だったそうです。

・河上彦斎は宮部鼎蔵の弟子です。宮部は肥後藩の正式な軍学師範でした(山鹿流)。長州の吉田松陰の門下から多くの維新志士が輩出されたように、宮部と弟子たちも「肥後勤王党」を形成し、その多くが幕末の京で命を落とします。彦斎は肥後勤王党の数少ない生き残りです。

・写真は無いです。肖像画は現在行方不明です。肖像画は、かつて熊本での慰霊祭(現在休止中)では展示されていましたが現在行方不明です。彦斎の遺品は熊本城天守閣に収蔵展示されていましたが昭和30年代に盗難に遭いました。

・幕末屈指の抜刀術の使い手ですね。

・佐久間象山を斬ってから、人斬りの足を洗ったといわれてます。

・元治元年七月以降、新選組が総力を挙げて倒そうとした志士です。

・彦斎を斬るために新選組に入隊した隊士(三浦啓之助)もいましたね。

・高杉晋作や桂小五郎とも交友がありました。奇兵隊の隊士たちからの人望も厚かったようです。

・池田屋で死亡した宮部鼎蔵と松田重助の墓碑を建立したのも彦斎です。

・肥後藩士。明治四年に刑死。広沢真臣参議の暗殺犯であった疑いもある。るろうに剣心のモデル。

・河上彦斎は剣客でもあり、国学者でもあり、また優れた文才をもちたくさんの和歌を詠んだ

・「人を斬るのは木偶を斬るのも同じだが、象山を斬った時は身の毛がよだつのを感じた。象山は当代の豪傑。こっちの命まで消え失せる気がした。」と感想をもらし、人斬りの足を洗ったといわれる。

・人であればどんなものでも真っ二つに斬れる人物。頭蓋骨も切り落としたという伝承がある。切れ方があまりに綺麗で、取れた首が再び綺麗にくっついたと言う。(もっとも相手は死んでいたが) 幕末はおろか史上最強にして最狂の剣士であることは疑いの余地がない

・河上彦斎は幕末の三大人斬りとして有名ですが、はっきりとしているのは佐久間象山暗殺だけです。もともと肥後藩の下級武士だったのですが、熱心に勉学にはげみ勤王活動も活発だったため肥後藩が京都に朝廷の護衛として派遣する時メンバーの一人に選ばれました。そしてもっぱら三条実美らに護衛として行動をともにしていたようです。志士たちのトップともいえる人々の会合に彼の名もあることから、かなり志士の中では中心的な存在だったようです。しかし、長州に身を置いていたとき故郷・肥後が形成不利な幕府側として戦い続けているのを知り、故郷では脱藩者としてお尋ね者になっているにもかかわらず帰国します。そして朝廷側が巻き返し、幕府が滅びる後まで彼は獄中にいます。釈放後志士の人材不足な肥後藩は彼を高い役につけ、京へ送りますが、かつての同志達は以前語り合っていたのとは全く違う新政府をたてていました。怒った彼は旧友らを訪ね歩きますが、皆恐れて会おうとはしませんでした。絶望した彼は故郷に戻ります。その後反乱を企てたとして処刑されますが、実際そうであったかは定かではありません。


伊庭八郎について
2005/3/21(月) 1:07
・静岡県沼津で転戦中、三枚橋(沼津城下)あたりで遭遇した敵を味方と誤認、手首を失いました。
その後  斬られた手首の治療にあたった医師は、伊庭に麻酔の使用をすすめたが、 伊庭は「人が自分の骨を削るというのに、眠ってなどいられるか」といって断った。そして、ついに手術が終わるまで顔色一つ変えなかったそうです。その後、木古内の戦いで再起不能の重傷を負った伊庭は、モルヒネを飲んで息を引き取ったそうです。

・江戸下谷御徒町にあった心形刀流伊庭道場の嫡男ですよ。(跡は継がなかったけど・・・)



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